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獄卒

作者: 東海三果

 これは作り話であると前置きしておく。


 私はある一級河川のそばに住んでいた。土手に隔てられた向こう側、河川敷の原っぱは草木や虫の宝庫であったが、川に下りられるために遊び場としては「行くな」と母から禁じられていた。

 親から禁じられてしまっては、幼稚園児ではどうしようもない。私は専ら土手の上のみで草花を摘み、虫を捕まえて遊んでいた。家のそばの道路から土手に上がり川上側に少し歩くと、土手の植生とがらりと変わって唐突に灌木が生えている場所があった。

 灌木の中には、なんとも奇妙なものが彫られた石があった。武器を持った腕が6本もある、馬の頭を持った何かだ。お地蔵さんにしては奇妙なその像を父に訊ねてみたところ、馬頭観音だろうという。

 馬頭観音とは、観世音菩薩の変化の一つであるが、憤怒の相をとり煩悩を大食の馬の如く喰らい尽くすというものである。これが民間信仰として広まる際に、家畜の馬の供養としての側面が強まったらしい。

 私が見た物は、農作業用か荷運び用として街道を往来した馬の供養塔としての物と思われた。


 この石像は、私の興味関心の対象となった。何故馬の頭なのか、何故腕が6本もあるのか、何故武器を持っているのか、そして何故、このような位置に立っているのか?

 石像は、土手・川を背に立っており、その前には立派に舗装された道路が真っ直ぐに伸びている。道路側から見れば、車二台がすれ違える幅の舗装道路が、この石像の前で突然途切れるという状態だ。つまり、前にある道路に対する何らかの役目を持ってこの石像は存在する、ということだ。

 道に関することであれば、馬ならば午の方角である真南に伸びるものかと思うのだが、残念ながら若干東寄りの巳の方角だ。おそらく間違いなのだが、幼少期の私はこの方角の概念に固執しており、石像の意味を捉えきれずにいた。


 時が経ち私が小学校高学年に上がった頃、像の前の道沿いの家で不幸があった。祖母が言うには、亡くなった方は癌でたいそう痛み苦しんだそうだ。

 私はたまたま出棺の場面に出くわしたのだが、それは私の家の葬儀などの仏事では見たことのない、奇妙な儀式だった。馬頭観音にお供え物を上げ、葬列の人達が何やら拝んでから、長い竹竿の先に白い布を吹き流しにして動き始めたのだ。続く人達は皆、白い布を頭巾のように被り、しずしずと進んで行く。

 葬列が私の前を通り過ぎるとき、誰彼となく言っていた言葉が、こう確かに聞こえた。

「地獄の沙汰も金次第」


 それ以来、私は努めてあの道は避けるようにしている。

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