陰陽少女4
移し身
暗い県道に、チャチャは今夜も、茜の姿で立っていた。小学六年生の、女の子だ。
あまり、多くの車が走っている道ではない。片道一車線の、細い道路だ。お目当ての青い車は、今夜はまだ一台も通って来ない。
住宅街の真ん中を、東から西に貫く様に、道は通っていた。
西の端には、御神楽駅があり、この時間でも結構人は通っているが、今茜が立っている東の端は、夜はほとんど人が通らない。
夜中の一時を回った頃、一台の車が西から走って来た。青い車。茜は、少し眼を細め、微かに笑った。
男の名前は、どうでもいい。二十歳の、大学生だ。
御神楽駅前の、ファミリーレストランでアルバイトを終え、車で隣町まで帰る途中だった。
今までは、隣町から電車でアルバイトに通っていたが、念願の車をやっと手に入れた。中古の、小さな車。色は、青だ。今夜は、愛車で初めての通勤だった。
車は、県道を快適に走っていたが、住宅街を通り抜けようとした辺りで、急にエンジンの調子が悪くなってきた。アクセルを踏んでいるのに、スピードが段々落ちてきた。
「おいおい、頼むぜ。こんな時間に、こんな場所で」
男は、嘆きながら、懸命にアクセルを踏んだ。しかし、車は男の意に反して、プスンプスンと、情けない音をたてて、ついに止まってしまった。
「ちぇっ。やっぱり、中古は駄目なのかなぁ」
男は、車から降りようともせず、ハンドルに頭を乗せて、突っ伏してしまった。自分でエンジンルームなど見ても、分かるはずも無い。
「ねえ。私を、覚えてない?」
「うわ!」
急に声を掛けられ、男は大声を上げて、助手席を見た。いつの間に入ったのか、小学生くらいの女の子が座って、男を見ている。
「ななな、何だよお前!」
男は、反射的にドアを開けようとした。開かない。今まで、走っていたのだ。当然、ロックされている。と、するとこの子は、どうやって車内に入ってきたのか。
夜中。県道。幽霊。
そんな言葉が、男の頭に一瞬にして浮かんだ。凍りつき、ガチガチと歯を鳴らす男に、少女が、もう一度聞いた。
「私を、覚えてない?」
男は、声を出す事が出来ず、首を小刻みに左右に振り、知らない事を伝えようとした。とたんに、少女の眼が大きく開き、黒目がギュッと細くなった。同時に、口がカッと開き、鼻の下が割れて、三ツ口となった。真っ赤な口の中に、白い牙が二本、のぞいて見えた。妖怪。
「本当に、知らないか?」
妖怪の言葉を、男は聞いていなかった。髪の毛を逆立て、白目をむいて気絶している。
妖怪は、少し哀しそうな眼をして、チャチャの姿に戻り、そして車内から消えた。
愛子が教室に入ると、教室の隅で開かれていた井戸端会議から、小西あんずが抜け出して、愛子のそばへ来た。
「おはよう、愛子。ねえ、知ってる?また出たんだってさ、例の妖怪」
「おはよう、あんず。知ってるわ。朝、一番に町内会長が家へ来たから」
ランドセルの中身を、机の中へ移しながら、うんざりしたように愛子が言った。
「退治してくれって?」
あんずの眼が、期待に輝いている。
「何とかしてくれってさ。まあ、アネキに泣き付いて来たんだけどね」
「お姉ちゃんに?じゃあ、どうしてあんたが、そんな仏頂面してるのよ?」
「聞いてよ、あんず。あの、馬鹿アネキったら、自分が面倒くさいもんだから、町内会長に、『その件でしたら、丁度うちの愛子が、今夜から調べようとしていたところなんです。この子にお任せくだされば、なんの問題もありません』なんて、すました顔して言うのよ。どう思う?」
愛子が、ランドセルの蓋を乱暴に閉じながら、言った。
「ちょっと。ランドセルに、当たらないの。でも、嫌なら断れば良かったじゃない」
「だって、いきなり言われて、一瞬固まっちゃった隙に、町内会長に両手を握られて『本当ですか?助かります。さすがは、我が町内に、八神神社有りと言われる神社の、娘さんだ。町内を代表して、感謝します』なーんて、ウルウルした眼で見つめられて、あんただったら断れる?」
愛子は、一息に言ってタメ息を吐いた。
「まぁ、無理ね。でも、出るのは夜なんでしょ?そんな時間に、大丈夫?」
「出るかどうかも、分からないしね」
「何何、八神?お前が退治しに行くのか?」
二人の話を聞きつけて、お調子者の甲斐俊介が、嬉々(きき)とした表情で近寄ってきた。その声を聞いて、他のクラスメイトたちも、愛子の周りに集まってきた。
「そうよ。これって、愛ちゃんの出番なんじゃない?」
明るいスポーツウーマン・鳥谷つぐみが、愛子の肩に両手を置いて、言った。
「ちょ、ちょっと待ってよ。本当に、妖怪が出たのかどうか、まだ分からないじゃない」
愛子が、つぐみの両手を押しのけながら、言った。
「何言ってんのよ。もう、四件目よ」
「そうだよ。本当に、決まってるじゃん」
みんなが、口々に言った。
「よし!それじゃあ、みんなで確かめに行ってみようぜ!」
クラス一のワンパク坊主・島田健太郎が、いかにもワンパク坊主らしい、提案を出した。
「おう、それナイス!なあ、八神。妖怪退治するところ、見せろよ」
「あのねえ、甲斐。愛子は、遊びでやってんじゃないのよ」
あんずが、甲斐と愛子の間に、割って入った。
「なんだよ、小西。お前、八神のマネージャーかよ」
「バーカ。大体、本物の妖怪が、どれだけ恐ろしいか、知らないでしょ?あんたなんか、オシッコ漏らして泣いちゃうわよ、きっと。愛子の、足手まといにしかならないわ」
「なにを!じゃあ、八神抜きで行ってやるよ。おい、みんな行こうぜ」
「おう、俺も行くぜ」
島田が、甲斐に加勢した。
「じゃあ、あたしも行ってみようかな」
長身のつぐみは、そう言って少し身をかがめ、チラリと舌を出した。
「へへ。じゃあ、あたしも」
後ろで聞いていた、委員長・上小牧美穂も、参加を表明した。
委員長・美穂の参加をかわきりに、俺も私もと、クラスの半数以上が声を上げた。
「やめた方が、いいよ」
その一言は、それほど大きな声でもないのに、なぜか皆が騒ぐのを止めて、注目した。佐藤理穂。ぽっちゃりとした、大柄の女の子だ。クラスで一番の秀才だが、おっとりしていて、おとなしい。
「なんだよ、佐藤。お前、ビビッてんのか?別に、無理について来いなんて、言ってねえよ」
甲斐が、言いながら手をシッシッと、犬でも追い払う様に振った。
「それ、妖怪じゃないよ。水島茜さんなんだって」
ぼそり、と言った理穂の言葉に、その場の全員が、凍りついた。
水島茜。去年、五年一組の生徒だった。勉強も、良く出来る女の子で、春休みも塾に通っていた。六年生の、新学期に備えて。
春休みの、最後の日。夜の十時に塾を終えた茜は、塾の送迎バスで、家の前まで送られてきた。
バスの中の友達に手を振って見送り、道路を横切ろうとした茜を、反対車線を走ってきた車が、撥ねた。
家の前で聞こえた急ブレーキの音に、茜の両親が、慌てて飛び出した。
赤い手さげを放り出して、茜が倒れていた。散らばった教材が、なぜかはっきりと茜の死を告げているように見えた。
父は、茜を抱いて家へ飛び込み、救急車を呼んだ。茜に取り付き、泣き叫ぶ母。小学三年生の妹・美希も、必死に姉の名を呼んだ。
門の前に、一匹の黒猫が座っている。黒猫は、たった今起こった事件を、目の前で見ていた。茜が可愛がっていた、チャチャだ。
チャチャは、茜がいつも帰ってくる時間を知っていた。その時間になると、いつもサッシをカリカリと引っ掻いて、外へ出してもらい、門の前で茜を待つのが習慣だった。
塾のバスから、大好きな茜が降りてきて、そして目の前で車に撥ねられた。青い車だった。
チャチャは、車が走り去った方向を、いつまでも見ていたが、やがて開けっ放しになっていた玄関から家へ入り、茜のそばへやって来た。
美希が、茜にすがり付いて、泣いている。チャチャは、茜の頬を一度だけ舐めた。
遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきた。
新学期早々、悲しいニュースが、朝礼で発表された。
よく晴れた、始業式日和の空に、新六年生のすすり泣く声が、一層悲しく聞こえた。
住宅街で起きた事件だが、その時間は人通りもなく、目撃者が居なかった。チャチャを、除いては。
水島家の前の、歩道と車道の境目に、小さな花束とお菓子が置かれた。そして、その花束が無くなった頃、事件は迷宮入りとなってしまった。
「三件目の被害者、あたしの友達のお父さんなんだ。友達っていっても、六年生なんだけど。五年の時、水島さんと同じクラスだった山村ひとみちゃん。水島さんと、仲が良かったらしいよ」
理穂の話は、淡々(たんたん)と続いた。内容は、こうだ。
山村ひとみの父が、仕事の帰り道に例の県道を、車で通りかかった。時間は、夜の十時過ぎだった。車の色は、青だ。
住宅街を通り抜ける辺りで、急にエンジンの調子がおかしくなり、ついには止まってしまった。
「どうなってるんだ?全く」
ひとみの父は、ぶつぶつ言いながら、携帯電話を取り出し、自宅へかけた。すぐに、妻が出た。
「もしもし。ああ、俺だ。車が、急に止まっちまったんだよ。ガソリン?」
燃料計に眼をやったが、半分以上入っている。
「十分残ってるよ。エンジンの、トラブルだろう。明日、修理屋に見てもらうよ。とにかく、ちょっと引っ張りにきてくれないか。場所は…」
ひとみの家には、車が二台有る。母も、買い物などに、よく使うからだ。電話で、現在地を伝えたひとみの父は電話を切り、タバコを取り出して火を点けた。ふう、と一息ついた時、隣にふと気配を感じた。
「うわっ!なんだ、君は?」
小学生の、女の子。悲しそうな顔をしていた。
「私を、覚えてない?」
「ん?」
言われてみれば、どこかで見た顔である。思い出した。何度か、家に来たことがある。
「ああ、水島さんか。ひとみの友達の…」
そこまで言って、背筋が、凍った。二ヶ月前に、死んでいるはずだ。ひとみが、一週間泣いていた。
「うわぁー!」
ひとみの父は、叫びながら車のドアを開けようとした。開かない。ロックされている。ロックを外そうとする指が、かじかんだ様に震えて、上手くいかなかった。
「ひとみちゃんの、お父さん…」
茜はそうつぶやくと、ひとみの父の目の前で、スウッと消えてしまった。
「で、ひとみちゃんのお母さんが来た時には、お父さんは運転席にうずくまって、震えていたんだって。その日から原因不明の熱が出て、今も寝込んでるらしいよ。まあ、あたしはひとみちゃんに、聞いたんだけど」
理穂の、おっとりとした声が、怖さをよけいに際立たせた。
「な、何言ってんだよ。もし、幽霊だったとしたって、どうして見ただけで熱が出るんだよ?」
理穂に突っかかって行った甲斐だったが、その声は上ずっていた。
「ほらほら、甲斐。声が裏返ってるわよ。強がってんじゃないよ」
「うるせえ、小西。だったら、本当に幽霊かどうか、確かめてみようぜ。なあ、みんな」
あんずの指摘は、図星だったらしい。甲斐は、ムキになってみんなに呼びかけた。
「や、やっぱ、あたしパスかな…」
つぐみが、ブルッと身震いして言った。スポーツは得意でも、幽霊は苦手らしい。
「俺も、パス。よく考えたら、今日は見たいテレビが有るんだった」
島田も、見え見えの言い訳を理由に、抜けた。ワンパク坊主も、やはり幽霊は苦手なようだ。
『妖怪』が出ると言われると、現実味が無く、お化け屋敷か肝試しのような気分になるらしいが、『幽霊』となり、ましてそれが実際に死んでしまった、身近な人間の幽霊となると、とたんに現実味を帯びていわゆる『気味が悪い』となるようだ。
肝試しのお祭りの雰囲気は、理穂の話で吹き飛んでしまった。バラバラと、参加者が散っていく。
「なんでぇ!臆病者共め!」
「じゃああんた、一人で確かめに行くの?」
みんなを罵る甲斐に、あんずがイジワルな笑顔を見せて言った。
「う、うるせえ!一人で行っても、面白くねえだろ!白けちまったよ」
甲斐は、プイとソッポを向いて、教室を出ていってしまった。
「あははは。甲斐の奴、今の声も裏返ってやんの。ん、愛子どうしたの?」
愛子は、今のやり取りを聞いていなかったらしい。深刻な顔で、考え事をしている。
「ねえ、愛子ってば」
「はっ。ああ、ごめん」
「はっ、じゃないわよ。コワイ顔しちゃって。ねえ、どうしたのよ」
「うん。さっきの話なんだけど、たぶん幽霊じゃないよ」
「幽霊じゃない?じゃあ、なによ?」
「鬼」
「鬼?」
あんずが、眼を丸くして聞いた。
愛子は、黙って頷いた。
山村ひとみの家を出たのは、夕方の五時だった。放課後、すぐに六年一組の教室へ、理穂と一緒に行ったのだ。もちろん、あんずも付いて来たのだが。
「ひとみちゃん、お父さん治るよ。この子が、治してくれるの」
理穂は、そう言って愛子を紹介した。ひとみは、少し困った顔をして見せたが、勢いに押されて、三人を連れて家へ帰った。
母は留守だった。買い物に出かけているらしい。四人は、父が寝ている部屋へ入った。
「やあ、ひとみ。お友達かい?ごめんね、こんな格好で…」
和室に敷いた布団に寝たまま、ひとみの父は弱々しく笑った。
寝込んでいるひとみの父を見て、愛子の顔つきが変った。幼さが消え、巫女の顔になっている。
「お父さん。お父さんの熱、病気じゃないんだって。この子小さいけど、八神神社の巫女さんなんだ。お祓いしてくれるっていうから、来てもらったの。迷惑だった?」
父は、一瞬驚いた顔を見せたが、娘の気持ちが嬉しくて、すぐに微笑んで首を振った。
「ありがとう。もう、大分良くなってきたんだけど。じゃあ、お願いしようかな、小さな巫女さん」
愛子は、ひとみの父に一礼すると、ランドセルを下ろして、ひとみの方へ振り返った。
「やっぱり。ひとみさんのお父さん、瘴気に当てられてる。ひとみさん、お湯を沸かしてくれる?それから、なんでもいいから白い器に、塩を入れて持ってきて」
部屋の窓を開け放ちながら、愛子が言った。
いつもと違う、愛子の顔つきや口調に、理穂は驚いた。ひとみもその雰囲気に、下級生という事も忘れて、頼り始めていた。この子、本当に治してくれるかもしれない。
あんずが、白いドンブリに入った塩を持って、部屋へ飛び込んで来た。ひとみは、台所で、お湯を沸かしている。
愛子は、ひとみの父の右側に座った。枕元だ。ポケットから出した麻紐で、髪を後ろでひとくくりに縛った。
ヒザに、塩の入ったドンブリを載せ、左手で持って、右手の人指し指と中指の二本を立て、中の塩に突き立てた。
「オン コロコロセンダリ マトゲイニ ソワカ」
ゆっくりと呪文を唱えながら、突き立てた二本の指で、塩をかき混ぜ始めた。ひとみの父は、眼を閉じてじっと寝ている。
理穂とあんずが、息を殺して見守っている。
「オン コロコロセンダリ マトゲイニ ソワカ・オン コロコロセンダリ マトゲイニ ソワカ」
愛子は、塩をひとしきり混ぜると、今度は指先に付けた塩を、ひとみの父に塗り始めた。呪文は、まだ唱え続けている。
額、目蓋、頬、鼻の頭、耳。
塗ったそばから、塩が溶けていく。愛子は、呪文を唱えながら、何度も塩を塗っていった。
「あっ!」
理穂は、思わず声を上げた。ひとみの父の顔全体から、湯気のようなものが出てきたからだ。湯気は、開け放した窓から、どんどん外へ流れていった。
理穂が、となりのあんずに眼をやると、あんずは小さく首を振った。黙って見ていろ、と言うことらしい。
愛子の呪文がようやく終わった時、ひとみがお湯の入ったヤカンを持って、部屋へ入って来た。
「ここへ、お湯を入れて」
愛子が、まだ塩が残っているドンブリを差し出した。ひとみが、そこへお湯を注ぐ。
「おじさん。起きて、これ飲んで下さい」
ひとみの父は起き上がり、愛子が差し出したドンブリを受け取って、中の塩湯をゆっくりと飲んだ。
「やっぱりあんた、すごいわねぇ。アレで治しちゃうんだもん」
「本当。愛ちゃんって、本物の霊能力者だったんだ。ひとみちゃんに紹介するの、本当は少し不安だったんだ」
夕暮れの帰り道で、理穂とあんずは興奮気味に喋っていた。
「ねえ。ところで、瘴気って何?」
ふと思い出したように、あんずが聞いた。
「あぁ、ソレね。鬼や妖怪が、身体から出すオーラって言うか、ニオイって言うか、まあ身にまとっている空気みたいなモノよ。それを浴びると、普通の人は体調が悪くなっちゃうの。吐いたり、熱が出たり。下手したら、死んじゃうこともあるのよ」
あんずと理穂は、思わず顔を見合わせた。
「幽霊を見ちゃって、血圧があがって熱が出ることがあっても、何日も寝込むなんておかしいでしょ?ひとみちゃんのおじさんも、病院へ行っても、原因が分からないって言ってたじゃない。それで、瘴気に当てられたんじゃないかって、思ったのよ」
「なるほどね。それで、鬼か。で、どうするの?」
あんずが、立ち止まって聞いた。
「もちろん、行くわ」
愛子も、立ち止まって答えた。理穂は、映画でも観るような眼で、二人を見ていた。
巫女装束に身を包んだ愛子が、住宅街の外れの県道沿いに現れたのは、九時三十分だった。
背中には卒塔婆を、いや、それに似た木製の霊剣を背負っている。剣の形をした檜の板に、尊勝真言が書いてある。
駅の方には、まだ人通りが多いが、住宅街には、家々の明かりは点いているものの、人通りはほとんど無かった。
愛子は、道沿いにあった月極の駐車場に、目を付けた。車が、十台位止まっている。
入り口から一番近い車の陰に、愛子はうずくまった。県道沿いに立っているところを誰かに見られたら、自分がその妖怪に間違われてしまうかも知れない。
車の陰で、しばらく待った。
一人で待つのは、退屈だった。愛子は、夜空を見上げた。月も星も、見えない。雨でも降りそうな雰囲気だった。
三十分ほど経った頃、愛子は車の陰から立ち上がった。腰が痛くなってきたのだ。
「う…。結構、キツイなあ」
背伸びをしながら、愛子がつぶやいた。その時…。
愛子の位置からは見えないが、はっきりとした妖気が近づいてきた。住宅街の方からだ。
愛子は、ゆっくりと駐車場を歩み出た。
無表情の女の子。これが、茜か。そう言えば、学校で見かけた事がある。
愛子を見て、茜が止まった。夜の県道で、二人は向かい合った。距離は、五メートル。
茜の、頭の良さそうな顔が、ニィッと笑った。ゾクッとするような、笑顔だ。
「あたしを、祓いに来たってわけね」
「手荒な真似は、したくないんだけど」
茜は、フッとため息をついた。
「あたしも、手荒な真似はしたくないわ。黙って引き上げてくれない?」
「そうもいかないの。ところであなた、茜さんじゃないんでしょ?良かったら、事情を話してよ」
「へえ、お見通しなんだ。チャチャって言うの。よろしくね。でも、あたしの邪魔はさせないよ。人間なんかに相談したって、無駄なのは分かってるんだ」
茜の髪が、ザワッと動いた。身体から発する気配が、急に濃くなった。
愛子が身構える。茜の口が、カッと開いて、真っ赤な口の中が見えた。眼も大きく開かれ、黒目がギュッと細くなる。化け猫。
「猫?」
「そうさ。茜は、あたしを可愛がってくれた。茜は、大切な友達だったのさ」
ソレは、すでに茜の姿をしてはいなかった。額から、ねじれた角が二本出ている。口は三口に裂け、牙が覗いていた。
「バラキヤソワカ・バラキヤソワカ」
愛子は、左手の人指し指と中指を唇に当てて呪文を唱えながら、霊剣の柄に右手を掛けた。霊剣と、それを背負う為の紐を繋いでいる金の輪が、キンと音をたてて外れた。
チャチャは、顔の前で両手を構えた。ナイフの様に大きな爪が、ゾロリと並んで光っている。はぁっと口から瘴気を吐き、愛子に飛び掛るために、グッと身体を縮めた。
手ごわいのは、霊気の強さで分かる。愛子は、霊剣を握り締めた。
「シャッ」
飛んできた右手の爪を、愛子は霊剣で受けた。瘴気が弾けて、ジュッと音がした。
真っ赤に焼けた鉄にでも触ったように、ギャンッという悲鳴を上げて、チャチャは慌てて手を引いた。
愛子は、霊剣を構え直し、ジリッと前に出た。瘴気を切り続けて、チャチャの霊力をそぎ落としていけば、普通の猫に戻るはずだ。
チャチャは、右手をペロリと舐め、両手の爪を引っ込めた。両手を招き猫のように丸めて構える。
愛子が、もう一歩踏み込んだ。チャチャが、手をクルリと回すと、愛子の身体もクルリと回って、地面に転がった。
「キャッ」
愛子は、小さく悲鳴を上げた。地面を転がり、片膝立ちになって、顔の前で霊剣を構えた。
チャチャが、またクルリと手を回す。愛子は、キャッと悲鳴を上げて、今度は前方にでんぐり返しをさせられた。
体勢を立て直そうとする愛子に対し、チャチャは空中に有る、見えないボールを転がすように、両手を動かした。
「きゃー」
愛子が、地面をグルグル、コロコロと転がり廻る。自分で、身体の制御が出来なかった。段々、眼が回ってきた。
頃合いと見たのか、チャチャは左手だけクルクルと回し続けたまま、右手に再び大きな爪をゾロリと出して構えた。愛子を地面に転がしながら、ゆっくりと近づいていく。
身体の自由が、まるで利かない愛子は、回った眼でチャチャを見た。獲物を見るような眼ではなかった。悲しい眼だ。
本当は、関係ない者を殺したりしたくは無いのだ。ただ、復讐を果たすまでは、邪魔者には容赦しないつもりだろう。
愛子も、このまま殺される訳にはいかない。愛子は、覚悟を決めた。チャチャを、傷つける覚悟だ。
チャチャは、愛子を地面に押し付けるように、左手をグッと地面に向けて下げた。愛子が、地面に釘付けになって止まった。
チャチャが、愛子に右手の爪を振り下ろそうとした時、愛子の髪の毛がふわりと逆立った。
ピシャッと音がして、稲妻がチャチャを打った。
「ギェッ」
チャチャは、全身の毛を逆立てて、ピンと身体を伸ばし、そのままの姿勢で地面に転がった。
愛子の身体が、ようやく自由になった。愛子は立ち上がり、倒れているチャチャに近づいていった。
愛子の耳に、女の子の声がかすかに聞こえた。遠い声だ。
右手の人指し指と、薬指の二本を唇に当てて、瘴気を祓う呪文を唱えようとした愛子を、チャチャが悲しそうな眼で、睨んだ。痺れて、動けないようだ。
「ごめんよう、茜。仇を取れなくなっちまったよ。茜…茜…」
チャチャは、嗚咽をあげて涙を流した。瘴気を祓えば、普通の猫に戻り、妖怪としての記憶も無くしてしまうだろう。愛子は、唇から指を離した。
また、声が聞こえた。やはり、遠い。
「ねえ、チャチャ。あたしに、一週間くれない?その一週間で、あたしが必ず犯人を捕まえてみせるわ」
チャチャは、愛子の言葉が理解出来なかった。自分を祓うのを、やめるつもりなのか?
「どう言うつもりだい?犯人を見つけたら、あたしは絶対に許さないよ。止めたきゃ、今ここであたしを殺すなり、封じるなりするんだね」
愛子は、チャチャのそばにしゃがみ込んだ。
「茜さんだって、あなたに犯人を殺して欲しいなんて、思ってないよ。逆に、悲しむと思うんだけど」
「どうして、あんたに分かるのさ?」
チャチャは、カッと眼を見開いて言った。瞳に、青白い炎が燃えている。
「茜は、もう戻って来ないんだ。あたしの、この悲しみは、どうしてくれるのさ!」
そう言って、チャチャは牙をむき出した。瘴気が、再び発散し始める。
「美希ちゃんが、居るじゃない」
茜の、妹。それを聞いて、チャチャの瞳にフッと悲しみの色がよぎった。
「茜さん、きっとあなたと美希ちゃんの事が、心配だと思うな。ほら、聞こえない?さっきから、あなたを呼んでいるよ」
また、聞こえた。チャチャ、帰っておいで。女の子の声。今度は、チャチャにも聞こえたようだ。
住宅街の方からだ。家の窓から、外に向かって、美希が叫んでいる。親に咎められたのか、すぐに聞こえなくなった。
「あたしは…」
チャチャの額から、角が消えた。
「一週間よ、チャチャ。茜さんの本心も、あなたに聞かせてあげるわ」
チャチャは、愛子を上目遣いに見ると、ゆっくりと四つんばいになった。身体が、縮んでゆく。やがて、小さな黒猫の姿に戻った。本来の、チャチャの姿だ。
チャチャは、一度振り返って愛子を見た。それから、ゆっくりと住宅街の方へ歩いて行った。
「愛ちゃん、マジ?」
「うん。大マジ」
護符駅前の高級マンション、スカイピアの葵の部屋。テーブルに、葵が出してくれたコーラとポテトチップが載っている。
「お姉ちゃんって、一般の人には有名ってわけじゃないもん。自分の娘が死んじゃった人に、中学生と小学生が『ひき逃げの犯人を、茜さんの霊に聞いてみる』なんて言っても、怒られるだけだと思うのよ」
愛子が、ポテトチップをバリバリとほおばりながら言った。
「ま、そりゃそうね。汐海聖子だったら、位牌に触らせてもらえるかもね。あたしがマジ?って言ってるのは、そのアイディアの事じゃなくて、マジで『移し身』をやるのかって事よ」
移し身。死者の魂を、自分の魂と入れ替える術で、そのまま身体を乗っ取られる事もある、危険な術だ。
「チャチャに約束したんだもん。茜さんの本心を聞かせるって」
「そんなことして、何になるのよ?化け猫になっちゃったんだから、瘴気を祓って普通の猫にしちゃえば、いいじゃない」
テーブルに頬杖をついて、あきれたように葵が言った。
「茜さんも、チャチャと話がしたいと思うの。もし、茜さんが妹をよろしくってチャチャに頼めば、チャチャも恨みが晴れて、普通の猫に戻れるだろうし」
「あらあら、お優しいことで」
キリッとした顔で言い切った愛子の口の周りに、ポテトチップの食べカスが付いているのを見て、葵が笑って言った。
愛子は、後悔することになるかも知れない。
死んだ者が、この世に帰ってきたら、もう冥界へ戻るのが嫌になるかもしれない。家族も、姿が変ってもいいから、このままこの世に留まって欲しくなるだろう。
葵はそれを、口には出さなかった。愛子が、身を持って知ればいい事だ。
潮海聖子が水島家を訪れたのは、その日の夜だった。
突然訪ねて来た有名人に、茜の両親は驚いていたが、前触れ無しにやってきて『茜の霊を呼び出したいから、協力して欲しい』と言われて、部屋へ通してもらえるのは、やはり日本一の霊能者と言う、ネームバリューのおかげだろう。
勿論本物ではなく、葵が術によって、自分を聖子に見せているだけなのだが。
リビングの横の和室に、小さな仏壇が置かれていた。花や、お菓子が真新しく供えてある。二ヶ月で、何気ない毎日に戻れるほど、軽い悲しみではないのだろう。
「始めます」
葵はそう言って、愛子が腰に巻いていた袋から、いくつかの物を取り出した。
白い小鉢。水の入った、瓢箪。人形。
人形は、桃と柳の枝を短く切ったものを、晒しで包んで、着物を着せた様に見せた物で、顔は無い。
小鉢に瓢箪の水を入れ、中に人形を立て掛けて、供える。仏壇の両端に、百目ロウソクを点して、用意が整った。
仏壇の前に、巫女装束姿の愛子が、正座した。その後ろに、葵が立つ。その様子を、茜の両親と妹の美希は、和室に入らずリビングからじっと見守っていた。
葵が、霊気を感じてリビングの方をチラリと見た。いつの間にか、黒い猫が和室とリビングの境に座り、こちらを見ていた。チャチャ。
愛子が、茜の位牌を手に取り、両手で自分の胸に包む様に押し当てた。眼を閉じ、口の中で、小さく呪文を唱え始める。
「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」
地蔵菩薩の真言。
葵は、銀角を右手に持ち、畳をトンと付くような仕草で、上下に振った。銀の輪の束が、サランと鳴った。
ロウソクの火が、ゆらりと動いた。
サラン。
葵が、一定の時間を置いて、規則正しく銀角を上下に振る。
サラン。
ロウソクの火が、ボウッと大きくなった。近い。部屋の空気が、重くなった。
サラン。
小鉢に立て掛けた人形が、重くなった部屋の空気を吸って、青白い光を帯びた。
サラン。
「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ・オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」
愛子の呪文が、続く。青白い光は、人形から位牌、位牌からやがて愛子に入り込み、愛子の身体から入れ替わりに、何かが位牌に入り込んだ。
サラン。
位牌が、一瞬赤く光を帯び、同時に愛子の身体が、青白く光を帯びた。
葵が、銀角の動きを止めた。愛子は、位牌を手から落とし、その場にうつ伏せに倒れた。
「お姉ちゃん…」
美希が、つぶやいた。
愛子の身体が、美希の声に反応したように、ビクンと動いた。
ムクリと起き上がり、辺りを見回す。やがて、リビングからこちらを伺っている水島家の家族に眼を止めた。
「美希…。お母さん、お父さん…」
唇からこぼれてきた声は、愛子のものではなかった。
「茜…。本当に、茜なの?」
茜の母が、恐る恐るといった感じで尋ねた。
「うん。ごめんね、お母さん。あたし、先に死んじゃって」
愛子の眼から、涙が溢れた。
「茜!」
母が、愛子を抱きしめる。その母ごと、父が抱きしめ、それに美希も加わった。全員で、しばらく泣きじゃくる。
チャチャはその輪に入らず、挑むような眼を葵に向けてきた。
「ふうん、なるほど。あんただったら、茜ちゃんも安心して美希ちゃんを任せられそうね」
葵は、チャチャを見て笑って言った。
「さあ、悪いけど時間が無いの。茜さん、あなたを轢いた犯人の家を、教えてくれる?」
葵は、わざと無感情な物言いをした。家族が、愛子から離れた。
「車に轢かれて死んだ人の霊は、その車にしばらく憑いちゃうのよね。近くの人?それとも、遠くの人?」
愛子は、悲しそうな眼で葵を見つめ、やがて小さく首を振った。
「どう言う事?」
「あたし、わかりません。もう、いいんです。それより、もう少しだけお話させて下さい」
葵は、肩をすくめた。時間が経つほど、身体に魂がなじんでくる。この世への執着心も、強くなってくる。
「分かったわ」
もとより、覚悟の上だ。葵は、笑って頷いた。
「チャチャ、おいで」
愛子が膝をついて呼ぶと、チャチャがその上に乗った。
頭をなでる。チャチャは、幸せそうに、眼を閉じた。身体から、瘴気が抜けてきた。
「ごめんね、あたしの為に。でも、もうやめて。あたし、チャチャが人殺しになっちゃったら、悲しいよ」
チャチャは、眼を開けて愛子の顔を見上げた。わずかに残っていた瘴気が、完全に消えた。
「美希を、お願い。チャチャ、今までありがとう」
愛子の眼からこぼれた涙がいくつか、チャチャの顔に落ちた。チャチャは、愛子の頬を一度舐めると、膝から降りた。
「美希」
「お姉ちゃん!」
美希が、泣きながら愛子に抱きついた。
「もう、行っちゃ嫌だよ!」
「美希、しっかりしてよ。いつも、見てるからね。あたしの分まで、親孝行してね」
「お姉ちゃん。この前、ケンカした時、大嫌いっていったの、嘘よ。本当は、お姉ちゃん大好き」
「分かってるわよ、そんな事。いつも、あんたのこと、見てるからね」
二人はしばらく抱き合い、やがて離れて涙顔で笑いあった。
「お父さん、お母さん」
「茜!」
三人で、抱き合った。
「茜、このまま一緒に…」
言いかけた父の口を、愛子が人指し指で塞いだ。
「駄目よ、パパ。そしたら、こうやって身体をかしてくれた子が死んじゃう。この子の、パパやママも同じように悲しむわ」
「茜。ママ、幸せだった。短すぎたけど、あなたと暮らした十一年が、ママの宝よ」
「ありがとう、ママ。ごめんね、突然死んじゃって。あたし、パパとママの子供に生まれて、幸せだったよ。出来れば、もっと生きたかったけど」
父も母も、言葉が出なかった。ただ、涙が止まらない。
「パパ、ママ。犯人を恨むのは、もうやめてね。誰かを恨んで暮らすなんて、悲し過ぎるもんね。約束してくれる?」
「分かった、約束する」
父が、震える声でようやく言った。母も頷いた。
「よかった。ママ、産んでくれて、ありがとう。パパ、ママ。今まで可愛がってくれて、ありがとう」
三人は、固く抱き合って、泣いた。愛子が、コクリと、うなだれた。葵は、そっと眼を閉じた。
動かなくなった愛子に気付いた両親が、娘の臨終に立ち会った時のように泣き崩れる声を、葵は眼を閉じたまま聞いた。
黒い、漆塗りの門の前で、愛子は茜を待っていた。
周りは闇だが、何故かその門も、そこから遥か向こうへ伸びている道も、はっきりと見える。その道を、こちらへ向かって茜が歩いてくるのが、見えた。
「お待たせ、愛ちゃん」
茜が、笑って言った。
「早かったね。もう、いいの?」
「うん。まあ、生き返れる訳じゃないしね。家族に何にも言えずに死んじゃった事だけが、心残りだったから。ありがとう、愛ちゃん」
茜が、漆塗りの門に手を掛けた。
「じゃあ、行くね」
「うん」
茜が、門に力を込めた。闇に、亀裂が走ったように、眩しい光が縦に走った。
その光に茜が吸い込まれると、ビシッと重い音がして、門が閉じた。辺りは、再び闇に包まれた。
愛子は、門に背を向けて、道を歩き始めた。
「あたし、愛ちゃんに教えられちゃったわ」
コンビ二で買ったアイスクリームを舐めながら、葵が言った。
「何が?」
愛子も、同じアイスクリームを舐めている。
「あの家族、茜ちゃんが死んで、すごく悲しい思いをしたはずでしょ?なのにもう一回、同じ思いをさせる事になったじゃない?」
「まあね」
「でも、突然死んじゃったら、何か言い残したくても、どうしようも無いもんね。すごく泣いてたけど、茜さんもみんなも、あれで良かったのかもね」
「うん」
「冥界の門の前で、茜さんと話したんでしょ?」
「ありがとうって、言われたよ」
食べ終わったアイスクリームの棒を舐めながら、愛子が言った。
「ひき逃げの犯人、聞いたの?」
「もちろん」
愛子の表情が、変った。葵は、それに気付いていないように、のんびりとした口調で言った。
「ねえ、愛ちゃん。その犯人、あたしに任せてくれないかなあ?」
「え?」
愛子は、しばらく葵の顔を見つめ、小さくタメ息をついた。
「お願い、葵ちゃん。あたし、手加減できないかも知れない」
「オッケイ、決まり。まあ、あたしがしっかり改心させてやるわよ」
葵が、自分の胸をトンと叩いて言った。
半狂乱になった犯人が、駆け込むように警察に自首して来るのは、それから五日後の事だった。
(完)