ハッピィバァスディ
「ハッピィバァスディ」
屹度不思議に思う人が大半であると思うが(こういう自分も余りの非現実さに瞠目しているのだけれど)人は死んだら、「電柱」になるのであった。
電柱とは。そう、あの電柱である。道端にぼこぼこ立っているあの木偶坊のようなコンクリートの塊である。
電柱:電信、電話、電灯などの電線を支える柱。でんしんばしら(広辞苑第六版より引用)。
屹度人間誰しもが(犬や猫、果ては小さな虫までもが)生涯で一度は目にしているであろう電柱に、人が死んだらその無機物に生まれ変わる(という表現が正しいか否かは保留にしておく)と誰が信じられようか、否、信じることなど出来ないはずだ。ナンセンスにも程がある。
ちいさなこどもはよく人ではないもの……たとえば、犬だったり花だったりをよく人に譬えたりするが、この説を唱えているのは紛れもなく大人で、しかも困ったことに、立派な研究者様だったのだがら余計にたちが悪かったのだ。あの偉大な立派な○○先生がまた「素晴らしい」説を発表したようだ!と世間はけたけたと笑い、メディアは恰好の餌食として彼を報道した。教授は「希代の」説を発表したとして煽り立てられた。希代が世にも珍しいことという意味なのか、怪しいことという意味で使われていたのかは、想像に難くないだろう。
兎にも角にも、世界的権威であった坊大学の○○教授は「人が死んだら電柱になる」という奇想天外摩訶不思議な説を堂々と、恥じらいすら見せずに提唱したのだった。
それをぼんやりと朝刊で読んでいたのが数十分前のことである。その時は教授の荒唐無稽な説を嘲笑していたのだが、今は違う。
困ったことに……電柱になってしまったのだ、私は。
教授の提唱した奇天烈な説のように。
つまり私は死んだのだった。
遡ること数十分前。
私は家のリビングでゆったりコーヒーを飲みながら朝刊に大々的に報道されてしまっている教授を馬鹿にしていた。私がいつも取っていた新聞でも、姦しく騒ぎ立てるテレビのニュースでも今日は教授の話題で持ちきりだった。ちなみに教授が「電柱説」を唱えたのは昨日のことである。一日ですぐに話題になってしまったのが教授の権威故なのか、はたまたその突拍子もない説だからなのかはいまいち判断がつかないが恐らく両方理由に挙げられるのだろう。退屈な日常にほんの少し刺激を与えるだけで生活は劇的に変化してしまうものだ。私たちもそれを理解しているし、そんな日常の中の非日常に憧れを抱いてしまうものだ。困ったことに。だからこそ、このような話題が上るとすぐに飛びついてしまう。これは仕方のないことなのだろう、といつの間にか思考が脱線してしまっていた。こんなことを考えたって仕方がないというのに。
教授が話題になるのも無理はない。
なんせ、ノーベル賞を獲得してもかしくはないような実績を持っていた教授(彼は量子力学の教授であった)がまさか、そんな素っ頓狂なことを言い出したのだ。メディアを始めさまざまな場所が話題に持ち出すのも当然のことだろう。
とはいえ、いつものように五時に起きてから七時になるまでのこの二時間、ずっとのべつまくなくこの話をされると、いい加減うんざりしてくるというのも本音である。たまには違う話題も出せば多少は面白みもあると思うのだが。
私は、空っぽになったまだコーヒーの匂いを纏ったままのマグカップを流しにおいて、椅子に掛けておいた背広を羽織った。
たまには時間に余裕をもって出かけようと思ったのだ。それに、「電柱説」の話題に飽きてもいたし。普段はばたばたしていて忘れ物したりしてしまうから。
……けれども、その気まぐれがこんな運命に導いてしまったのだろう。私は経験上、滅多なことをするとろくなことにならないことを知っていたはずだったのに。
意気揚々と玄関を出た私は偶然家の前を通りかかった大型トラックに偶然ひかれて偶然死んでしまったのだ。
なんてあっけない。なんてひどい。なんて、むなしい。
いろいろと思うところはあったが、私は徐々にじわじわと上りつめてくるくる死を覚悟していた。屹度死の匂いは血のような濃い匂いがするのだろう。けれども血のようにいやな臭いではなく、どうしても人を引き付けてしまうような濃厚な甘い匂いなのだろう。だからこそ昔の文豪、たとえば太宰治であったり芥川龍之介であったりが「死」に酷く興味を抱いてしまうのだ。死の匂いは腐った梨のような熟れた甘さを湛えているのだ、屹度。
このような他愛もないことを考えているうちに意識が遠のいていくのだろうと考えていたのだが、一向に薄まる気配がない。そもそも痛みすら感じていないのだ。これが本当に「死」というものなのか、疑問になってしまうほど。恐る恐る目を開けると、目の前は灰色だった。
此処が死後の世界か、と周りを見回そうとしたが身体が動かない。何故なのだろうか。もしかしたら私はまだ死んでなどいなくて、植物人間の状態にでもなっているのだろうか?わからない。
ざわざわと人の声が聞こえてきた。耳は正常に働いているのか、と少し安堵したところでふと首を傾げた(ような気がした)。いったい誰が周りにいるのだろうか。家族なんて私にはもういないに等しいし、知り合いもたいしていない。そんな状態だから友人なんて数えるほどしかいない。しかもその大半が疎遠になっているのだ。疎遠になっている人たちが自分に会いに来るわけがない。ということは、いったい誰がそばにいる?
ちいさいこどもや、若い高校生のような高い声、老人のような嗄れ声、噂好きそうなおばさんの甲高い声。
そこに紛れてくるのは「デンチュウ」という単語。
デンチュウ……電柱?
まさか、そんなはずは。
ごくりと唾を飲むが、そもそも唾なんてでるはずがなかった。唾を生成する器官が私にはもう既に存在していなかったからだ。嚥下する喉すら、もうない。
ねえ、おかーさん。おうちの前に、おっきい電柱があるよお。
変ねえ。こんなところに電柱なんてなかったのにねえ。
もしかして、あのセンセイの言い分は正しかったんじゃあないの?
まっさかあ。あははははは。
……まさか、私は本当に、死んで、電柱になったというのか?
血の気がさっと引いた。もし私が本当に死んで、電柱になったとするならば私には血なんてないのだけれど。
嗚呼、どうして。いったい私がなにをしたのだと言うのだろうか。先程まであの教授のことを馬鹿にしていたからなのか。そんなことを言ってしまえば今私を見て面白そうにけたけたと笑っている人たちだって同罪じゃあないか。でも何故私だけ電柱になってしまったのか?ぐるぐるぐるぐると思考が渦巻いた。電柱に思考があるかなんて私は知らない。けれども私が今此処で思考できているということは少なくともそれに近いものはあるのだろう。けれどもこの思考能力もあと少しの命なのかもしれない。私の身体が人として機能しなくなったということは私を私だと認識できる脳とて例外ではないだろう。いつかは人としての役割を失い、脳はただの電柱の飾り物になってしまうのか。
ああだって今も私は少しずつ自分が電柱になっているのだということを理解しているのだ!これが何よりの証拠だ。人間のかたちを保っているのであるならば、普通の人間ならば自分を電柱だなんて思わないだろう。人間という身体があるからだ。そうして人間だと識別できる脳をその中に収めているからだ。けれども今の私はどうだろう。人間としての身体を持たず、徐々に脳も人間らしさを失っていく。恐ろしくて仕方がない。この恐ろしさも次第に失われていくのかと思うとやるせなくなる。怖い、恐い。どうして私が?どうして私だけが?
否、違う。もしかしたら私だけではないのかもしれない。私たちが常日頃見つめてきた電柱はすべて、死んだ人間たちなのではないのだろうか……。
つまり電柱は人柱。人によって作られたものなどではなく、人で作られたもの。便利な電気を供給してくれる柱ではなく、人の命を吸い取って電気を生み出す柱。電柱はだから私たちをいつも見つめていたのだろうか。私たちが見つめていたのではない。私たちが見つめられていたのだ。本来ならばそこにいることができたはずの自分を彼らは私たちを通して見つめていたのだろう。どんなに悔しかっただろう。どんなに憎らしかっただろう。幸せに生きる人々が。自分たちの命を奪い取ってまでのうのうと生きる人々。どんなに生きたかっただろう。
突然の事故や事件、自殺や心中、病死……屹度さまざまな死因がそこにはあるのだろう。それは電柱の数だけあるのだろう。理由はどうであれ、電柱になったものは皆公開を抱いたまま死んでいったはずだ。そうして何らかの罪を背負っているのだろうか。そうでなければ人柱になるわけがない。いやむしろ何の罪もない人間が人柱になるのではなかったか。人身御供というのは人間の神に対する「最高の奉仕」であるらしい。生きている人間を神に捧ぐ(つまりは殺す)ということがどうして「最高の奉仕」にあたるのだろう。わからない、わからない!
罪深いのはきっと我々ではなく外の人間なのだ。すなわち今此処で我々を大して興味もなく眺めている人間たちだ。我々をただの道具としてしか認識していない冷酷な動物たち。四足歩行をやめて二足歩行になった代わりに、動物の愛情を失ってしまったニンゲンたち。何故、何故我々が虐げられなければならないのか。我々はニンゲンたちを常に裕福にし、温かさを与え、安らぎを与えてきた崇高な存在である。本来ならばニンゲンごときが干渉できるような存在でさえないというのに。ニンゲンは酷く愚かだ。動物にはない賢さを身に着けたが根本的なものを理解することができないでいる。だからこそ我々に簡単に干渉することができる。その姿は愚かでちっぽけではあるのだが、愛おしいと思うものでもある。愛でるべき対象ですらある。我々の恩恵がなければ生きていくことすらままならないちっぽけな赤ん坊のような存在。我々に依存することでしか生きる術を持たないちいさな存在。我々が大人であるならば、ニンゲンたちはちいさなこども。親の手をぎゅうと握って離さない、しがみつくちいさなか弱いおさなご。だが親は子に厳しくなければならない。獅子の母親は子のためにわが子を泣く泣く崖から突き落とすという話をどこかで聞いたことがある。今のニンゲンの親は獅子の母のように子に辛い試練をあたえることなど出来なくなってしまったのだという。それも一種の愛情なのかもしれないが我々はニンゲンの母親とは違う。我々からしてみればニンゲンの母親父親ですら子どもにすぎないのだ。我々は母獅子のように子を崖から突き落とす。たとえ足が折れようとも皮が剥がれようとも脊髄を損傷してしまったとしても、子どもがひとりで生きていくためには仕方のないことなのだ。わかるだろう諸君。これは我々大人たちの義務であり愛情なのだ。だから我々は、我らのかわいいこどもたちのために我々の身も犠牲にする。きっとこどもたちはわかってくれるだろう、親の愛情を。そうしてひとりになっても生きねばならないということを。さあ同胞たちよ!我々の愛を示す時が来た。死んだ人間の、生きているニンゲンたちへの憎らしいほどの愛情と哀情を。
「……全国で停電?」
「そうらしいよ。全国の電柱が一斉に倒壊しちゃったらしいのよ。一斉にだよ、こわいよねえ」
「復旧のめどは立ってないらしいよ。……困ったよねえ、これじゃあ情報収集すらろくにできないよ」
「そういえばさあ、○○教授が変なこと言ってたじゃん。死んだ人がなんとかって。もしかしてそれの祟りだったりして」
「やめてよぉ」
かわいいかわいいわが子たちへ、最高の愛情を。これからおまえたちは新しく生まれ変わるよ、お誕生日おめでとう。
完