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プロローグ (2)

「ちょっ……ちょっと、東真、タンマ……」

息も切れ切れになって、喘ぐように撫子が待ったをかけた。


「バカを……言うな……こ、これしきで勝負に待ったをかけ……るなぞ……」

「そ、そんな……こと言って、あんた……だって、息切れ……してんじゃん……」

ほとんど姿勢も維持できないほどに疲弊し、東真も撫子も肩で息をしながら妙な掛け合いを続ける。


すでに勝負開始から十分近い。


両者の実力は拮抗し、東真が攻めれば撫子は受け流し、撫子が攻めれば東真もまたこれを受け流すという攻防をかれこれ数十回繰り返し、ふたりして完全にガス欠の体である。


もはや実質、睨み合うだけがせいぜいの状態。


ふたりして全身から汗を噴き出し、構えた姿勢も、笑い始めた膝のせいでおよそおぼつかない。


「もう、おふたりとも。そこまでふらふらになってまで勝負を続けたって、仕方ないじゃありませんか。ここは一旦、間を置いて、改めて勝負なさればいいことですよ」

呆れた様子でふたりを見ていた純花が、横から口を挟む。


傍目に見ても、もうこれ以上はふたりとも戦いを続けられる状態ではない。


そしてそれは当人同士もよく分かっていた。


ただ、良くも悪しくも意地の強い東真が撫子の提案へ素直に乗ってこなかったために、変にこじれてしまったところがある。


が、それもまた純花のおかげで回避される。


当事者同士ではなかなか譲り合えなかった東真だったが、見物人としての純花の言葉には従っても、自身の中で一定の理解が出来ると考えたのだ。


正直、意地だけで立っていた限界の東真にとって、純花の言葉は文字通りの助け舟。


間接的には撫子にとっても、であるが、つまりはふたりして純花に救われた格好である。


「そ、そうだな……ここらで、ひとつ間を取るのも……いいかも、しれん……」

そこまで言って、どちらが先とも言えぬほど、ほぼ同時といった具合に東真と撫子はその場にへたり込んだ。


「はー……しんどい……」

撫子はその一言で終了。


東真に至っては、そんな一言すらもう口から発する気力も残っていなかった。


すると、

「はい、おふたりともタオルをどうぞ。いくら運動で体温が上がっていても、そう全身汗まみれでは冷房で風邪をひきますよ」

稽古場の端からつかつかと歩み寄ってきた純花がふたりに一枚ずつタオルを渡す。


それをふたりとも無言で受け取ると、揃えたようにどちらもまずは顔と首元を拭き、次に服の間から手を入れて背中の辺りの汗を拭う。


誰しも、汗の不快感を感じる部分は似通っているものである。


「それと、麦茶と金柑漬けを持ってきました。まずはゆっくり休んで、少しペースを落として稽古を再開されてください」

言われ、見れば純花は言った通りに麦茶の入ったボトルとコップをふたつ。それと小鉢に入れた金柑漬けを道場の端へ用意していた。


麦茶は言わずもがな、夏場の水分補給の代名詞であるが、これに加えて金柑を砂糖と酢で煮た金柑漬けは、言わばレモンの蜂蜜漬けより古い歴史を持つ、日本伝統のお茶請けで、運動などによる疲労回復や風邪の予防、滋養食としても優秀な逸品である。


こういう準備の良さは残念なことだが、東真や撫子には期待できない面であろう。


現実に、こうした純花の準備の良さには東真も大いに感心しているし、また、強く認めている純花の長所のひとつである。


ただし、これは昼食のメニューに口うるさい面とも重なる部分であるため、あまり素直には歓迎できない東真であった。


「ほーんと、心憎いよねぇ純花は。心遣いが行き届いててさ。あたしが男なら間違い無く嫁にするわね」

一息つき、なんとか落ち着いた撫子が手放しに純花を誉めそやす。


そうしながらも、ずりずりと横着にも床を這って道場の端へ向かうと、なみなみ注がれた麦茶の入ったコップを取り、それを一気にあおった。


ゴクリゴクリと飲み干す音がこちらにも聞こえるほどの勢いで、すぐにコップを空にすると、撫子は特大の息を吐いて、うっとりとした顔で瞑目し、


「ぶはーっ、生き返るぅ!」

心の底からの声が口をつく。


「ほんとに、一向に学ばんな。飲み物は一気に飲むな。一口ずつ、ゆっくり飲まんと肝心の時に水ッ腹で動きがとれんぞ」

「うっさいわね。いちいち人が幸せ感じてる時に水差してくるんじゃないわよ」

士道を志す者としては極めて正しい東真の言だったが、この場合はいくらか撫子の気持ちに同情もする。


というより、やはりふたりはどちらも極端すぎるのだ。


東真は堅苦し過ぎ。

撫子は柔らか過ぎ。


いっそ、ふたりを足して二で割ればちょうどよいだろうなどと、少し馬鹿げたことを考えて、純花はひとりでクスクスと笑った。


そうこうするうち、東真も端へ移ると、出された麦茶をゆっくりと飲む。


間に、撫子は爪楊枝で金柑漬けを次々に口へ放り込んでゆく。


「ふー、いい塩梅の甘酸っぱさだねぇ。疲れも飛ぶよ」

「お気に召していただいて光栄です」

「いいやねぇ。やっぱ料理の上手な奥さんとか。考え方によっちゃ、純花と結婚する男がうらやましいなぁ」

「あら、気の早い話ですね。まだそんなことになるのはいつになるやら分かりませんよ」

「いやいや、そんなもん、男のほうがほっとくわきゃないって。すぐに誰かが言い寄ってくるに違いないわよ」

「だと、良いのですけど」

「良かないわよ。安心しなさい。あたしらが一緒の間は、変な虫がつかないようにちゃんと目を光らせとくから」

「……えーと、それは……ありがとうございます……」

高楊枝でにんまりと笑いつつそんなことを言う撫子へ、どう言って答えを返したものやら迷った純花は、困惑しつつも、とりあえず謝意の言葉でその場をつくろった。


そんな様子を横目に、東真は口元へコップを運びつつ、いつもの調子の撫子と、困った顔の純花に苦笑する。


ようやくに休憩らしい雰囲気になったといえる。


呼吸も落ち着き、汗も乾いてきた東真と撫子は、揃ってしばし、ぼんやりした。


疲れた体に、心地良い冷風と麦茶の香ばしい香り。金柑漬けの甘い香りが鼻へ入ってくると、下手をすればまだ起き抜けのこの時間に睡魔さえも押し寄せてきそうになる。


とはいえ、純花に言われたことも真実。


飛ばし過ぎは練習の質を落とす。


今はしっかりと休憩することに集中しよう。


そんなことを東真が改めて思っていたその時、


やおら純花は妙な話を切り出してきた。


「そういえば、どうも最近、物騒な噂が広まってますね」

「物騒な噂?」

「ええ。なんでも夏休みに入ってから、央田川沿いで辻斬りが出没するとか……」

「辻斬りかぁ……今どき流行んないことする奴もいるもんだねぇ。ほんと、暑くなると変なのが出てくるから困るわ」

この撫子の意見には、東真もおおむね賛同した。


実際、暑くなってくるとどうにも頭のおかしい連中が増える。


暑さに頭をやられているのか。


それとも、元々おかしい連中が、こういう時期を好むのか。


理由までは分からないが、傾向としてそういうものがあるのは確かである。


「けど法改正があったとはいえ辻斬りなんて聞こえはいいだけで、ただの通り魔でしょ。そういうのは警察に任せて、あたしらは夜に出歩かない。それが一番よ」

「ですね。犯行は夜に限られているとも聞いてますし、おっしゃる通りだとは思います。でも……」

「何、なんか引っかかることでもあんの?」

「ただ……ちょっと、その辻斬りの件で気になる話がありまして」

「……気になる話って?」

「被害に遭われた方の話によると、どうやらその辻斬りの姿というのが……」

そこまで言い、純花は一旦、言葉を切ると、


「女性で、長い前髪と鋭い目。そして、鼻と口元を覆うように布を巻いていたとか……」

戸惑ったような顔でそう言う純花に、東真と撫子もまた、戸惑いに見開いた眼を純花へと向ける。


この特徴を聞いて三人は同時にひとりの人物を思い浮かべていた。


斬人。


もしくは剣を持った紅葉と呼ぶべきなのだろうか。


しかし、問題なのはそこではない。


辻斬りの犯人。


まさかとは思うが、もしや……。


そんな疑念に、しばらく三人は憑りつかれ、二の句を次げずに沈黙した。


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