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第三話 寝かせる時間

捌き終えた肉は、すぐには次の工程へ進まない。

肉師は作業台を片づけ、布巾で刃を丁寧に拭ったあと、しばらくその場に立つ。

身体の中に残った緊張が、ゆっくりと抜けていくのを待つ。

捌きは、集中力を削る仕事だ。次の工程に移る前に、自分の感覚を平らに戻さなければならない。

肉は急がない。だから、人も急いではいけない。

冷蔵庫の扉を開けると、再び冷気が流れ出す。

さきほどまで吊られていた牛は、もうそこにはいない。代わりに、部位ごとに分けられた肉が、静かに棚に収まっている。

ロース。

モモ。

バラ。

それぞれが、別の時間を生きている。

肉師は棚を一つずつ確認していく。触らない。ただ、見る。色の変化、表面の乾き、脂の立ち方。昨日と同じようで、確実に違っている。

この工程を、他人は「何もしない時間」と呼ぶ。

だが、肉師にとっては、もっとも神経を使う仕事だった。


若い頃、この時間が理解できなかった。

切ってもいない。磨いてもいない。ただ、冷蔵庫を開けては閉める。その繰り返しに、意味を見いだせなかった。

ある日、先代に訊いたことがある。

「何を見ているんですか」

先代は、しばらく黙って肉を眺めてから、短く答えた。

「変わる準備ができたかどうか、だ」

そのときは、よくわからなかった。

だが、今ならわかる。

肉は、切った瞬間に完成するわけではない。

捌いたあとの時間が、味を決める。

タンパク質が、少しずつほどけていく。

硬さが抜け、香りが立ち上がる。

それは、人の目では捉えきれないほど、ゆっくりとした変化だ。

肉師は毎日、同じ時間に冷蔵庫を開ける。忙しい日でも、疲れている日でも、必ずだ。

一日見なければ、肉は一日分、勝手に進む。それを、あとから取り戻すことはできない。

棚の奥のロースを、目で追う。今日は、まだだ。

もう一段下の棚にあるモモは、少し表情が変わっている。

角が取れ、色に深みが出てきた。肉師は、心の中で印をつける。

明日か、明後日。

まだ裁ちはしない。


冷蔵庫の扉を閉める。金属音が静かに響き、また作業場は無音に戻る。

その静けさの中で、肉師は近江商人の話を思い出す。

売り手よし。

買い手よし。

世間よし。

若い頃は、きれいごとに聞こえた言葉だ。

商いの世界は、もっと厳しく、もっと冷たいものだと思っていた。

だが、肉と向き合う時間が増えるにつれ、その言葉の意味が、少しずつ身体に染みてきた。

急げば、得をするのは自分だけだ。早く売れば、金は入る。

だが、肉は嘘をつかない。待てば、時間は全員のものになる。

食べる人も、作る人も、同じ時間を共有する。

寝かせるという行為は、肉を信じることだ。同時に、客を信じることでもある。

「待てば、わかる」

先代が、何度もそう言っていた理由が、今ならわかる。

肉師は、冷蔵庫の前に立ち、腕を組む。この時間は、何も生まないように見える。

だが、実際には、すべてがここで決まっている。

冷蔵も冷凍もなかった時代、どうやってこの時間を守っていたのだろう。

想像するだけで、気が遠くなる。

それでも、先人たちは待った。急がなかった。

近江牛の名を、軽くしなかった。その結果、名前が残った。

肉だけでなく、やり方が残った。

肉師は、もう一度冷蔵庫を開ける。

ほんの数分前と、変わらないようで、違う。

肉は、今日も進んでいる。人の都合など、関係なく。

だからこそ、こちらも毎日、向き合う。目を逸らさない。

触らないが、離れない。

冷蔵庫を閉め、肉師は作業場を後にする。

今日は、もう刃を入れない。

この仕事は、切ることではない。

待つことだ。

そして、待つという行為が、もっとも誠実な仕事だと、肉師は知っている。

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― 新着の感想 ―
何もしない時間を描くことで、逆に「最も重い仕事」を浮かび上がらせる構成が見事。 冷蔵庫を開けて閉めるだけの反復が、読者に「時間を尊重するとは何か」を問いかけてくる。 近江商人の“三方よし”が、理念では…
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