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「欠陥品」と捨てられた神託の歌姫は、声を失った日に真の力に目覚める~十二年間国を守り続けた私を追放した王太子殿下、結界崩壊で国が滅びかけてから土下座されても、もう遅いのです~

作者: uta
掲載日:2026/03/17

【お知らせ】

この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています

あらかじめご了承の上、お楽しみください

第一章 欠陥品の烙印


「お前の歌声など、もう必要ない。王妃に相応しいのは声を失った欠陥品ではなく、美しく歌える女だ」


 王太子エドワードの声が、満場の貴族たちが居並ぶ大広間に響き渡った。


 シャンデリアの光が煌めく華やかな舞台の上、私——セレナ・ヴェルディは静かにその言葉を聞いていた。三日前から何も音を紡げなくなった喉に、無意識に手を当てる。


(ああ、やはりそうなのね)


 驚きはなかった。悲しみさえも、どこか遠い。


 十二年間、毎夜三時間の祈祷を欠かさず続けてきた。四千回を超える儀式。疫病を鎮め、結界を維持し、この国を守り続けた日々。その全てが『王家の加護』として発表され、私の名が民の口に上ることは一度もなかった。


(私の価値は『歌声』だけだった。いいえ——『歌声』ですらなかったのかもしれない)


 隣で、蜂蜜色の巻き毛を揺らす少女が勝ち誇った笑みを浮かべている。義妹のリリアーナ。翡翠の瞳が残酷な光を帯びて私を見下ろしていた。


 三日前、彼女が差し出した茶の味を、私は忘れない。


『お姉様、喉に良いハーブティーですわ。最近お疲れのようですから』


 あの優しげな微笑みの裏に、禁呪の毒が潜んでいた。飲んだ瞬間、喉を灼くような痛みが走り、そして——私は永遠に声を失った。


(証拠は何もない。誰も信じないでしょうね)


 会場にリリアーナの澄んだソプラノが響き始める。貴族たちがうっとりと聞き惚れる中、私は知っている。あの歌声には何の力もない。結界を維持することも、疫病を鎮めることもできない。ただ美しいだけの、空虚な音色。


 でも、それを告げる術を、私はもう持たない。


「セレナ・ヴェルディ。本日をもって、そなたとの婚約を正式に破棄する」


 エドワードの碧眼が、まるで路傍の石を見るように私を捉えた。金髪が燭台の光を受けて輝いている。かつて『運命の相手』だと告げられた人。十二歳から十一年、私はこの人のために歌い続けてきた。


(いいえ、違う。私は『この国のため』だと信じていた。でも本当は——誰のためでもなかった)


 会場のどこかで、嘲笑が漏れた。


「やはり『王宮の影』には相応しくなかったのよ」


「地味な儀式係が王太子妃など、身の程知らずでしたわね」


 ひそひそと交わされる声。私はそれを、いつものように微笑みで受け流す。


「——かしこまりました、殿下」


 声は出ない。だから私は深く頭を下げることで応えた。従順な、都合の良い聖女として。最後まで、その役割を演じ切る。


(もう、疲れてしまった)


 顔を上げた時、王妃エレノア様と目が合った。彼女は何かを言いたげに唇を開きかけ、しかし結局、視線を逸らした。


 知っていたのだ。私の歌声の価値を。それでも、息子の幸せを優先した。


 壇上を降りる私の足取りは、不思議なほど軽かった。色褪せたラベンダー色のドレスが床を擦る音だけが、やけに大きく聞こえる。


 十二年間、この宮殿で私を支えてくれたのは、たった一人の侍女だけだった。ミレーヌが控えの間で待っているはずだ。彼女と共に、静かにここを去ろう。


 大広間の扉に手をかけた、その時——


「お待ちください」


 低く、よく通る声が背後から響いた。


 振り返った私の目に映ったのは、月光を纏ったような銀髪と、深い叡智を宿す深紫の瞳。


 隣国アストレア王国の第一王子、クロード・アストレア殿下。


 なぜ、この場に——?


「失礼ながら、エドワード王太子」


 クロード殿下は優美な所作で会場の中央へ進み出ると、静かに、しかし明確な声で告げた。


「貴殿は今、この大陸で最も貴重な存在を——『欠陥品』と呼ばれましたか?」


 会場がざわめく。エドワードの眉が不快そうに歪んだ。


「クロード殿下、これは我が国の内政問題です。隣国の方に口を挟まれる筋合いは——」


「七年前」


 クロード殿下の声が、エドワードの言葉を遮った。


「私は不治の呪いに冒され、死を待つだけの身でした。あらゆる治療が効かず、アストレア王家は滅びの淵にあった」


 深紫の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。


「その時、極秘裏に招かれた一人の少女の歌声が——私の命を救った」


 息を呑む音が、あちこちから聞こえた。


 私は覚えている。十三歳の夜、王宮から連れ出され、見知らぬ国の見知らぬ少年のために歌ったことを。蒼白な顔で横たわる彼が、私の歌声を聴きながら、初めて安らかな眠りについたことを。


 あれが、この方だったのか。


 クロード殿下は私の前に歩み寄ると、跪いた。


 銀髪が床に触れるほど深く。隣国の第一王子が、『欠陥品』と呼ばれた女の前に膝をついている。


 会場が凍りついた。


「セレナ・ヴェルディ嬢。貴女の歌声の真の力を知っているのは、この大陸で私だけかもしれません」


 差し出された手。温かく、けれど震えることのない、確かな手。


「声を失っても、貴女の中に眠る『音の魔力』は消えていない。私にはわかります——貴女は、歌声という器に収まりきらないほどの力を持っている」


 深紫の瞳が、まるで私の魂の奥底を覗き込むように、真っ直ぐに見つめてくる。


「我が国においでください、セレナ様。貴女の価値を正しく理解し、敬う場所へ」


 ——その時、私の頬を何かが伝った。


 温かい。濡れている。


 涙だと気づくまで、数秒かかった。


 泣いている。私が、泣いている。


 八歳で王宮に召し上げられてから、一度も流したことのなかった涙が、止めどなく溢れ出す。


「——っ」


 声にならない嗚咽が喉を震わせる。十二年分の疲労と、孤独と、諦めが、堰を切ったように溢れ出していく。


 クロード殿下は何も言わず、ただ静かに私の手を取った。


 その手の温もりが、凍えた心に染み込んでいく。


「な、何を勝手な——!」


 エドワードの狼狽した声が聞こえた。けれど、もう振り返る気にはなれなかった。


「セレナはまだ我が国の——」


「婚約を破棄されたのでしょう?」


 クロード殿下の声は穏やかだったが、有無を言わせぬ響きがあった。


「ならば、セレナ様は自由の身だ。どこへ行くかは、彼女自身が決めること」


 立ち上がった殿下が、私の背に手を添える。逃げ道を示すように、大広間の扉へと導く。


 最後に一度だけ、私は振り返った。


 リリアーナの顔から、勝ち誇った笑みが消えていた。エドワードは信じられないという表情で立ち尽くしている。王妃は蒼白な顔で口元を押さえていた。


(さようなら)


 声は出ない。でも、心の中で告げた。


 十二年間、私を使い潰したこの場所に。私の功績を奪い、存在を隠し、最後には『欠陥品』と切り捨てた人々に。


 もう、振り返ることはない。


 ◆


 控えの間で待っていたミレーヌが、涙で濡れた私の顔を見て駆け寄ってきた。


「お嬢様——!」


 声にならない声で、私は彼女に告げる。唇の動きだけで。


『一緒に来て』


 ミレーヌは一瞬だけ目を見開き、そして——深く頷いた。


「どこへでも、お供いたします」


 十二年間、たった一人で私を支え続けてくれた侍女。彼女の存在だけが、この場所での唯一の救いだった。


 クロード殿下が静かに扉を開ける。


 夜風が頬を撫でた。見上げた空には、満天の星が瞬いている。


 王宮の庭を抜け、正門へと向かう道すがら、殿下が穏やかに語りかけてきた。


「七年間、貴女を探していました」


 私は驚いて顔を上げる。


「あの夜、貴女の歌声に命を救われた時から——私は、貴女という存在を忘れたことがありません」


 月明かりに照らされた銀髪が、淡く光っている。


「老賢者エルデンが言いました。『あの娘の力は歌声だけではない。いずれ、声という器では収まりきらなくなる』と」


 足が止まる。


「貴女が声を失ったと聞いた時、私は確信しました。今こそ、貴女を迎えに行く時だと」


 声を失ったことが、終わりではなく——始まりだと?


 クロード殿下は穏やかに微笑んだ。


「アストレアで、貴女の本当の力を見つけてください。私は——ただ、その傍らで見守っていたい」


 月光の下、差し出されたその手は、七年前と同じように温かかった。


 私はその手を取った。


(やっと——解放される)


 偽りの鎖から。使い捨ての道具としての人生から。


 アストレア王国への馬車が、静かに走り出す。


 背後で、レグナント王国の灯りが遠ざかっていく。


 そして私は、まだ知らない。


 わずか七日後、あの国が崩壊の淵に立たされることを。私を『欠陥品』と呼んだ者たちが、どれほどの代償を払うことになるかを。


 馬車の窓から見上げた夜空で、星々が静かに瞬いていた。



 第二章 崩壊の序曲


 ◆◇◆ エドワード視点 ◇◆◇


 セレナが去って七日目の朝、異変は始まった。


「殿下! 大変です! 王都の結界が——!」


 近衛兵が血相を変えて寝室に飛び込んできた時、私はリリアーナと朝食を取っていた。彼女の美しい歌声を聴きながら、優雅な一日が始まるはずだった。


「結界がどうした」


「北門の結界が消失しました! 魔獣が三体侵入し、市場で暴れております!」


「馬鹿な」


 私は椅子を蹴って立ち上がった。王都の結界は千年間一度も破られたことがないはずだ。


「そんな、お兄様」


 リリアーナが不安げに私を見上げる。その翡翠の瞳に、かすかな動揺が浮かんでいた。


「心配するな。すぐに対処する」


 北門へ駆けつけてみれば、そこには地獄絵図が広がっていた。


 市場は半壊し、逃げ惑う民衆の悲鳴が響く。魔獣——巨大な黒い狼のような異形の獣が、兵士たちを次々と薙ぎ払っている。


 結界は——確かに消えていた。


「どういうことだ! 宮廷魔術師を呼べ!」


 程なくして現れたガレウスの顔は、蒼白だった。


「殿下……申し上げにくいのですが」


「早く結界を修復しろ!」


「できません」


 その言葉に、私は凍りついた。


「何だと?」


「この結界を維持していたのは、魔術師団ではありません。セレナ様の——『神託の歌姫』の祈祷歌だったのです」


 神託の、歌姫?


「何を言っている。セレナはただの儀式係だろう。地味な祈祷を毎晩行っていただけの——」


「あの祈祷こそが、王国を守る結界の源でした」


 ガレウスの鉄色の瞳が、深い悔恨を湛えて私を見つめる。


「セレナ様こそが『神託の歌姫』——百年に一度現れるという、聖なる歌い手でした。彼女の存在なくして、この国の守りは一月と持ちません」


 嘘だ。


 そんなことは聞いていない。


「なぜ、そのような重要なことを私に——」


「お伝えしようとしました。何度も。しかしその度に『セレナの話など興味がない』と——」


 頭の中で、過去の記憶が蘇る。


 確かにガレウスは幾度か、セレナの儀式について進言しようとしていた。私がそれを、全て遮ったのだ。退屈な儀式係の話など聞く価値がないと。


「リリアーナ嬢に歌わせましょう。彼女も歌声には定評が——」


「無駄です。神託の力は血筋でも訓練でもなく、生まれ持った魂の資質。リリアーナ嬢の歌声は美しくとも、結界を維持する力は皆無です」


 その夜、私はリリアーナに命じた。


「歌え。セレナと同じように、神殿で祈祷歌を歌うんだ」


 リリアーナは素直に従った。彼女の澄んだソプラノが神殿に響き渡る。


 ——しかし、何も起きなかった。


 結界は修復されず、魔獣の侵入は続いた。


 翌日には、東の街区で疫病が発生した。


 三日後には、南門の結界も消失した。


「お前の歌には何の力もないではないか!」


 私は堪えきれず、リリアーナを問い詰めた。


「だって、あの女の歌に力があったなんて知らなかったのよ!」


 リリアーナは泣きながら叫んだ。


「ただの儀式係だと思っていたわ! 地味で退屈な義姉が、毎晩何か歌っているだけだって!」


「それなら、なぜ——」


「私の方が相応しいと思ったからよ! あんな影みたいな女より、私の方が王太子妃として輝けると!」


 その言葉を聞いた時、私は気づいてしまった。


 私もまた、同じことを考えていたのだと。


 セレナを『ただの儀式係』と見下し、彼女の功績を知ろうともしなかった。十二年間、国を守り続けてきた女性を、『欠陥品』と切り捨てた。


 その報いが、今、訪れている。


 ◆


 一週間後、事態は取り返しのつかないところまで悪化していた。


 結界は完全に消失し、魔獣の襲撃は日に三度を数える。疫病は王都全体に蔓延し、貴族の邸宅からも死者が出始めた。


「陛下、王太子殿下。もはや手の打ちようがありません」


 ガレウスの報告に、父王は崩れ落ちるように玉座に座り込んだ。


「セレナを……連れ戻すしかないのか」


「アストレア王国に渡られたと聞いております。しかし——」


「しかし、何だ」


「彼女の声は、戻りません。仮に戻っていただいても、歌うことは——」


 私は拳を握りしめた。


 声を失った原因。それを、私はまだ知らなかった。


 だが、この時、一人の侍女が証言を申し出た。リリアーナの身の回りの世話をしていた女だ。


「申し上げます。リリアーナ様がセレナ様に茶を渡した日の夜、私は、様子を見に参りました」


 震える声で、侍女は語った。


「その際、リリアーナ様の部屋で、禁呪の毒薬の空き瓶を見つけました。『音殺しの毒』と呼ばれる、声を永遠に奪う禁断の薬物です」


 音殺しの、毒。


「リリアーナ様は、セレナ様の声を——故意に奪われたのです」


 会議室が凍りついた。


「嘘よ! そんな——!」


 リリアーナが叫ぶ。しかし彼女の部屋を捜索した結果、闇商人との取引記録と、残りの毒薬が発見された。


 証拠は揃った。


 リリアーナは、国を守る『神託の歌姫』を、己の虚栄心のために廃人に追いやったのだ。


「父上——」


 私が言葉を発する前に、父王は立ち上がった。その顔には、かつて見たことのない厳しさがあった。


「リリアーナ・ヴェルディを反逆罪で拘束せよ。そして——」


 父王の視線が、私を射抜いた。


「エドワード。お前に問う。セレナを『欠陥品』と断じたのは、お前の意思か」


「……はい」


「彼女の祈祷の重要性について、宮廷魔術師から報告があったことを覚えているか」


「……覚えて、おります」


 それを聞こうとしなかったのも、私だ。


「ならば、この国難の責任は——お前にもある」


 父王の宣言が、玉座の間に響き渡った。


「アストレア王国へ向かえ。セレナに土下座してでも、助力を請うのだ」


 恥を忍んで、かつて切り捨てた女に頭を下げる。


 それが、私に残された唯一の道だった。


 ◆


 だが、この時の私はまだ知らなかった。


 セレナがアストレアの地で、歌声を超える奇跡の力に目覚めていることを。


 彼女がもはや、かつての従順な『儀式係』ではないことを。


 そして——私が懇願しても、彼女が二度と戻ることはないということを。



 第三章 沈黙の森の目覚め


 ◆◇◆ セレナ視点 ◇◆◇


 アストレア王国に渡って二週間。私は『沈黙の森』と呼ばれる聖地の奥深くにいた。


 古代の癒し手たちが残した神殿は、苔むした石造りの静謐な場所だった。鬱蒼と茂る木々の間から差し込む光が、淡い緑色の空気を作り出している。


「ほう、これはこれは」


 白い長髪と顎髭を蓄えた老人——賢者エルデンが、私の手を取って目を閉じた。深い皺が刻まれた顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。


「クロード殿下から話は聞いておった。『神託の歌姫』が声を失ったと。しかし……」


 老賢者は目を開き、驚きと喜びが入り混じった表情で私を見つめた。


「なんと。声という器が壊されたことで、貴女の魔力は解放されておるではないか」


 解放?


 私は首を傾げた。声が出ない今、質問することすらままならない。傍らに控えるミレーヌが、代わりに問うた。


「賢者様、それはどういう意味でしょうか」


「歌声とは、音の魔力を外界へ伝える『器』に過ぎん」


 エルデンは立ち上がり、壁に掛けられた古い竪琴を手に取った。


「この娘の魔力は、声という狭い器に押し込められておった。毎夜の祈祷で少しずつ漏れ出すだけで、本来の力の十分の一も発揮できておらなんだ」


 竪琴が私の手に渡される。


「器が壊れた今、魔力は直接音に乗せられる。楽器を通じて、想いを旋律に変えられるのじゃ」


 私は竪琴を見つめた。金と銀で装飾された、古代の職人の技が光る美しい楽器。弦に指を添えると、不思議な温もりが伝わってくる。


「弾いてみなさい。何も考えず、心の赴くままに」


 言われるがまま、弦を爪弾いた。


 ——その瞬間、世界が変わった。


 竪琴から溢れ出した音色が、光の粒子となって宙を舞う。神殿の空気が震え、苔むした石壁が淡く輝き始める。


「お嬢様……!」


 ミレーヌが息を呑んだ。


 私自身、何が起きているのかわからなかった。ただ、弦に触れた指から、十二年間溜め込んできた何かが——歓喜とも悲しみともつかない感情が、音となって流れ出していく。


 涙が、また頬を伝った。


(歌えなくても、伝えられる)


 声を失って初めて知った。私が本当に伝えたかったのは、歌詞でも旋律でもなく——この想いそのものだったのだと。


「見事じゃ」


 エルデンの声が、遠くから聞こえた。


「今の貴女は、歌わずとも想いを音に変えられる。かつての歌声を超える奇跡を、その指先に宿しておる」


 竪琴を胸に抱きしめた。


(私は、終わっていなかった)


 声を失ったあの日、全てを失ったと思った。


 でも本当は——偽りの鎖から解放された日だったのだ。


 ◆


 それから一ヶ月、私はエルデンの下で厳しい修練を積んだ。


 竪琴を通じて魔力を制御する術。想いを音に変え、音を奇跡に昇華させる技法。古代の癒し手たちが残した知識の全てを、老賢者は惜しみなく教えてくれた。


 時折、クロード殿下が沈黙の森を訪れた。


「無理はしていませんか」


 穏やかな声で問いかける殿下に、私は首を振って微笑んだ。


 声は出なくとも、想いは伝わる。殿下はいつも、私の答えを正確に読み取ってくれた。


「父上が、貴女を正式に迎え入れたいと仰っています。もちろん、貴女の意思を最優先に。強制はしません」


 アストレア国王フェリクス陛下は、私を一人の人間として尊重してくださった。『国のために奉仕せよ』とは一度も言わず、まずは心身の回復を優先するようにと。


 レグナント王国での十二年間とは、何もかもが違う。


「私は——」


 声にならない言葉を、私は唇の動きだけで紡いだ。


「この国で、生きてみたい」


 クロード殿下の深紫の瞳が、柔らかく細められた。


「それを聞けて、嬉しい」


 ◆


 修練を終え、王都へ戻った日のこと。


 アストレア王国の王都は、レグナントとは異なる穏やかな活気に満ちていた。白い石造りの建物が並ぶ街並み、花で飾られた窓辺、行き交う人々の和やかな笑顔。


 私が馬車を降りると、民衆が集まってきた。


「あの方が『調べの聖女』様じゃ」


「病に伏せっていた息子が、あの竪琴の音色で目を覚ましたんだ」


「国境の結界も、あの方のおかげで強化されたと聞いたぞ」


 調べの聖女。


 それが、この国で私につけられた称号だった。


 十二年間、名前すら知られることのなかった私が——今、民に敬われている。


 感謝の言葉を伝えようとして、しかし声が出ないことに気づく。もどかしさに唇を噛んだその時、クロード殿下が隣に立った。


「セレナ様は、言葉ではなく音楽で語る方だ。彼女の演奏を聴けば、想いは伝わる」


 殿下の言葉に、民衆から歓声が上がった。


 私は竪琴を構え、弦に指を添えた。


 流れ出す旋律。感謝の想い。この国で生きられる喜び。温かく迎え入れてくれた全ての人への祝福。


 言葉はなくとも、音は心を繋ぐ。


 演奏が終わった時、広場は静寂に包まれていた。そして——


 割れんばかりの拍手が、空に響き渡った。


 涙を拭いながら手を叩く老婆。子供を抱き上げて喜ぶ母親。目を潤ませる若者たち。


 ミレーヌが、私の傍らで涙をこぼしていた。


「お嬢様が、こんなに多くの方に愛されている姿を見られるなんて——」


 私もまた、涙が止まらなかった。


 十二年間、誰にも知られず、誰にも感謝されず、ただ義務として歌い続けた日々。それが報われた気がした。


 ——いいえ、違う。


 あの日々が報われたのではない。あの日々から解放されて、初めて、私は本当の意味で人の役に立てているのだ。


 強制ではなく、自らの意思で。


 使命ではなく、愛情を込めて。


 クロード殿下が、そっと私の手を取った。


「貴女は私の国を救った。民から愛される聖女となった」


 深紫の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。


「でも今は、それ以上に——貴女自身を守りたいと思っている」


 守りたい。


 その言葉の意味を、私は正確に理解していた。


(この方は、私を——)


 胸の奥が、温かく震える。


「貴女が望むなら、私は永遠に待つ。急かすつもりはない。ただ、知っていてほしかった」


 殿下は私の手を離し、一歩下がった。紳士的な距離を保ちながら、それでも瞳だけは、熱を帯びて私を見つめ続けていた。


 私は——何と答えればいいのかわからなかった。


 十二年間、感情を押し殺して生きてきた。愛など知らない。恋など考えたこともない。


 でも、この人の傍にいると、心が温かくなる。


 この人の声を聞くと、安心する。


 この人に触れられると、頬が熱くなる。


 これが——恋なのだろうか。


 答えを出す前に、一人の兵士が広場に駆け込んできた。


「殿下! レグナント王国から使者が——王太子エドワードが、国境を越えてこちらへ向かっております!」


 その名を聞いた瞬間、私の体は強張った。


 エドワード。


 『欠陥品』と私を呼んだ、あの男。


 クロード殿下の表情が、一瞬だけ冷たく引き締まった。しかしすぐにいつもの穏やかな笑みに戻り、私を見つめる。


「セレナ様。会うも会わないも、貴女が決めることです。逃げても構わない。私が必ず守る」


 逃げる——そうすることもできた。


 しかし私は、首を横に振った。


(会います)


 唇の動きだけで、そう告げた。


 逃げたくない。もう、逃げる必要がない。


 私は『欠陥品』ではない。声を失っても、私は私だ。


 この三ヶ月で、私は変わった。もう、あの頃の怯えた少女ではない。


 エドワードに——そして過去の全てに、終止符を打つ時が来た。



 第四章 もう遅い


 ◆◇◆ セレナ視点 ◇◆◇


 アストレア王城の謁見の間。


 高い天井から差し込む陽光が、白大理石の床に淡い模様を描いている。フェリクス陛下が玉座に座し、その隣にクロード殿下が立つ。私は殿下の斜め後ろに控えていた。


 そして、謁見の間の中央に——エドワードが跪いていた。


 かつて私を『欠陥品』と切り捨てた男は、見る影もなく憔悴していた。金髪は乱れ、碧眼は血走り、頬はこけている。豪奢だった衣装には皺が寄り、王太子の威厳など微塵も感じられない。


「——伏してお願い申し上げる。セレナ・ヴェルディ嬢を我が国にお返しいただきたい」


 その言葉に、私は瞬きすらしなかった。


「レグナント王国は崩壊の危機にある。結界は消失し、魔獣が跋扈し、疫病が蔓延している。民は毎日死んでいく。このままでは——」


「王太子殿下」


 フェリクス陛下の威厳ある声が、エドワードの言葉を遮った。


「セレナ嬢は我が国の賓客であり、臣民ではない。彼女をどうするかは、私が決めることではない」


 そして陛下は、私を見た。


「セレナ嬢。この者の願いを聞くかね?」


 全ての視線が、私に集まる。


 私は一歩前に出た。竪琴を抱いたまま、かつての婚約者を見下ろす。


 エドワードが顔を上げた。その瞳に、すがるような色が浮かぶ。


「セレナ……頼む。お前にしかできないのだ。国を救えるのは、お前だけなのだ」


 お前。


 三ヶ月前と同じ呼び方。しかし、その響きはまるで違っていた。


 あの日は蔑みを込めて。今日は懇願を込めて。


 どちらも——私を一人の人間として見ていないことに変わりはない。


「俺が間違っていた。お前を欠陥品などと呼んだことを、心から悔いている。だから——」


 私は静かに首を横に振った。


 エドワードの顔が強張る。


「セレナ……?」


 私は竪琴を構えた。言葉は出ない。だから、音で伝える。


 弦を爪弾く。流れ出す旋律は、悲しみでも怒りでもない。ただ静かな——決別の調べ。


 十二年間の日々が、音に乗せて語られていく。


 毎夜三時間の祈祷。疲弊していく体。誰にも認められない献身。『王宮の影』と嘲笑された日々。父に捨てられ、義妹に毒を盛られ、婚約者に『欠陥品』と切り捨てられた夜。


 そして——解放されたあの瞬間の、不思議な安堵。


 演奏が終わった時、謁見の間は静寂に包まれていた。


 エドワードの顔には、驚愕と苦悶が浮かんでいた。音を通じて、私の十二年間が伝わったのだろう。


「そんな……そこまで……」


 私はゆっくりと首を横に振った。そして、唇だけで言葉を紡ぐ。


 クロード殿下が、私の言葉を代弁してくださった。


「セレナ様はこう仰っています——『もう遅いのです、殿下。私の声は戻りません。そして私の心も、もうあの場所には戻れない』」


 エドワードの顔から、血の気が引いていく。


「待ってくれ。声が戻らなくても、お前の力があれば——その竪琴で——」


「『十二年間、私は道具として使われました。声を失うまで、誰一人、私を人間として見てくれなかった』」


 殿下の声が、淡々と私の想いを伝える。


「『あなたは今でも、私を道具として見ている。国を救う手段として。それだけが、私の価値だと』」


 エドワードが言葉を詰まらせる。


「『でも、もう私はあなたの道具ではありません。この国で、私は一人の人間として生きることを選びました』」


 私は深く息を吸い、最後の言葉を唇に乗せた。


「『さようなら、エドワード殿下。どうか、ご自身の力で国をお救いください』」


 それは——十二年前、八歳の私が言いたかった言葉だった。王宮に連れて行かれる時、父に言いたかった言葉。毎夜の祈祷で倒れそうになるたび、叫びたかった言葉。


 行きたくない。助けて。私を見て。


 でも、誰も聞いてくれなかった。だから私は、言葉を飲み込むことを覚えた。


 今、ようやく伝えられた。


 もう遅い、と。


 あなたたちの元には、戻らない、と。


 ◆


 エドワードは崩れ落ちた。


「そんな……そんな……」


 床に額をつけ、嗚咽を漏らす王太子。その姿に、私は何の感慨も抱かなかった。


 哀れだとは思う。しかし、同情する気にはなれない。


「王太子殿下」


 フェリクス陛下が口を開いた。


「貴国の窮状は理解した。セレナ嬢の帰還は叶わぬが、我が国として可能な援助は検討しよう」


 それが、アストレア王国の答えだった。


 セレナは渡さない。しかし、同盟国として最低限の支援はする。


 政治的には最善の落としどころだろう。私を奪い返すことも、完全に見捨てることもしない。


 エドワードが項垂れたまま、退出していく。


 その背中を見送りながら、私は思った。


(終わった)


 十二年間の呪縛から、本当の意味で解放された。


 もう、振り返ることはない。


 ◆◇◆ エドワード視点 ◇◆◇


 アストレア王城を後にする馬車の中で、私は虚脱していた。


 セレナの竪琴から流れた音色が、頭から離れない。


 あの旋律に込められた十二年分の孤独と疲弊。誰にも認められず、誰にも守られず、ただ国のために身を削り続けた日々。


 私は、それを知らなかった。知ろうともしなかった。


『お前を欠陥品などと呼んだことを、心から悔いている』


 自分で発した言葉が、今更ながら空虚に響く。


 悔いている? 本当に?


 違う。私が悔いているのは、セレナを失ったことで国が崩壊しかけていることだ。彼女を傷つけたことではなく、彼女の価値に気づかなかったことだ。


 結局、私もまた——彼女を道具としか見ていなかった。


(だから、振り向いてもらえなかったのか)


 セレナの瞳を思い出す。かつては色褪せたラベンダー色に曇りがあったが、今日見た彼女の瞳は、澄んだ光を湛えていた。


 あれが、解放された人間の目だ。


 もう、戻ってこない。何をしても、どれだけ頭を下げても。


 私が壊したものは、二度と元には戻らない。


 馬車の窓から、アストレアの豊かな大地が見える。結界に守られ、疫病もなく、民が平和に暮らす国。


 セレナがいる国。


 対して、私が帰る国は——


「殿下、レグナントより緊急の知らせです」


 護衛の騎士が馬を寄せてきた。


「リリアーナ・ヴェルディの裁判が終わりました。禁呪の使用および反逆罪により、終身投獄が確定。ヴェルディ伯爵家は爵位剥奪、領地没収となりました」


 リリアーナ。


 彼女のことを、私は恨むべきなのだろうか。


 ——いや、違う。


 リリアーナが毒を盛らなくても、私はいずれセレナを切り捨てていただろう。彼女の価値を知らないまま、華やかなだけの女を選んでいただろう。


 全ては、私自身の愚かさが招いた結果だ。


「続いて、陛下からの伝言です」


 騎士の声が、さらに私を打ちのめす。


「セレナ嬢の帰還が叶わなかった場合、王太子の継承権について再考するとのことです」


 継承権の、再考。


 それは、私が王になれないことを意味していた。


 ◆


 レグナントに戻った私を待っていたのは、地獄だった。


 結界は完全に消失し、王都は魔獣の脅威に晒されていた。疫病は収まる気配がなく、毎日のように葬列が通りを行く。


 民の視線が、私を突き刺す。


「王太子が『神託の歌姫』を追い出したせいだ」


「あの方を『欠陥品』と呼んだのだそうだ。なんという愚か者か」


「隣国では『調べの聖女』として敬われているというのに」


 かつて私を称えた民が、今は唾を吐くように私を罵る。


 王位継承権は剥奪された。王太子の称号は弟に移り、私はただの『前王太子』となった。


 リリアーナは牢獄で泣き叫んでいるという。『あの女さえいなければ』と、最後まで逆恨みを吐きながら。


 母上は寝込み、父上は老け込んだ。ガレウスは必死に結界の代替手段を探しているが、成果は出ていない。


 全てが、崩壊していく。


 私が——私たちが、セレナに対してしてきたことの報いとして。


 ◆


 ある夜、私は一人で神殿を訪れた。


 セレナが毎夜祈祷を行っていた場所。今は誰もいない、静寂だけが支配する空間。


 祭壇の前に跪く。


 十二年間、彼女はここで歌い続けていたのだ。毎夜三時間。疲弊した体を引きずりながら。誰にも感謝されることなく。


 私が宴に興じている時も、リリアーナの歌声に酔いしれている時も——彼女は、ここで国を守っていた。


「……すまなかった」


 誰もいない神殿に、謝罪の言葉が響く。


 セレナには届かない。届けるつもりもない。


 これは、自分自身のための言葉だ。


 私は愚かだった。取り返しのつかない過ちを犯した。


 その事実を、ようやく受け入れられた。


 ただ——それだけのことだった。



 第五章 調べの聖女の戴冠


 ◆◇◆ セレナ視点・一年後 ◇◆◇


 アストレア王国の大聖堂に、朝の光が差し込んでいた。


 ステンドグラスを通して虹色に染まった光が、白いドレスに包まれた私を照らす。


「緊張していますか?」


 隣に立つクロード様——いいえ、もうすぐ私の夫となる人——が、穏やかな声で問いかけてきた。


 私は首を振り、微笑んだ。


 緊張はしていない。不安もない。


 一年前のあの日から、私の人生は変わった。声を失い、婚約を破棄され、国を追われ——しかしそれは、偽りの鎖から解放された日だった。


「セレナ様」


 クロード様が、私の手を取った。深紫の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。


「私は、貴女の声を愛したのではありません」


 その言葉に、胸の奥が温かくなる。


「貴女の強さを、優しさを、静かな芯の強さを愛しています。声があってもなくても、貴女は貴女だ」


 目頭が熱くなった。この一年で、私は何度泣いたことだろう。でも、もう涙は悲しみのためではない。


『私も——あなたを愛しています』


 声にならない言葉を、唇の動きだけで伝える。クロード様は微笑み、私の額にそっと口づけを落とした。


 ◆


 戴冠式は、盛大に執り行われた。


 フェリクス陛下から王太子妃の冠を授けられた時、民衆から歓声が上がった。『調べの聖女』を讃える声が、大聖堂の外まで響き渡る。


 ミレーヌが、最前列で涙を流していた。十二年間、私の傍らで支え続けてくれた彼女。今日は侍女ではなく、私の家族として、この場に立っている。


「お嬢様——いいえ、セレナ様が、こんなにも幸せそうな顔をされているのを見られて……」


 私は彼女に向かって微笑んだ。


(ありがとう、ミレーヌ。あなたがいなければ、私は壊れていた)


 その想いを、後で竪琴の音色に乗せて伝えよう。


 ◆


 披露宴の席で、老賢者エルデンが現れた。


「見事な花嫁ぶりじゃな」


 飄々とした態度の裏に、温かな眼差しがあった。


「一年前、沈黙の森で初めて会った時から、こうなることは見えておった。貴女の魔力は、愛する者と共にある時、最も強く輝く」


 私は竪琴を構え、短い旋律を奏でた。感謝の気持ちを込めて。


 エルデンは笑った。


「やはり、声よりも雄弁じゃな。さすが『調べの聖女』よ」


 ◆


 宴も終盤に差し掛かった頃、ガレウス宮廷魔術師から書状が届いた。


『セレナ様の御成婚を心よりお祝い申し上げます。レグナント王国は未だ苦境にありますが、アストレア王国の支援により、少しずつ回復の兆しを見せております。前王太子エドワード殿下は、一介の騎士として国境警備の任に就いておられます。リリアーナ・ヴェルディは依然として投獄中。ヴェルディ伯爵は全てを失い、田舎で隠遁生活を送っているとのこと。皆が、己の所業の報いを受けております。どうか、セレナ様は過去を振り返ることなく、新たな人生を歩まれますよう』


 書状を読み終え、私は静かに息を吐いた。


 過去を振り返ることなく——その言葉が、胸に沁みた。


「どうしました?」


 クロード様が隣から覗き込んでくる。私は首を振り、書状を渡した。


 読み終えた彼は、複雑な表情を浮かべた。


「……彼らのことは、気にかかりますか?」


 私は少し考え、そして首を横に振った。


 気にかかるかと問われれば、否とは言えない。十二年間過ごした場所、十二年間仕えた人々。その末路を聞いて、何も感じないわけではない。


 しかし——


『同情はしません。でも、恨んでもいません』


 唇の動きで伝える。


『あの人たちは、自分たちの選択の結果を受け入れているだけです。私がどうこうすることではありません』


 クロード様は、ゆっくりと頷いた。


「貴女は、強くなった」


「『あなたのおかげです』」


「いいえ」


 彼は私の手を取り、指を絡めた。


「貴女は最初から強かった。ただ、その強さを発揮する場所がなかっただけだ。私は——貴女が本来の姿に戻るのを、傍で見守っていただけです」


 その言葉が、何よりも嬉しかった。


 ◆


 披露宴が終わり、夜が更けていく。


 バルコニーに出ると、満天の星が瞬いていた。一年前、レグナント王国を去った夜と同じ空。


 あの夜、私は全てを失ったと思った。声を、婚約者を、居場所を。


 でも実際は——偽りの鎖から解放されただけだった。


 声を失ったからこそ、竪琴という新たな表現手段に出会えた。


 婚約を破棄されたからこそ、本当に私を愛してくれる人に出会えた。


 国を追われたからこそ、私を正当に評価してくれる場所に辿り着けた。


(あの日、確かに何かが終わった。でも、それは悲しい終わりではなかった)


 新しい始まりだった。本当の人生の、始まりだった。


「セレナ」


 背後から、クロード様の声がする。


 振り返ると、彼が月明かりの中に立っていた。銀髪が淡く輝き、深紫の瞳が優しく私を見つめている。


「貴女の音楽は、声よりも雄弁に、貴女の心を伝えている」


 彼が私の手を取る。指輪が月光を受けて輝いた。


「これからは、その音楽を——私のためだけに聴かせてくれませんか」


 私は竪琴を構え、静かに弦を爪弾いた。


 流れ出す旋律。愛の調べ。


 言葉はいらない。この音が、全てを伝えてくれる。


 クロード様が、私を抱き寄せた。温かく、力強く、けれど優しい腕の中。


 私の瞳に映るのは、もう過去の悲しみではなかった。


 愛する人と歩む、未来だけが——そこにあった。


 ◆


 ——後に、歴史書はこう記している。


『調べの聖女セレナ・アストレアは、その竪琴の音色で数多の奇跡を起こした。アストレア王国の繁栄を支え、周辺諸国との和平をもたらし、かつて彼女を追放したレグナント王国さえも、その恩恵に与ることとなった。


 彼女は生涯、声を取り戻すことはなかった。しかし彼女の音楽は、いかなる言葉よりも雄弁に人の心を動かしたという。


 国王クロードとの間には三人の子を設け、その全員が母譲りの音楽の才を持っていた。彼女は八十二歳で穏やかに息を引き取るまで、愛する者たちのために奏で続けた。


 彼女の辞世の旋律を聴いた者は皆、涙を流しながらも微笑んだという。その音には、悲しみではなく、満ち足りた幸福だけが込められていたからである』


 ——これは、声を失った少女が、真の幸福を掴むまでの物語。


 そして、彼女を踏みにじった者たちが、その報いを受けるまでの物語。


【完】

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