王太子妃候補を外されましたので、王都十二施療院の薬草割当もお引き継ぎください
薬が足りない時、必要なのは「誰に何をどれだけ回すか」を決める人でした。
これは、その仕事を当然のように引き受けていた女性が、きちんと返す話です。
王都には、王家の補助を受ける施療院が十二ある。
北区に二つ。
東区に三つ。
南区に四つ。
西区に二つ。
中央区に一つ。
同じ「施療院」と呼ばれていても、必要な薬はまるで違う。
工房の多い東区では火傷薬が減る。
北門に近い施療院では、冬になると凍傷と肺の薬が足りなくなる。
南区は子どもが多く、熱病の季節には解熱薬が一気に消える。
五年前、王太子妃教育の一環で初めて視察した時、私はそんなことを何も知らなかった。
最初の二年は、救療局の担当者について各院を回っただけだった。
三年目から月例会議に同席し、ここ二年は王家の慈善事業補佐として、不足時の調整まで任されている。
今では、十二院の月報を見れば、だいたいどこが先に困るか分かる。
「ヘレナ。少しいいか」
王太子アドリアン殿下に呼ばれたのは、六月三日の午後だった。
私はちょうど、南区第三施療院から届いた薬草使用量の報告を読んでいた。
「はい」
小応接室へ入ると、殿下のほかに王宮書記官が一人いた。
机の上に、婚約に関する文書が置かれている。
そこで大体分かった。
「婚約を解消したい」
殿下は回りくどく言わなかった。
「西方三国との通商協定に合わせ、王家はベアトリス・アルヴァ伯爵令嬢との婚姻を進めることになった」
「承知しました」
「……聞かないのか」
「何をでしょう」
「理由を」
「今、伺いました」
殿下は少し困った顔をした。
私たちは十五歳の頃から婚約していた。
嫌いではない。
むしろ、人としては好きな方だと思う。
ただ、恋をしていたのかと聞かれると、自信がなかった。
王家と公爵家の婚約とは、そういうものだと思っていたからかもしれない。
「父上とも、ヴァレンティン公爵とも話はついている。もちろん、最終的には君の同意が必要だ」
「では同意します」
「早いな」
「決まっている話を長引かせても、薬草は増えませんので」
「薬草?」
「来月の割当会議があります」
殿下が目を閉じた。
「そうだったな」
「婚約解消はいつ付けになりますか」
「七月一日を予定している」
「分かりました」
私は膝の上で指を組み直した。
「でしたら、施療院関係の引継ぎも六月中に終わらせます」
「それは君が続けても――」
「続けられません」
思ったより強い声が出た。
殿下が黙る。
「割当会議で使っている承認印は、王家の慈善事業補佐として預かっているものです。その任命は王太子妃候補である間だけ。婚約が終われば、印も権限も返します」
「……そうか」
「はい」
そこは、気持ちとは別の話だった。
◇
正式な引継ぎ相手は、王宮救療局のトマス・ベルク書記官になった。
三十代半ば。
医療行政に十年以上いる人で、私より制度には詳しい。
「まず確認したいのですが」
最初の引継ぎで、トマスは十二院分の月報を机へ広げた。
「公爵令嬢が毎月決めていたのは、薬草の総購入量ではありませんね」
「はい。年間契約量は救療局が決めています」
「では、何を?」
「不足時の割当です」
彼は一枚目へ視線を落とす。
「この欄ですか。『調整分』」
「それです」
王都全体で必要な薬草を、薬師組合と三つの修道院薬園から買う。
平年なら契約どおりで足りる。
問題は、雨が多い年。
流行病が出た月。
薬園の一つが不作になった時。
足りない薬草を、十二院へ同じ割合で減らせば公平に見える。
実際には、そう簡単ではない。
「去年の九月、南区第二施療院だけ解熱草の割当を一・五倍にしていますね」
「近くの孤児寮で熱病が出たからです」
「北区第一は半分」
「北区はその月、別の薬草で代用できました」
「誰が判断を?」
「院長と薬師から話を聞いて、私が」
トマスが顔を上げた。
「代替できる薬と、できない薬の一覧は?」
「あります」
私は厚い冊子を差し出した。
彼の眉間のしわがほどけた。
「よかった」
「ただし」
顔が戻る。
「患者層によって使えない代替薬があります」
「それも一覧に?」
「今、まとめています」
「今?」
「……はい」
自分で言っていて、嫌になった。
冊子にない条件は、いつも薬師へ聞きに行っていた。
それで困らなかったから、一覧にする必要を感じていなかった。
「六月中に完成させます」
「お願いします」
トマスは責めず、そのまま次の頁を開いた。
その方が、かえって居心地が悪かった。
◇
六月は、ほとんど引継ぎで終わった。
十二施療院の院長。
薬師組合。
三つの修道院薬園。
救療局。
王宮財務局。
会議で顔を合わせれば済む関係もあれば、私が個人的に手紙を出していた相手もいる。
「この印は?」
トマスが、割当表の端にある小さな丸を指した。
「急ぎ対応です」
「規定にありません」
「私が勝手に付けました」
「意味は?」
「翌日までに返事がなければ、こちらから確認に行く」
トマスが額を押さえた。
「そういうものが、あといくつあります?」
「……三つくらい」
「六月中に全部出してください」
「はい」
翌日、私は五つ書き出した。
自分でも驚いた。
◇
六月三十日。
最後の割当会議が終わった。
私は承認印を箱へ戻した。
「これで終わりです」
トマスが箱を受け取る。
「五年間、お疲れさまでした」
「こちらこそ」
「来月から、相談することはあると思います」
「正式な依頼なら」
「もちろん」
彼は笑った。
「そう言うと思っていました」
以前なら、頼まれなくても顔を出したと思う。
今は、それをしないと決めていた。
「来月から、私の承認印は使えません」
「分かっています」
「本当に?」
「たぶん」
私は笑った。
◇
七月一日。
婚約は正式に解消された。
式典も騒ぎもなかった。
私は王太子妃候補の居室を出て、公爵邸へ戻った。
母は私の荷物を見て、
「思ったより少ないのね」
と言った。
「仕事の紙は持って帰れませんから」
「持って帰ろうとしたの?」
「三冊だけ」
「置いてきなさい」
「置いてきました」
その夜は、久しぶりに夕食のあと何もしなかった。
することがないので、庭を一周した。
途中で雨が降ってきて、濡れた。
雨が降りそうなのに庭へ出たのは、ずいぶん久しぶりだった。
◇
最初の正式な相談は、七月二十二日に来た。
救療局名義の依頼状を持ってきたのはトマスだった。
私はその日の午後、救療局の会議室へ出向いた。
「南区で熱病が出ています」
彼は地図を広げる。
「第三施療院の解熱草が、予定の倍近い速度で減っています」
「在庫は?」
「あと六日」
「薬師組合の追加分は?」
「十日後なら入る」
「四日足りませんね」
「王都全体の在庫はあります」
私は地図を見る。
北区第二施療院。
西区第一施療院。
中央施療院。
それぞれに余剰がある。
「なら移せば?」
「それができないんです」
「なぜ?」
トマスが三枚の書類を出した。
薬草の割当は各院ごとの予算で購入されている。
一度納品した薬草を別の院へ回すには、帳簿上は売却か返納の手続きが必要になる。
「去年までは?」
聞いてから、思い出した。
「ああ」
「何をしていました?」
「承認印を使って、救療基金の緊急購入枠で不足院向けに買い上げ直していました」
「直接移送せず、一度基金を通して?」
「はい」
「それ自体は緊急購入の範囲内ですが、院間調整の手順ではない」
「だから引継書にも、正式な規定としては書けませんでした」
できる方法を使っていただけで、次の人が使いやすい仕組みにしたわけではなかった。
トマスは怒らなかった。
「では、今回はどうします」
「同じことはしません」
「だと思いました」
「緊急時の院間移送手順を作ってください」
「今日作って、今日使う?」
「救療局長の緊急通達にして、財務局の副署を取れば暫定運用できます。各院には数量と品質確認の記録を残してもらう」
「財務局が嫌がります」
「だから最初から呼びましょう」
トマスが笑った。
「結局、会議ですね」
「私が必要な人を一人ずつ捕まえて、その場で済ませていただけです」
◇
その日の午後。
救療局、財務局、薬を出す三施療院、受け取る南区第三施療院、薬師組合。
関係者が会議室に集まった。
最初の一時間は、誰の帳簿から薬を減らすかで止まった。
次に、移送分を翌月の補助金で精算する案が出た。
品質確認を各院の薬師が共同で記録することまで決め、ようやく緊急通達に署名が入った。
「以前なら」
会議室を出たところで、トマスが言った。
「あなた一人で二時間くらいで済ませたでしょうね」
「たぶん」
「今日、四時間かかりました」
「はい」
「でも次は?」
「少なくとも、今日と同じ話を最初からする必要はありません」
トマスは緊急通達を見下ろした。
「それなら四時間も無駄ではないですね」
南区第三施療院へ薬草が届いたのは、その日の夕方だった。
◇
熱病は八月の初めに収まった。
私はそれ以降、施療院の割当に自分から口を出さなかった。
秋から冬にかけて、救療局から正式な相談が二件来た。
一つは薬園の水害、もう一つは冬用の乾燥薬草の保管場所だった。
どちらも依頼書を受け取り、相談料をもらって答えた。
九月。
王太子アドリアン殿下が公爵邸を訪れた。
婚約解消以来だった。
「ベアトリスとの婚約は来月発表する」
「おめでとうございます」
「ありがとう」
殿下は紅茶へ視線を落とした。
「彼女には、施療院の割当を任せないことにした」
「その方がいいと思います」
「君が悪かったという意味ではない」
「分かっています」
「妃候補一人が十二院の例外処理を抱える仕組みそのものが、おかしかった」
私は紅茶を一口飲んだ。
「私も、抱えられるから抱えてしまいました」
「救療局に調整官を二人置く。薬師組合からも一人、月例会議に入ってもらう」
「それなら、かなり楽になります」
「トマスがそう言っていた」
「彼なら大丈夫でしょう」
殿下は苦笑した。
「君は戻らないのか」
聞き方が曖昧だった。
「施療院の仕事に、ですか?」
「……それも含めて」
私はすぐには答えなかった。
十五歳から決まっていた未来だった。
なくなった時は、思ったより静かだった。
懐かしいとは思う。
けれど、あの席へ戻る自分は想像できなかった。
「必要なら、外部相談としてお受けします」
「そうか」
「はい」
殿下はそれ以上聞かなかった。
◇
翌年の春。
秋から冬に何度か供給調査を手伝った縁で、私は王都薬師組合の監査室で働き始めた。
施療院だけではなく、薬草商、薬園、地方診療所の供給状況を見る仕事だ。
机の上に、王宮救療局から月報が届く。
十二施療院の欄を確認する。
南区第三施療院。
解熱草、適正在庫。
北区第二施療院。
代替薬、使用可。
備考欄には、
『院間移送規定により調整済み』
とあった。
私の承認印は、どこにもない。
そのまま次の頁をめくった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、薬が足りない時の「割当」を題材にしました。
その場を切り抜けることと、次の人も使える手順を残すことは別なのだろうと思いながら書きました。
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空席あり




