No.17 浄化の町
浄化の町・穢身清町。
そんな名前の町がこの日本にあるなんてことを、私はパパから聞いて初めて知った。そういうパパも、宮司の傍らで師範をしている空手の、他流派との合同試合の申し入れを受け取った時に初めて知ったと言っていた。
「新神流? 聞いたこともない流派だな」
突然届いたメールを読んで、パパはそんなことを零しながらも、嬉しそうに快諾の返信を送っていた。
この話を、好奇心旺盛な『あの人』に話したら、きっと取材に同行したい、なんて言って一緒に行くに違いない。そして『あの人』が行くのなら、必然的に、ママも、弟の誠也も行く、ということになるんでしょうね。
「ねえ、パパ。私も試合を見に行ってもいい? 知らない町なんてミステリアスで面白そう。それに……遠いなら、パパ、その日に帰って来てはくれないんでしょう?」
パパは、誠也のことはあまり好きではないけれど、私のことはとっても溺愛している。だから本当は返事を判っているの。でも、「行きたい」より「行ってもいい?」と訊く方が可愛げがあるでしょう?
予想通り、パパは顔をくしゃくしゃにして笑うと、
「麻衣は十六にもなって、まだパパの傍にくっついていたいのか? しょうがないな」
と私の頭を撫でながら、首を縦に振ってくれた。大人の都合を何も知らない、まだ六歳の誠也もそんな私達のやり取りを聞いて、
「パパー、僕もっ! 僕も行くー」
と真上にあるパパの顔を見上げてその脚に絡みつく。パパは少しだけ表情を曇らせ
「そうか。誠也も男の子だものな。じゃあ、ママに電話をしてみて、いいよ、ということなら一緒に行こう」
とだけ答えて社務所の方へ戻っていった。
パパは知らない。私が全部知っていることを。だから、私の前では誠也にも優しい。そしてやっぱりパパは知らない。私もママと同じで、『あの人』が大好きなんだ、ってこと――。
パパとママが知り合ったのは、ママがまだ十八歳の頃。空手少女が主人公のドラマに出演するママに手ほどきをしたのがきっかけだったそうだ。その時パパは、もう三十歳で、まさかこの二人が結婚するとは世間もママの親族も思っていなかったんだって。
ママに一目惚れだったパパは、ママがプロポーズを受けてくれた時、それはもう有頂天だったそうだ。生粋の体育会系で爽やかな人だから、ママがあんな人だなんて、随分長いこと知らなかったみたい。
こんな時代だから、宮司の跡継ぎなんて嫌がるみたい。それはパパの兄弟もおんなじで。上に三人いるおじさん達はさっさと家を出て就職し、さっさと結婚してしまった。一番上のおじさんの子、つまり、私の従兄に当たる『あの人』――誠二兄さんは、パパと十歳しか離れていない。ママにとっては、パパよりもむしろ、誠二兄さんの方が年がつりあう感じなのよね。誠二兄さんがコンスタントな仕事にありつけたのは、今では大女優になったママの月刊コラムの原稿起こしと写真撮影を、ママが誠二兄さんと指名したから。ママがまた巧いんだ。
「身内だからこそ、厳しい目で見た上で彼にお願いしたいと思ったの」
なんてマネージャーに言っちゃって。でなきゃコラムの仕事なんて忙しいから出来ない、なんて強気で言っちゃって。身内だから、急な依頼でもすぐに対応出来るなんて餌も出版社にちらつかせ、堂々とあの人と逢える時間を作ってしまった。
だけど、私は見ちゃったんだ。あれは小学三年生の時。具合が悪くて熱が出て、だけどパパは神社で結婚式の神職をしている最中で、その他保護責任者として名を連ねていた誠二兄さんとも連絡を取れなくて、私は一人で家に帰ったの。
そっと玄関の扉を開けると、仕事でいない筈のママの、何とも言えない声が廊下まで響いてた。急な病気か何かで苦しんでいるみたいに聞こえたの。自分も頭痛が酷かったけれど、ママに何かあったら、家ははっきり言って生活なんてしていけない。宮司の仕事や空手の師範のお月謝だけでは、神社を維持してなんていけないんだもの。物心ついた頃から、私をほったらかしだったママの心配なんてあまりしてなかったけれど、幼心に「生活がヤバイ」とは思ったのね。
でも、全然そんな心配なんて必要なかった。別に、ママは病気で苦しんでいる訳じゃなかったし。何をしていたか、なんていうのは、丁度その時期学校の保健体育の授業で習ったこと。綺麗事の授業だけでは今いちよく解らなくて、後でパパの目を盗んでこっそりネットで調べて知ったこと。性格が出てるわね、と、ママが誠二兄さんの上になって、背骨が折れそうなほど反り返らせて、喘ぐ姿を見て思ったの。見苦しい、と醒めた目で見ている自分がいた。
寒かった。頭痛と、もう一つ痛んだのは、左胸。ううん、心――。従兄の中でも、誠二兄さんが誰よりも一番私を可愛がってくれたから。あの痛みで、私は誠二兄さんに恋してたんだって初めて自覚した。皆が同級生や中学の先輩に憧れて騒いでいる中で、私一人、「ガキの何処が恰好いいんだ」と呆れてひんしゅくを買っていた。
翌年、誠也が生まれたの。誠二兄さんにそっくりな弟が。流石のパパも、誠也が成長するにつれて、嫌でも気づいた様だった。誠也に罪はない、と知っているパパの苦悩する姿は悲しかった。だから私は、パパも好き。誠二兄さんに対するものとは違うけれど、私だけはパパの味方でいたかった。
だけど、最近ちょっと、それも苦しい。パパより誠二兄さんのウェイトがどんどん大きくなっているから。実直で真面目なのもいいけれど、パパも恋人を作ればいいのに、なんて思ってしまう。そうしたら、少しは私も救われる。堂々と誠二兄さんを好きでもいいんだ、と気が楽になるから。パパを味方につけて、ママから誠二兄さんを奪えるから。ママの敵視する女の目は、私には最近耐えられないの――。
舗装されていないでこぼこの峠を越えていく私達を乗せた車のエンジンは、苦しげな悲鳴をあげていた。オフロード仕様ではないファミリーカーではぬかるみにタイヤを取られてうまく進めなかった。
パパは、苛立ちをぶつける様に誠二兄さんに八つ当たりをする。
「重過ぎるからタイヤを道に取られるんじゃないか? 誠二、お前の荷物が多過ぎなんだよ」
まあ、あながち外れてはいないんだけど。録音機材にカメラ関係、トランクの三分の一を誠二兄さんの荷物が占めていた。
「和也兄さん、ごめんなさい。でも、此処の取材を何処かに引き取ってもらえたら、これ以上麻樹姉さんの世話になって迷惑を掛けるのも少しは減らせると思ったんで」
私が庇おうと思ったのに。誠二兄さんはパパに自分で言い訳をしてしまった。でも、そんな風に思っていたのを初めて知った。誠二兄さんは、ママから離れたいのかな。
麻樹姉さん、と呼ばれたママは、露骨に嫌な顔をして、自分と誠二兄さんの子なのに、誠也に八つ当たりなんかしてる。
「誠、狭い車の中なんだから、少しは静かにしてなさい」
うわ、やらしいなぁ。誠二兄さんと誠也を引っ掛けて言ってる。誠也はちょっとだけ外の珍しい森の景色を見て「すごーい」って言っただけなのに。
「誠也、ホントすごいねえ。東京では見れないよね~」
私は誠也のことも、好き。だって誠二兄さんの子だし、弟だもの。私はおしめを替えてあげていた。私の子と言ってもいいくらい。当然庇いたくなるじゃない?
ママはそんな私を見て、また『女』の目を向けた。もう、今更傷つかないけど。『私もママの娘なのに』なんて。
気まずい車内の雰囲気を壊す様に、突然森が途切れて目を見張る様な新興住宅地が眼前いっぱいに広がった。
「うっそぉ~、こんなところに、こんな真新しい新興住宅地なんてあったのね」
一軒が二百坪ありそうなその広さは今どきとても珍しい。ママはその贅沢さに目を輝かせ、そんな感嘆の声を漏らした。道理で聞き慣れない地名な訳だ。新しく出来たばかりの町だったのね。ミステリアスの内訳があまりにもつまらなくて、私は失望して背もたれに身体を沈めた。同じタイミングで、助手席の誠二兄さんも背もたれに頭までとさ、と倒れてる。シンクロ、ちょっと、嬉しい。
そんな感じで、私達は穢身清町に足を踏み入れた。
私達はまず、メールに添付されていた地図を頼りに、町役場へと赴いた。招待者が町の町長名義だったから。
だけど、何だか様子がおかし。職員さん達が慌しげにフロアをあちらこちらへと走り回っている。
「あの、明日町民体育館で予定されている、新神流との交流試合で参りました、極真会龍和館師範の龍浪和也と申しますが」
パパが受付でそう自己紹介すると、受付嬢は必死という感じで作った笑顔を向けて
「はい、承っております。こちらへどうぞ」
と席を立って案内をしてくれた。私達は地下の喫茶店で待つことに、誠二兄さんは取材申し込みの為パパに同行して町長室へと案内されていった。
不思議なことに、ママを見ても誰もあの大女優『朝霧麻樹』と気づかない。それが、ママの不機嫌を更に煽って、私は居心地が悪かった。
「ねえ、麻衣。あなたは芸能界に入る気がないの?」
珍しく、ママの方から私に話し掛けて来た。
「うーん……あんまり興味ない、かな」
嘘。というか、ママと共演の子役達が家へ挨拶に来る度に、小さな頃から「あんたまでこの業界に入って来たら殺すから」なんて脅し文句を聞いていたら、興味がなくなるのも無理はない、と思うの。
「折角私に似て美人なのに、勿体無い」
何だ、それが言いたかったのね。本気で芸能界入りを勧めている訳じゃないんだ。
私ニ 似テイルダケ、麻衣ハ 私ノ レプリカ ナノヨ――。
ママは今でこそ役作りでブロンドに染めているけれど、元々は柔らかで滑らかな明るい栗色の長い髪をしていた。それは今、私の頭皮を飾っている。見事なまでに、癖毛の感じまで同じなの。卵形の小顔も、色白なのも、日本人には珍しい左右対称の整った顔も、全部それはママ譲り。デビュー当時のママの写真を見ると、私なのかママなのか解らないくらいなの。だからこそ、私は自分の容姿が嫌い。そしてママは、私のこの若さが大嫌いなの。私を見る度に、老いてゆく自分を感じるから、なんでしょうね。だから、人の注目が集まらないことに、過剰に敏感に反応するの。
そんなことに気づかない振りをして、ママの機嫌を取る私。
「ママには、私にはないカリスマ性があるんだもの。だから大女優として世間が認めてるけど、私なんかじゃあ無理よ。折角ママからもらった容姿だけど、ママみたいにもっと綺麗に輝かせるだけの人間的な器がないわ」
「そうかしら? 私だって、岩島さんや佐倉さんに比べたら、まだまだ追いつけていないから焦りを感じるわよ。その証拠に、ほら、この町に来て私を朝霧麻樹と気づく人が誰もいない」
「だって、それはこんな田舎よ? 一階のフロア、見た? 普通テレビくらい置いてるじゃない。此処にはそんなのなかったでしょう? ママが認められていない訳ではなくて、此処が田舎過ぎるだけなのよ」
「あら、そう? そんなところまでチェックしてたの? 麻衣ってば本当、誰よりも私を応援してくれる、私の大切なファン一号ね」
ほーら、やっぱりそれを気にしていたのね、ママは。ようやく機嫌を直し、猫なで声で誠也にアイスを頬張らせてる。ママの不機嫌から解放されて、私も安堵の溜息をそっと漏らした。
丁度話の区切りがついたその時、パパと誠二兄さんが蒼ざめた顔で喫茶店にやって来た。
「麻樹、悪いが明日の大会は中止になった。宮司としての仕事が此処で出来たんだ。仕事の方に戻るなら、誠二の手も借りたいのでマネージャーに連絡を取って迎えに来てもらう様にしてくれないか?」
パパはママにそれだけ伝えると、後は頼む、と誠二兄さんに言い残し、再び店を出て行った。
誠二兄さんが語った大会中止の理由は、私やママにはあり得ないほど非現実的で、馬鹿馬鹿しく、それでいてこの町で事実発生している空恐ろしい出来事が理由だった。きっと、話している誠二兄さん自身も、自分で語っていることの馬鹿馬鹿しさと恐ろしさに戸惑っているのだと思う。時折漏れる苦笑が彼のそんな胸の内を語っていた。
「この町の人が、次々と奇怪な死を遂げているんだ。ほんの三十分の間に二人の人が亡くなってる。町長の話だと……その……『浄化が始まった』というんです」
「は?」
かなり珍しいことに、ママと私の声が同じ音で被った。
浄化の町・穢身清町。
この町は、決して新興住宅街ではなく、十数年前までは、かやぶき屋根の連なる小さく古い集落だったそうだ。その名の由来は、古くからこの町の住民が信仰している地元の神社に伝わる伝説から取っているのだと言う。
遥か遠い昔、神道が重んじられていた時代に、ある住民が国つ罪を犯したという。国つ罪――それについては、人を傷つけることや、親子間での相姦などいろいろあるけれど、地域によっていろんな拡大解釈がされているということを、パパの書棚にある本で読んだことがある。この町では、その住民は実の子を姦淫し、全てお見通しの氏神様が、町(その当時では村だったのでしょうけれど)の『浄化』を行なったと伝えられているそうだ。穢れに触れた者にもそれが感染するという考えが神道の考え方。住民は次々と『浄化』された。神隠しの様に消えた者、四肢をばらばらにされて苦悶の表情で息絶えた者、いろいろあるのだが、全ての死体から血は流れていなかったのだという。『血』は『国つ罪』を招く『穢物』だからだろう、と私は勝手に推測した。
その伝説は現在もこの町に生きていて、十年弱ほど前に、『浄化』が行なわれたという。その時は当該人物が判明し、当時の宮司が犠牲となって、その人物を『浄化』したそうだ。触れた者は感染する、つまり、その宮司はその人物をこの町の外に出し、他の住民が触れない内にその人を殺害したのだという。その後自分も自殺をし、『穢れ』を町から一掃した。此処の町民は、彼の犠牲を無にしない為この事件を隠蔽した。遺体はねんごろに弔われ、その呪われた事件の痕跡を跡形もなく消す為に、十年近い歳月を掛けて、町の整備を行なったのだという。
穢身清という町名の由来は、穢れから身を清める村、という意味を込めているのだと町長は語ったらしい。惨劇を二度と起こさぬ様、その町名を冠にして、町民一人一人が自戒の念を抱く様、その惨劇を風化させぬ様にと、当時の町民の願いを込めて名を変えたのだそうだ。
「――あり得ない、という感じでしょう? この時代にナンセンスだ。その与太話はさておき、人が異常な形で亡くなっているのは事実なんです。麻樹姉さんは影響の大きい人だし、こんな危険なところからは、麻衣と誠也を連れて先に帰った方がいい」
ちょっと待って、誠二兄さん。私がそう言い掛けた時、ママが私と同じ疑問を口にした。
「あなたと和也さんは、どうするの? すべきことって、何?」
その声は、パパを心配するというより、子供達を自分に任せ切りにされる不満の色を帯びている。そして、誠二兄さんに対する「何故自分を放っておくのか」という批難の意味も含んでいた。何て我侭な人……。問い掛ける疑問の音は同じなのに、そこに乗せる思いの違いに、改めて私はママに幻滅した。
「今、この町には宮司がいない。兄さんは、神の声を聞いてそれを住民に伝えなくてはならないから、って、何はさておき神社に向かうそうです。俺は、明日和也兄さんが改めて迎えに回る予定だった生徒さん達に試合中止の連絡をして――取材を、したいんです」
「な……何考えてるの、君?!」
「そんなの、駄目っ!」
ママと私が、同時に誠二兄さんの目的を聞いて叫んでしまった。その声の大きさと鋭さに驚いた誠也が、驚いて「ひ……」と泣き出してしまった。困った表情をしてはいるけれど、大人達の中で唯一笑みを浮かべている誠二兄さんのもとへ誠也は駆け寄る。まるで私の願いを代わりに叶えてくれるみたいに。傍にいて。一緒に帰ろう。此処は、『浄化の町』と化しているのでしょう? 人が異常な形で亡くなっているのは確かなんだもの。誠二兄さんはパパと違って、神の声が聞こえない。どうすべきかも解らないまま、もし『浄化』に巻き込まれでもしたら、誠二兄さんに何かあったら私……。
誠二兄さんは誠也を抱きかかえると、彼の頬にキスをして、そしてママではなく私の方を見て微笑んだ。
「大丈夫だよ。『浄化』なんてあり得ない。この猟奇殺人のトリックを暴いて、麻衣にもそんなのはないんだってこと、証明してあげる。その為には、ちゃんと俺も帰らないとね」
隣から、女の嫉妬の視線を感じる。それに背筋を凍らせながら、それでも私は、ママではなく私に誠也を託してくれる誠二兄さんの想いに触れて震えていた。
「誠也を、頼むね。麻衣にしか頼めないから」
そう言って、誠也にしたのと同じ箇所に、私にもそっとキスをした。瞬時に伝わる彼の想い――この題材を足掛かりに、ママから完全に独立したいという想い。ママに一瞥もしないのは、ママに対する決別宣言。そして……。
「私なんかで、いいの? 私もまだ、子供だよ?」
「おじさんみたいな従兄からの信頼は、麻衣には重た過ぎるかな?」
「……そんなこと、ない……」
傍から聞けば、年上の従兄が年若い従妹に激励を送っている言葉にしか聞こえない。未成年の従妹が、年長の従兄の信頼を受けて感動で泣いている様にしか見えない。だけど、根底に澱み複雑に絡んだ色を、三人だけが感じていた。
私も、ママから脱してみせる。もう顔色を見るのを止めにする。ずっと重く感じていた、パパの寄せる「ずっと子供でいて欲しい」という私への想い。ごめんなさい、パパ。私、それも今この瞬間、ママへの想いと共に捨てていく。今、私が誠二兄さんの為に出来ること。此処から彼の子であり私の弟でもある誠也を連れ出し守ること。
敢えて誠二兄さんと目を合わせず、託され私の腕に抱かれている誠也を見つめて返事をした。
「誠也、大丈夫。お姉ちゃんが誠也をずっとこうして守っててあげるからね」
誠也は、逆に奮起をしたのか、きゅ、と私の首に絡めた腕に力を込めて
「違うよ。僕がこうしてお姉ちゃんを守ってあげる」
なんて可愛いことを言ってくれた。
誠二兄さんはママに事務的な声で、二人を宜しく、とだけ言うと、ママに二の句を告がせないとでも言うかの様に、彼自身がママのマネージャーに電話を入れた。隣町で待機していたマネージャーがほんの十数分で到着すると、彼もカメラを肩に、喫茶店を後にした。
前座席とはガラスで仕切られたリムジンの様な豪華な車で、私達はこの町を抜ける舗装された下り坂の道を通っていた。待機中のマネージャーが、その時間を利用し、より通り易い道を地元発行の住宅地図を借りて調べてくれていたらしい。
往路とは全く異なる快適な移動の筈なのに、往路の時以上の冷たい空気が後部座席に流れていた。
「麻衣、いつからそういうことになっていたの?」
ママの声は、低く、冷たく、それでいて怒気を込めた妙な熱さも入り混じって、私の心臓を一発で貫く矢の勢いで放たれた。誠也の前なのに、と私はママの『女』に嫌悪を一層募らせる。
「そういうって……言ってる意味がわかんない」
「そ。じゃあ、実は私、誠二君と何度も寝ている、なんて聞いても何とも思わないと考えていい訳ね」
ああ……臭い。臭って来そう。あの時鼻をついた、すえた臭い。酸化した汗の臭い。むせ返るような湿気の臭い。男と女の垂れ流す液の、酸いと甘いの入り混じった臭い。
勝ち誇る様にママは語る。彼は私のものなのだと誇示するみたいに。
「和也さんにくっついて、撮影現場に来てたのよね、彼。稽古風景の写真を撮って、雑誌社に売りたかったみたいなの。彼って、可愛いじゃない? 手に入れたかったんだけれど、巧く逃げられてばかりだったのよね。誉め殺し、とでも言うのかしら。生活が不安定だとか、仕事を軌道に乗せたいだとか、自分を貶めては私のような完璧な人に今の自分は相応しくない、とか言っていたわね確か。この私を軽く躱わすのが、可愛さ余って何とやら、っていう奴よ。私から逃げられない様、和也さんと結婚したの。ほら、あの人は何でも真っ直ぐ素直に受け止める人でしょ。全然気づきもしないで、私が女優だということを考慮にも入れず、そのまま受け止めてくれたのよね。まあ、誠也のお陰でそれもばれてしまったみたいだけど」
よく解らない大人の話の中に、突然自分の名前が出て来たものだから、半分寝掛かっていた誠也は「呼んだ?」とつい反応の言葉を口にしてしまう。信じられない、二人も子を産んだ母親の癖に。
「大人の話。誠也の悪口じゃあないのよ。誠也は眠ってて大丈夫よ」
「ん~……」
と寝ぼけた声で返事をしながら、再び私の膝枕で眠り始めてくれて、ようやく私もほっとした。寝息が聞こえ始めた頃、ようやく私もママに言葉を返した。
「私もパパも、全部知ってるよ。今更自分の罪を懺悔しなくてもいいと思う」
はっ、とママは鼻で笑った。懺悔? と馬鹿にした様に私の言葉を繰り返した。
「好きになってしまったものはしょうがないじゃない。恋愛に罪なんてないわ。懺悔なんて気は、私には更々ないわよ」
「口にしてしまう目的は、私を牽制する為、ということ? それなら、私も言ってもいいかな。恋愛に罪なんてない、と私も思っていいと解釈してもいいんだね? ママから誠二兄さんを奪っても、文句はない、って思っていいってことだよね?」
勝った、と思った瞬間だった。それは恋の争奪戦という意味ではなく、心の何処かでママに娘として認められたいと願っていた、幼い自分を克服出来たという意味で。
「……生意気ね、子供の癖に」
ママの顔が憎悪で歪む。その憎悪の瞳が私を真っ直ぐに捉える。でも。
「ひ……っ!」
次の瞬間、ママの歪んだ顔が、憎悪のそれから、苦悶と激痛と恐怖の入り混じったそれに変わっていた。
「な、何?」
何がママの中で起きたのか解らない私が呟いた声は、内心の動揺に反して、何ともとぼけたものだった。
じわり、じわりとママの肌の色が、どす黒い赤に変わってゆく。気がつけば、異様ともいえるほどの静寂が私達を包んでいた。ママの顔が、髪が、腕が、膝が。赤黒い、砂鉄の様な細かい砂に変わっていく――さらさらとママの肌の上を流れ、融けていく。融けていくに従い、美しい筈のママの、普通の人と同じ、食堂が、心臓が、肺が、胃が、腸が、徐々に透けて見えて来る。透けていたそれらがどんどん、どんどんあらわに私に晒されていく。それらもまた、赤黒い砂へと変貌し、後部座席のシートと足元に砂場にこんもりと盛られた砂山の様に積もっていく。やがて白い筈のママの骨まで、罪の色ともいえる赤黒さを増してゆき、それさえも、崩れ落ちて砂山の一部と化していった。
何ガ、起コッテイルノ――?
――不実ノ子ヲ成シタ穢レヲ浄化スル――。
「あ……ぁ……」
いやあああああああああ――!!
「麻衣さんっ?! どうし……ひっ!」
防音ガラスさえも通す様な私の悲鳴で、ママのマネージャーさんが車を停めて後部を振り返る。安否の言葉を言い終えぬ内に、彼女もまた短い悲鳴をあげた。
私は、神の声を聞いてしまった。私は神から巫女としての神託を受けていないのに。
ママは、砂と化してしまった。一滴の血も流さずに。それは、『浄化』とこの町で呼ばれる穢れを祓われた成れの果て。
腰が砕けて動けない私の腕を、後部座席のドアを開けたマネージャーさんが力一杯引っ張り出す。いつの間にか、眠ったままの誠也は先に車から下ろされていた。
「麻衣さん、早く出なさい! 誠也君に見せちゃ駄目!」
彼女は、私を外に引き出すには私が大人と同じ体格だから、誠也の時の様に外から引き出すことを諦めた様だ。後部座席に乗り込むと、一瞬ためらう素振りを見せたものの、ママが座っていた、今では赤黒い砂だらけのシートに座り、全身で私を抱きかかえようとした、のだと思う。予測でしか語れないのは、彼女が私に触れる前に、彼女もまた断末魔と共にその砂の向こうへ消えていったから。
マネージャーさんは、砂に食べられる様に消えていった。直接触れたシートに飲み込まれた様に、とも言える。触れた部分から砂が彼女を包んでいき、彼女の座高が徐々に縮まる。私が最後に目にしたのは、シートの表面と同化するほど平らになった彼女の顔が、「何で私が?」と充血させた目を見開いて呟き融けていく姿だった。
此処にいたら、私も砂に飲み込まれる――。
その恐怖と緊迫感が、私の身体に力を取り戻させた。約束したわ。誠也を私が守るんだ、って。逃げなくちゃ、二人を連れて、この町から出なくては。
解せない疑問が頭の中で渦巻いている。あれだけの絶叫を発してしまったのに、何故誠也が起きないのか、とか、何故今更ママが粛清されたのか、とか。でも、そういうことは後で考えればいい。
今、一番にすべきことは。
「誠二兄さんも粛清されてしまうかも知れない……助けなきゃ」
彼を探して、三人でこの町を出なくちゃ。
私は眠ったままの誠也を抱きかかえ、今降りて来た下り坂を駆け上った。
私は走る。駆け上る。両手で抱えた誠也が重い。それは物理的な意味だけでなく。我ながら酷いと思う。私はこの重ささえなければ、もっと早く誠二兄さんのもとに近づけるのに、という邪念を含むその重さが疎ましかった。そんな自分に反吐が出そう。それじゃあママと同じじゃない。
「誠也、起きて。一緒に走ろう」
それでも誠也は一向に起きる気配がない。まるで意識を失っているみたい。助けを呼ぼうと道なりに並んだ真新しい家々の幾つかの前で立ち止まり、ドアホンを押すけれど返答がない。
その内、気がついたの。余所者だからなのか、皆、私と解ると居留守を使って避けている。二階から様子を伺う住民もいた。ふと見上げた私と視線が合うと、魔物でも見たかの様に肩をびくんと大袈裟なくらいあげて怯えたりもする。次の瞬間、雨戸まで閉められてしまう拒絶っぷりに、理不尽な怒りもこみ上げて来た。
皆、大人なのに。私よりも遥かに大人の癖に、こんな弱い立場の私や誠也を見殺しにするなんて。
道端に停まっている赤のシビックが、エンジン音を響かせているのが目に入った。急いでその傍に駆け寄り、運転席をノックした。
「すみません! 怪しい者ではないんです。事件に巻き込まれた、龍和館師範、龍浪和也の娘の麻衣と言います。弟と私を神社か町役場まで連れて行って下さい、お願いします!」
乗っていた、少し小太りの三十代ぐらいのその男性は、胸に町章マークの入ったジャケットを身につけていた。きっとこの人は役所の人の筈。第一目的地はパパがいそうな神社だけれど、この人ももしかしたらこの事件のことで、早急に役場に行かなくてはいけないのかも知れない、と思ったから、ついでなら乗せてもらえると思ったの。身元もちゃんと明かしたのだし、役所の人ならパパの名前を出せば解ってくれると思ったから。
だけど、私のそんな淡い期待は裏切られ、これまで視線の合った住民達と同様、化け物を見る様な目で私を見て、怯えて隣の助手席シートまで後ずさった。
「うわああっ! 話しかけるな! 何処かへ消え――」
私は、彼の言葉を最後まで『彼の声として』聞くことが叶わなかった。弾かれた様に赤いシビックはゆっくり後退し始めて、咄嗟に私は後ろへ身を引いた。
「うがあがががあがががががが――ッッッ!!」
声とも音ともつかない断末魔による空気のの振動。後退し切って壁に激突している、その壁に吸い込まれてゆく赤い色。壁は無傷のままで、チキチキという不思議な音を立てて、シビックと、その搭乗者だけを飲み込んでゆく。壁にサラサラと零れる赤は、シビックの車体の色とは微妙に違って黒味掛かった赤色だった。
何故? 話シ掛ケタ ダケ ナノニ――
――穢者ニ 触レタ者、即チ ソレモ又 穢者ナリ――。
「あ……あ……」
足元に、ぽとりとシビックのオーナーの肩から上の部分が落ちる。それは、抜ける様に白い肌と、恍惚の笑みを浮かべていた。あんなに苦しげな絶叫を搾り出していたのに、血の一滴も流されることなく、誠也の犠牲になっていた。
私は再び坂道を駆け出しながら、混乱した頭で考えていた。
穢れた者、それは誠也のことなのではないか、と。最初に聞こえた神の声、確かに『不実の子』と誠也を示していた。その粛清を受けて、ママは消えた。誠也の意識がないのは、誠也自身に罪はないのに、その存在自体が罪であることへの憐れみからなのかしら、と。せめて苦しまない内に、その魂をすくい上げようということなのだろうか?
「でも、それじゃあ何故すぐにそうしないのか、が解らない」
それに、神に憐れみとか苦しませない内に、なんて情なんてあるのかしら。
ああ、考えても解らない。私だけの知識では、神の声を完全に聞き取れるパパに頼らないとわからない。どうすればいいのかも解らない。
神の御声を聴けるから、きっと示してくれる筈。私が今一番に行くべき場所を、声の示す通りに進んでいこう。
心の中でそう念じた途端、またあの声が聞こえて来た。
――風ノ示スママ 進ムベシ、我ノ 御遣イニ 成リ損ネシ者――。
風の示すまま? 一瞬だけ言葉の意味を悩んだけれど、それもすぐに解決した。血生臭い匂いは、私にしか解らないのだろうか? 風にたゆたう赤い砂は、私にしか見えないのだろうか? その赤く細く続く道しるべの向こうに、大きな森が茂っていた。きっと、あそこが神社なのだ。パパもきっとあそこにいる。そして神の声を聴いているのだろう。
力がみなぎって来る。希望を感じる。抱えた誠也の重みも、段々軽くなって来る。
私は、最後の力を振り絞る勢いで、アスファルトを再び蹴り上げた。
神社の鳥居をくぐると、空気が変わった。少しだけ気持ちが楽になる。結界に入ったということだろうか?
「え? 結界って……何の?」
浮かんだ言葉は、まるで自分の言葉じゃないみたい。ああでも、そんなことにいちいち拘っていられるほどの余裕はない。パパを、探さなくては。そして指示を仰いで、神の御言葉を受け取って、そして誠二兄さんを探し出してこの町を出なくちゃいけない。神の手が届く前に。きっと、禍々しい者ほど先に粛清されていくに違いない。
本殿の格子扉が無残に打ち破られている。こんな乱暴なことをしたのは、一体誰なのだろう? そう思いながらも、それをくぐって中に入る。隠し扉の様なものが開け放たれており、その入り口に、二匹のハツカネズミが死んでいた。下半身が砂になりかけたまま、途中で浄化が中断された様に見えた。吐き気を覚えながらも、奥へ奥へと進んでいく。人工物だった壁が、自然の洞窟の岩肌へと変わる。下から冷たい空気が流れて来る。この奥にご神体がある、ということなのかしら?
随分深く進み、流石に足が痛んで来た頃、仄かな明かりを感じ取った。その時初めて、私は暗闇の中、戸惑いもなく転びもせずに自分が此処まで辿り着けたという不自然さに違和感を覚えた。
それも、見慣れた後ろ姿ですぐ掻き消える。やっぱり、そこにいたのはパパだった。
「パパっ!」
「麻衣っ?! 何故戻って来たんだ!」
御神体の一つと思われる刀剣を手に、パパは驚いて私の方を振り返った。一瞬険しい表情を見せたけれど、私の姿と顔を見た瞬間、神の御声を聴いたのだろうか。憐れみとも慈しみともつかない笑みを見せて、私を懐に迎え入れた。
「パパ、パパっ! ママが……っ!」
「今、神の御神託を受けた。浄化を受けたのだな。そして、お前は、神に試される様だ。神の御声が聞こえる様になっただろう?」
パパはそう言って、説明してくれた。この地を守る氏神様が、私に神を信じる素養を持つ魂を感じ、父の後継者として声の一部を聴く耳を許したこと、そして、初めてパパは、誠二兄さんもかつては神の声が聴こえたのだということも私に教えてくれた。
「誠二が頑なに神を信じないのも、ルポライターという神道の対極にある様な道を選んだのも、全て神の御心のままに歩む人生というものを拒絶したいが故だったのだろう。敢えて不貞の罪に加担したのも、私を失望させる為だったのかも知れんな」
麻衣も知っていたのだろう、とパパは私に問い掛けた。その声は、私を子供扱いする声ではなく、またパパが私に対して自分のことを「パパ」ではなく「私」と呼称したことからも、私に何かを賭ける覚悟の様な強い思いを感じられた。
「誠二が、一族で唯一神の御声を聴ける男だったんだがな。麻衣は勘違いしていたかも知れないが、私は出遅れて跡を継いだ訳ではないのだよ。宮司の仕事を誇りに思っている。お前にも、誇りを持って欲しい。――誠二を、浄化してやりなさい」
「な、何て……?」
パパ、自分が何を言ったか解ってるの?
私の頬を挟み自分の方へ視線を促すパパに、問い質す様な瞳を私は向けた。パパは穏やかに微笑みながらも、その瞳からは私が初めて見る涙を流していた。苦悶とも寂寥とも歪んだ満足感とも言えるいろんな想いがその瞳には浮かんでいた。
「誠二を、此処に連れて来なさい。この勾玉がお前を守るだろう。穢者の中でも、より神より遠い者から浄化の裁きを受ける筈だ。最も罪深い者から浄化され、それに触れられた者が次に浄化されてゆく。くれぐれも、誠二に触れない様に、誠二を連れておいで」
そう言ってパパは、私の首に御神体の勾玉を掛けて、誠也を私の腕から受け取った。
パパが誠也に、そんな愛しげな眼差しを向けるのを見るのは初めてで。洞窟の突き当たりにある小さな祠の前に誠也を横たわらせるパパの独語の様な語りを、私はパパの背後からただ呆然と聞いていた。
「我々が町に入る前に亡くなった二名は、家に交流試合を申し込んだ館主と、私からの返信を受け取った事務の女性だったそうだ。神の遣いとしての自分が、穢者である麻樹やその象徴の誠也に接していたばかりに、彼らもこの地の氏神様に穢れと判断されてしまった。私自身は、神の口伝えとしての職務の為に生きながらえているというのにな」
パパは、眠る誠也の頬をそっと撫で続ける。その昔、私にそうしてくれていた様に。
「可哀想なことをした。誠也の意思で穢れをまとって生まれた訳でもないものを。もっと早く、私がこの町の存在を知っていたなら、決してこの子まで連れてなど来なかったものを」
パパは、おもむろに立ち上がり、御神体の刀剣の鞘を抜いた。
「内から浄化され切る前に、せめて浄化の過程で味わう地獄がこんな小さな誠也を苦しめる前に、私がこの子を先祖の御霊のもとへ送ってやろう。それが私の、せめてもの償いだ――」
「パパ……やめてえぇ――っ!!」
薄明かりに微かに光る、パパが零して弾け飛んだ涙。鈍く光る刀剣の剣先。岩場に響く、ごとん、という不自然な音。その音と同時にあり得ない位置に移動した誠也の――小さな、首。
「いやああああああああ!!」
誠也の切断された首から赤黒い砂が。彼が目覚めないままだったのは、脳から『浄化』されていった所為。痛みも苦しみも、その感覚を支配する脳が最初に粛清された為に、苦悶の声一つあげることさえなかっただけ。刀剣が、砂を吸い込んでゆく。誠也が愛らしい表情のまま消えてゆく。
「麻衣……」
「嫌……いや……ぁ……っ! こんなの、私の知ってるパパじゃない!」
パパの次の言葉を聞きたくなくて、私はパパに背を向け元来た道を戻る為に走り出した。パパに探し出される前に、誠二兄さんを此処から連れ出して逃げる為に。心の中で念じなければ、私の本心など神に気取られることなどないと思っていた。――ううん、そんなことすら考える余裕はなかった。ただひたすら、誠二兄さんを見つけ出さなくては、ということだけを念じていた。
――誠二兄さんを見つけ出さなくては。
神はその思いに答えを届ける。赤黒い砂が宙に舞う。それに誘われる様に、ついてゆく。胸に飾られた勾玉を握り、無人の様に静かな街の中をさ迷い歩く。いつしか砂は舞うことを止め、ポツポツと雨が私を濡らし始めた。
誠二兄さんが見つからない。誠也は砂と化してしまった。優しかったパパも、もういない――。私は目的を見失い、自分さえも失い掛けていた。
大きな建物の前を歩いていると、そこから見慣れた車が出て来て私を轢きそうになった。ふと門に掲げられた表札の様な看板を見ると『穢身清町立図書館』と記されていた。そして、往路で私を乗せて来た車から降りて来た人物を見て、私の涙腺が一時に緩んだ。
「麻衣! どうしてまだ町にいるんだ?!」
「誠二……兄さん……」
よかった……まだ、生きている。声を発してる。心が宿っている。まだ、私を解ってくれている。大好きな誠二兄さんのまま、生きている――。
絶望に近い心境から一転したこの状況に、私の中の何かが切れた。ためらうことなく彼に駆け寄り、その愛しい姿に抱き縋る。豪雨に変わった雨音の激しい音で、誠二兄さんの声が微かにしか聴こえない。でも、もしはっきり聴こえたとしても、そんな言葉は無視してやる。「俺に触れるな」なんて、言うことなんか聞きたくない。
「え……、麻衣は、俺に触れても消えないのか?」
誠二兄さんがそう呟いたことで、図書館にいた人達が、全て消えてしまったのだと私は知った。ほどなく私の身体を、強い力が抱きしめる。傷ついた彼もまた、縋る様に私を抱きしめる――。
「一緒に、すぐにこの町から出よう。誠也と三人で、やり直そう」
――誠也と、三人で。
その言葉に、頷けない私がいた。
ママのマネージャーが見つけてくれた、舗装された道を私は最後まで解らない。一度はそのルートを辿ったものの、結局この町に来る時に通った道が確実だと諦め、もとのでこぼこした道を辿って帰路に向かう。軋むエンジンのバルブの音に、誠二兄さんは神経質なほどの苛立ちを見せていた。此処で車が壊れたら、『浄化』される前にこの町を出ることが出来ないから。
自分をなだめる様に、誠二兄さんは私達と別れたあとの出来事を、取りとめもなく語り始めた。
「まずは神社に行ったんだ。御神体をとにかく手にしなくちゃ、なんて思って。結局俺は、何処かで神とやらを捨て切れなかったのかも知れない。身を守るのに、武器よりそれを先に思い浮かべていたんだから」
そう言って苦笑すると、私の胸元で揺れている勾玉に左手でそっと触れた。
「和也兄さんに、会ったんだね。流石に娘には手を下せなかったのか。彼が、刀剣を持って神社を出たのは物陰から見ていたんだ。もう、目が正気じゃなかった。神の御神託を受けたんだろうと思うけど、その時は俺も和也兄さんが何処にいったのかはさておき、神の遣いとして自分達に関わった住民を『救い』にいったのだけは解ったんだ。彼が出ている間に神社に潜り込んで、どうにか鏡を手にして難を免れたけど」
そう言って、誠二兄さんはシャツのボタンを幾つか外し、素肌を私に見せた。
「ひ……どい……っ」
「砂になる、一歩手前で結界を張れた、といったところかな」
平静を装ってるけど、痛みで爪を立てたいほどだろう。彼の肌は、内臓が納められているお腹を中心に、赤黒い斑に穢されていた。最も『浄化』の進んだ臍の周辺は、真皮の部分も砂と化したのだろう、サラサラと細かな粒子が僅かに零れ、その周囲にへばりついていた。
「食い止める方法が他にないか、図書館へ探しに行ったんだ。過去の伝聞などの資料がないかと思って。話し掛ける度に、町の人が次々と砂に変わっていくんだ。どう考えても、もう非現実的だとかナンセンスだとか自分を誤魔化すことが出来なかった。――俺と麻樹が元凶だったんだと嫌でも痛感せざるを得なかった。和也兄さんが無事なのは、毎日の修行と信心深さが俺らごときの穢れなどを自ら浄化しているからだろう、と思うんだけど、それも俺の憶測だから、本当のところは何も解らない」
ガクン、と突然車が停まった。何てこと! こんな時に、この雨の所為で、ぬかるみにタイヤが取られてしまった。
「くっそ!」
誠二兄さんは苛立ちをあからさまに出して、ステアリングを激しく打ちつけた。素早く車を降りると
「俺が後ろから押すから、麻衣は、俺の合図を聞いてアクセルを思い切り踏んで」
と車の後方へと姿を消した。たった数メートルの距離なのに、怖い。姿が見えないことが恐ろしい。傍にいて。見えるところにいて。誠二兄さんまで消えてしまわないで。
数秒で、バックミラーに彼の頭が微かに見えると、それだけで物凄くほっとした。一つの決意と覚悟が、私の中で確立した。安心し切った後に、きっと襲い来るであろう誠二兄さんの『浄化』しかけた傷の苦痛。全てを終えたら、全部私が受け止める。守られてばかりじゃなく、守りたい。神様なんて、信じない。神の名を騙った悪魔に等しい。こんな地獄を味わわせるのは、神々しい存在がする筈、ない。
「やたっ! 抜けた!」
ずるずるとゆっくり坂を下り始める車に、私は現実に戻される。やだ、進んでしまってる!
「誠二兄さん、どうしたらいいの、これ!」
「サイドブレーキ引っ張って、直ぐに、でもゆっくり!」
慌ててサイドブレーキを握り締め、言われた通りにゆっくりと上に引っ張る。車はゆっくりと停車し、誠二兄さんが再び顔を出した。ほっとした思いで私は隣の助手席に戻り、運転席を彼に開放した。確かにアクシデントを無事クリア出来たのは嬉しいけれど、それにしては、誠二兄さんの表情が安堵が過ぎるほどににこりとしている。
「麻衣、見て、窓の外」
そこには、町の境界を示す標識が佇んでいた。少し傾いていたけれど、山の斜面に抗う様に、路肩にへばりついて隣町の名前が記され、此処からは穢身清町ではないと主張していた。
――助かった。逃げ切れたんだ……。
ふわ、と温かな湿り気を感じる。誠二兄さんに抱きしめられて、自分が初めて冷えて震えていることに気がついた。
「麻衣、ありがとう。迎えに来てくれて。誠也と麻衣がいれば、生きていける。この痛みにも耐えられる」
――一緒に、誠也を迎えに行こう。先に町から出してくれたんだろう?
私の身体が硬直する。もっと激しく震え始める。脳裏に浮かんだあの映像――誠也、私の大切な、たった一人の小さな弟。
「いやあああああああっっっ!!」
「麻衣?!」
ごめんなさい、誠二兄さん、ごめんなさい。私、あの子を守れなかった。パパの狂気を見抜けなくて、誠也をパパに手渡してしまった――。
誠二兄さんが私に触れる。私の胸元の勾玉が、彼の懐に納めた鏡と共鳴する。私の見た映像、音声、思いが溢れ出す。誠二兄さんが見て来た物、聞いて来た断末魔、痛みや恐怖や悔いの念、そして――ママと初めて身体を重ねた日の映像までもが私の中に流れ込んで来た。
花嫁姿のままの私。違う、私と二つしか違わない年の頃の、ママ。嫁いだその日に、ママこそが誠二兄さんを犯した様なもの。手引きをしたのはあのマネージャーだった。
『やっと手に入れた。自称ルポライターと人気急上昇中の花形女優。世間はどっちを信用すると思う? 誠二君』
返答次第で、自分の顔に傷をつけるとママは言い、禍々しいスキャンダルのタイトルを模した言葉を言い連ねた。『人気女優の義弟が義姉を暴行』『花嫁の初夜を奪った鬼畜』『哀れ、道化の神主・朝霧麻樹が義弟から暴行』――何て、ママらしい陳腐で臭って来そうな、センスのない言葉。そうやって、世間知らずだった当時の誠二兄さんを、まんまと手に入れたのか。
「ごめんなさい……誠二兄さん、知られたくないことまで……知りたくないことまで……」
私はそっと身を剥がす。私なんか、傷ついてない。伝わって来た、たくさんの想い。私に対する想いも痛いほどに伝わって。だからこそ、知られたくなかったであろうことを知ってしまったことが、私より誠二兄さんを傷つけた。それ以上に傷つけているのは……。
「誠也……『浄化』されちゃったのか……」
「ごめんなさい……守れなかった……約束したのに……ごめんなさい……」
泣いても誠也は戻らないのに。溢れて来るものを止められない。ごめんなさい、誠二兄さん。ごめんなさい、誠也。私、守るなんておこがましい。誠也さえ守れなかったのに。
ステアリングにもたれ、嗚咽を漏らす誠二兄さんに掛ける言葉が見つからない。
大好き。だから、誠二兄さんさえいれば生きていける、と思ってた。だけど、それは間違いなのね。それは、私の幼い独りよがりの身勝手な甘えで。
きっと、私を見る度に誠也を失った痛みをこの人は思い出す。いつかきっと、幼い子供の私を疎ましく思う日がやって来る。きっと、私という存在は、誠二兄さんが生きていく上で邪魔になる。
此処まで逃げ切れば、大丈夫だよね? 手にした情報を持って、一人で帰れるよね、誠二兄さん――。
「私……ごめんね、誠二兄さん。神社に、戻るね。パパに、誠二兄さんを連れて来い、って言われてたんだ。これ以上私の家族が誠二兄さんに酷いことしない内に、消えるね、私」
うん、もう充分。ありがとう、誠二兄さん。顔をあげて、私を見てくれただけで、もう充分。どうでもいいって思っていない証拠でしょう? その気持ちだけで充分私は幸せだから。
笑いたいのに、笑えない。無理に笑ったら、ただでさえ雨に濡れてびしょびしょの顔に、今度はしょっぱい雨が流れた。最後まで見苦しい私……引き止めて欲しいみたいに見えて、こんな自分は大嫌い。
これ以上醜態を晒さない内に、誠二兄さんの前から消えてしまいたい。
「麻衣、お前何言って――」
「ばいばい、兄さん」
私は車を降り、十歩だけ足を前に進めた。踏みしめたその地は、穢身清の地――。
最後の浄化が始まろうとしていた――。
御神体が共鳴し合うのなら、きっと刀剣のことを勾玉と鏡が呼んでいる筈。遠からずパパが私を探し当てて迎えに来るだろう。それまでに、少しでも誠二兄さんと離れなくちゃ。私以上に砂を見ている彼だから、流石に再び穢身清の地を踏むことはないだろうと思ったの。だけど……。
「麻衣まで、消えないでくれ。頼む」
誠二兄さんは、再びこの地に足を踏み入れた。踏み入れて、追いついて、私の腕を取り……。
初めて男の人と交わしたキスは、少し砂混じりのざらついた感触で。重なる想いが切ないほどに苦しくて。それはほんの一瞬で――次の瞬間、最初で最後に恋した大好きな人は、まるで花火が大輪の華を咲かせる様に、宙に錆びた赤を散らせて霧散した。同時に御神体の鏡が、割れた。私の勾玉も弾け飛ぶ。何が起こったのか、目を閉じていた私には解らなかった。誠二兄さんのぬくもりが消えた瞬間、目を開けた時には、花火と赤と、抜け殻になった誠二兄さんの身につけていた服が泥だらけになって地面で濡れていた。
「あ……なんで……どうして……?」
何故、急速に『浄化』が進んだの?!
雨に融けた、誠二兄さんの赤は、世の理に逆らって、坂道を逆へとのぼってゆく。その先には、――パパがいた。誠二兄さんは、パパの握った刀剣の剣先へと吸い込まれていく。
「麻衣。お前の血液型を言ってご覧」
唐突な質問とその内容に、私はかなり面食らう。淡い期待が一瞬過ぎる。もしかしたら私、悪い夢を見ているだけなのかも知れない。この唐突さが非現実的過ぎて、何となくそんな気にさせられた。
「AB、だよ」
夢なら早く醒めて欲しい。早く夢の話を進めよう。よくあるわよね、こういうこと。夢を見ている自覚のある夢。きっと今、私はそれなんだ。
「パパはね、O型なんだよ。麻衣には覚らせない様気をつけていたんだ。お前は子供の頃から誠二によく似て、神道の勉強を熱心にしていたからね。神の声を聞いてくれるのなら、例え誠二の子でも厭わないと本当に私はお前を愛していたよ」
待って。待って、今のは、どういう意味? O型のパパから、ABの私が生まれることはない、ってこと? 誠二兄さんは――私の……?
「嘘。パパったら、子離れが出来ないんだから。やだもう、早く醒めてくれないかな」
知らない。ママがB型なのは母子手帳を見たから知っている。でも、誠二兄さんの血液型なんか知らない。私の血液型の検査結果が間違ってるだけかも知れないじゃない。ううん、そうじゃなくて、これは、夢。穢身清町なんて知らないし、浄化とかそんなの馬鹿みたい。
「麻衣、哀れな。神を信じているお前なら、神の声を聞けるお前なら、この世で神の声を伝える者として、お前を救えるかと思っていたのに。親子間の姦淫は、その心のみでも重罪なのに……」
泣かないで、パパ。これは全部夢だから。目が覚めれば、またいつもの朝がやって来る。パパに決別しなくてもいい、子供のままでいられる私に戻れる。何も知らない私に戻れる。
「あ……かは……っ」
喉の奥が、痛い。すごく……何これ! 痛い! 痛い痛い痛い痛いっ!
ざらついた物が吐き出される。痛みで臓物が全部ひっくり返りそう。
「パ……パ……、いだ、い……だずけ……」
パパに翳した自分の手を見て、出せない声で悲鳴をあげる。何て、醜い、私の手。重度の火傷を負ったみたいに、ただれて赤黒くなっている。砂の一粒一粒が傷口を刺激する。痛い、ああ、その感覚が背中に、お腹に、太腿に――全身に。痛いっ!
「娘として、愛していたよ、麻衣。すぐに、パパも逝く。宮司としての職務というより、人としての私なりのこの町に対する贖罪だ。お前を生かして救えなかったパパを許しておくれ。もっと早く、話してやればよかった」
夢、では、ないのか……。霞む視界の片隅で、きっと刀剣だろう。ううん、もしかしたら、パパの流した涙かも。光る何かを捉えた直後、私は『砂』と化したらしい。
砂になったら、心もすぐ消えてしまうのかと思っていた。
混沌とした曖昧な世界で、俯瞰で地上を眺めている。パパは穢身清の土地から一歩出て、刀剣で自らを貫いた。ああ、痛そう。だけど何処か私の感覚は鈍っている。痛そう、ただそれだけ。先に用意された清めの塩の上に、抜いた刀剣の柄を横たえるパパ。そっか、すぐに死ねないのね。死んだら刀剣を清められない。それに触れた町の人が、再び『穢』を持ち込んでしまうから。清めの塩で刀剣を清める為、宮司は即死すら許されないのか。大変な仕事だったんだな、宮司って。
パパは、砂になれなかった。私や、誠二兄さんや、誠也や町の人やママやマネージャーと一つの心にはなれなかった。醜い穢れた血を流し、そのままの姿で事切れていた。だけど、何も感じない。個人の心のちっぽけさを知ってしまったから。
下界から注意を離した私は、町の上に広がる灰色の雲を目指して流されてゆく。私? 私って、誰? 誰か、とっても大切な誰かがいた様な気がする。でも、もうどうでもいいかな。私は神に誘われ、黄泉比良坂の途中にいるのだから。
この氏神様は、慈悲深いのだろうか? はらはらと涙を零している。眉間に深い縦皺を寄せて、憐れむ様に嘆いている。それが地上に雨となって降り注ぎ、地上の赤い砂を洗い流している。それはやがて一箇所に集まり、人気の無いそこから氏神様の足元へと昇り、氏神様の指し示すまま、私達に黄泉国への道標として道を作り上げていく。
そう、『穢れ』は、穢れた者と共に黄泉へ送られていくのね。誰も死後の世界を覗いたことなんてないから、そんなことは知らなかった。――誰も、って、誰かしら? 私はそういえば何だったかしら?
とても、心地よい。ふわふわと浮いて流される感覚。あの苦しい想いが嘘の様。苦しい想い、って何だったかしら……? ああ、そろそろ何だか……面倒、臭い。何が? 何だったかし……ら……?
白い、白い、白い、道。氏神様に清められ、赤い道が白くなっていく。ええと、何を考えていたっけ……考え、って……な、に……?
――広がるのは、一面の、白。それはとても心地よい。
私はやがて、完全に『浄化』されるのだろう。
それが、言語として最後に浮かんだものだった。