プロローグ (3)
夏の夜の央田川沿い。
この時期は夜の寝苦しさから、川風にあたって涼を得ようという風流な人も少なくない。
特に数多く架かる央田川の橋の数々の中でも、桜木橋は歩行者限定の橋であると同時に、橋幅もすっきりと広く、ぱっと見にはちょっとした公園のような風情があり、夜の散策にはもってこいの場所である。
そして今宵も、橋を渡る人影。
明るい橋の照明に照らされて見えるその様子から、どうやら二人連れの男女のようだ。
もしかすれば、ちょっとしたデートの類なのか。
男女は楽しげに談笑しつつ、橋を渡ってゆく。
すでに知れ渡っている注意のせいもあり、男性は腰に帯刀している。
その点に関しては最低限、気は配っていると見ていい。
が、それだとしても辻斬りの出没が噂されている場所である。
むやみに近づく行為自体はお世辞にも褒められない。
危険は回避するものであって、飛びこむものではない。
無論、回避が不可能な危険ならば話はまた別になるのだが……。
とにかく、
不用意に危険な場所へ近づくのは避けるが吉である。
だがそれも今となっては詮無い考えだろう。
獲物を狙う目は闇に光っている。
その事実を獲物自身は気づきもしない。
そういうものだ。
そして……、
男女がちょうど橋の中央辺りに差し掛かった頃だろうか。
「おーい、おふたりさん」
突然に女のものと思しき声が橋に響く。
と、とっさに二人連れの男性のほうが声のした方向を見定めつつ、剣の柄へ手を伸ばす。
「誰だ!」
夜の闇を裂くような力強い声である。
その様子からして、男性はなかなかに(使う)と見てよい。
思えば、その自信からのこうした夜の散策だったのかもしれない。
「お兄さん、こっちだよ。こっち」
続けて聞こえてきた声の方向へと目をやる。
すると目にする。
声の主。
橋の欄干に腰を下ろし、どこか声は飄々としている。
姿は……恐らくは防断服と思しきセーラー服。
川風になびく長い前髪に隠れ、顔の全体は見て取れないが、髪の間から覗く右目の眼光の鋭さだけははっきりと分かる。
ただし、鼻から口元にかけては布で隠しているようで、その面相を確認するのは夜の暗さも含めて容易でない。
「重ねて尋ねるぞ。貴様は誰だ」
相手の様子が分かった安心感からか、今度は男性も音量を下げて欄干の女子に問う。
「誰かは恐らくお察しだと思うけれど、聞かれたからには名乗らずばならないだろうね。私は最近、ここいらで噂の辻斬りだよ」
この返答に、男性は少しく弱めた緊張を改めて強め、
「何が望みだ貴様!」
先ほどの大喝を再び発する。
しかし、欄干の女子はクックッと、声を抑えたような笑いを漏らしつつ、欄干からさっと下りると、地を踏んだ足をさも楽しげに跳ねさせ、すいすいと二人連れへ接近してゆく。
それを見て、男性は連れの女性を自分の背後へ退かせると、ぱっと半身に構えた。
いつでも戦える。
そういう姿勢である。
「いいねぇ。やる気があるのはいいことだよ。特に私にとっちゃあね。でもさ、女の人は別にかばう必要は無いよ。私は辻斬りだが、剣を持たない人間には興味無いからさ」
「貴様……物狂いか!」
「おやおや、ひどい言い方だね。そりゃ、多少は自分で自分を持て余すことはあるけど、それでも努めて冷静に対処はしてるつもりなのに、そうきつい言い方されるとちょっぴり寂しいねぇ」
鼻から口元を隠した布のせいで、この女子が今どのような表情なのか、正確には見て取れないが、少なくとも目は笑っている。
しかも狂気を帯びた目だ。
態度や言動こそどこかふざけたところがあるが、この目だけは独特である。
狂気に混じって殺気が溢れている。
そこへ一陣の川風。
それを合図か、辻斬りを名乗る女子はさらに構えた男性へと近づいてゆく。
すたすたと、何の構えも無く。
気付けば、
両者の間合いは一間を割っている。
「うぬ!」
いかな無防備に近づいてきているとはいえ、相手は自ら辻斬りを名乗っている。
男性もそこは身を引き締めると、いつでも抜刀できるように姿勢をさらに改め、迎え撃つ形を整えた。
「うんうん、いい構えだ」
感心するような口ぶりで言うが、辻斬りはなお接近しつつも、まだ抜刀どころか、構えを取ろうとすらしない。
「ただねぇ……どうだろう。その程度で私を満足させてくれるものか。ちょいと疑問が頭に浮かぶよ」
そこまで言った途端、
男性の視界から辻斬りの姿が消えた。
刹那、
「あっ……!」
短い、吃驚の声を男性が上げたと思うと、夜の闇に風の如く影が踊る。
転瞬。
その場を引き裂くような高い鍔鳴りの音。
次いで声。
「やっぱりか……ま、こんなもんかな。あんまり贅沢言っちゃあ、相手してもらったのに悪いからね」
見れば、知らぬ間に辻斬りは男性の背後へいつの間にやら現れ、そして、
「……ぐっ……」
苦鳴を漏らして男性が前のめりに倒れる。
その場にいた女性は勝負の様子を間近に見ていたが、その目には辻斬りの動きは一切捉えることが出来なかった。
代わりに、叫ぶ。
甲高い悲鳴。
恐怖からの必死の声が辺りに木霊す。
しかし、
すでにそこに辻斬りの姿は無い。
いつ動き、いつ去ったのか。
それすら分からない。
突然に現れ、突然に消えた。
後に残ったのは、
打たれて倒れた男性と、連れ合いの女性。
響き続ける女性の悲鳴を邪魔するように、いっそう強い川風が、びゅうっと音を立てて、橋を駆け抜けてゆく。