第五話 そのまま、届ける
箱の中には、静けさが入っている。
作業場の端で、肉師は白い手袋をはめ直した。
手袋は清潔であるためのものだが、それだけではない。
指先の感覚がわずかに鈍ることで、逆に“今までの感覚”を信じられるようになる。
頼りすぎない。逃げない。最後まで、肉そのものと向き合う。
整えられた近江牛が、作業台に並んでいる。切り口の光、脂の揺らぎ、赤の深さ。
ここまでの時間が、一枚一枚に宿っている。
肉師は、肉を一つ取り上げ、ふと鼻を近づける。仕込みたての香りがある。
寝かせの時間が生んだ、あの甘い匂いが、まだ残っている。
本当は、このまま出したい。このまま、すぐに食べてほしい。
だが、近江八幡の外にも、この肉を待つ人がいる。
遠くの食卓でも、同じ感動を味わえるようにする。
それが、今の仕事だ。
肉師は、包装の工程を確認する。
見た目はきれいだ。だが、きれいさは目的ではない。
目的は、“仕込みたて”のまま届けることだ。
ここで、冷凍が入る。冷凍という言葉には、昔の自分なら眉をひそめた。
凍らせる。止める。味が落ちる。そんなイメージが強かった。
実際、過去に何度も見てきた。
解凍した瞬間、肉汁が流れ出し、香りが薄れていく。あれは、肉が死ぬ音だった。
だが、技術は変わる。
そして、変えるべきものは変えるという姿勢が、この店には昔からあった。
肉師は、凍結装置の前に立つ。
CAS――細胞を壊さず、食品全体を瞬間的に凍らせる仕組み。
水分子を振動させ、凍結による破壊を抑える。それは、急ぐための技術ではない。
待ってきた時間を、壊さないための技術だ。
扉が閉まる。機械の音は低く、淡々としている。
この音を聞くたび、肉師はいつも思う。
これは“妥協”ではない、と。
むしろ逆だ。
遠くへ行くために、手仕事はさらに厳しくなる。
CASがなければ、近江八幡でしか成立しない味がある。
だがCASがあれば、近江八幡の外でも成立する。
それは、誇りを広げることだ。
凍結を待つ間、肉師は作業場の片隅に置かれた古い包丁箱に目をやった。
先代のものだ。
研ぎ減って、刃は短い。
だが、その短さに、時間が詰まっている。
戦時中の話を、また思い出す。
東京の店を閉めた話。
三越の地下から撤退した話。
牛肉の県外移出が禁じられ、どうしようもなく引き上げた話。
先代は、それを恨み言として語らなかった。
むしろ淡々と、「仕方なかった」と言った。
その言葉の裏にあるものを、肉師は今なら想像できる。
怒りや悔しさがないわけではない。ただ、それより大きいものを守ろうとしていたのだ。
名前。信用。そして、やり方。
近江商人の「三方よし」を、先代が口にしたのは、肉師がまだ若い頃だった。
「売り手だけが良くても、続かん」
「買い手だけが良くても、続かん」
「世間が良くないと、名前が潰れる」
そのとき肉師は、商いの話をしているのだと思った。だが今は、肉の話だとわかる。
急げば、自分は得をする。削らずに売れば、量は増える。寝かせずに出せば、回転は速い。
だが、それは“今日だけ”の良さだ。
肉師は、今日だけでは終われない。
この店は、一日でできたのではない。
一三〇年の、積み重ねだ。
それは、誰かが「今日だけ」を選ばなかった結果だ。
凍結が終わり、扉が開く。
肉師は中を確認し、うなずく。
肉は、止まっている。だが死んでいない。時間が、閉じ込められている。
包装が整い、箱が閉じられていく。
中には、肉だけではない。
切り口に込めた判断、捨てた端肉の決断、待った日々の忍耐、刃の角度の微調整。
それらすべてが、箱の中に入っている。
配送ラベルが貼られる。
宛先は、近江八幡ではない。遠い街の、見知らぬ家。
肉師は、箱を運ぶ手を止め、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
その家の台所を思い浮かべる。
鍋の湯気。
包丁の音。
皿を並べる手。
誰かが、少しだけ背筋を伸ばす気配。
――これは贈り物だろうか。
――それとも、何でもない日のご褒美だろうか。
肉師は、それを確かめる術を持たない。けれど、確かめる必要はない。
どんな日でも、肉は嘘をつかないように仕上げた。
それだけで、十分だ。
数日後。
肉師は作業場で、次の一頭の準備をしていた。
日々は、淡々と続いていく。
だが、その日、事務所側から一枚の紙が回ってきた。
簡単な印刷のメッセージ。読み上げるような言葉はない。
ただ、短い文章が並んでいる。
肉師は手を止め、紙を受け取った。指先に、紙のざらつきが伝わる。
「箱を開けた瞬間、思わず声が出ました」
「こんなに香りがするお肉は初めてです」
「家族が黙って食べて、最後にみんな笑いました」
「また食べたい、って言われたのが嬉しかったです」
肉師は、そこまで読んで、紙を少しだけ握りしめた。
握りしめたせいで、紙がわずかにしわになる。
慌てて力を抜いた。仕事の手は、肉のためにある。
紙をしわにするためではない。
もう一度読み直す。
「黙って食べて」
という一文が、胸の奥に残った。
料理の場で、言葉が消える瞬間がある。美味しさが、会話を奪う。
それは、肉師にとって最大の褒め言葉だった。
肉師は、紙を机の隅に置いた。
目につく場所ではない。
誇示するためではない。
ただ、忘れないために。
そして、もう一度、冷蔵庫の扉を開ける。冷気が足元へ落ちていく。
床に薄い霧が生まれる。
吊られた近江牛が、静かに待っている。
また、今日の仕事が始まる。
肉師は、すぐには手を伸ばさない。
目で見る。距離を変えて見る。影の落ち方を確かめる。
等級表は見ない。
自分の目で、脂の質を確かめる。この一頭を、どう終わらせるか。
その決断こそが、すべてだ。
扉の外には、遠くの食卓がある。
箱を開け、肉を見て、息を呑む誰かがいる。
口に含み、黙り込み、最後に笑う誰かがいる。
その瞬間のために、今日も刃は磨かれる。
捨てる決断が下される。
待つ時間が守られる。
裁ちの角度が整えられる。
そして、時間を壊さない技術に託される。
肉師は、静かに息を吐いた。包丁は、まだ持たない。
火を入れる前に、料理は終わっている。
そして、食卓で初めて、物語が始まる。




