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第二話 捌くということ

包丁を持つと、空気が変わる。

さっきまで静かだった作業場に、緊張が生まれる。音ではない。匂いでもない。

肉と人の距離が、一気に縮まることで生じる気配だ。

肉師は包丁を布で拭き、刃先を確かめる。

指で触れることはしない。視線だけで、刃の状態を読む。研ぎすぎてはいない。甘くもない。今日の牛には、これでいい。


吊られた近江牛の前に立つ。

もう迷いはない。さっき終わらせた仕事を、ここから形にするだけだ。

最初の一刀は、骨に沿わせる。

刃が肉に入る瞬間、わずかな抵抗が手に返る。押さない。引かない。

刃を「置く」ようにして、自然に滑らせる。骨に触れたときの、乾いた感触。

そこから先は、迷わない。

肉が外れていく。

切り離された肉塊が、作業台に置かれるたび、重みが減っていく。

だが、台の脇には、別の重みが積み上がっていく。

脂、筋、端肉。使おうと思えば使える部分だ。

肉師は、それを迷いなく脇へ寄せる。

若い頃、この作業が怖かった。

「捨てている」という感覚が、どうしても消えなかった。

ある日、先代がそれを見て、ぽつりと言った。

「全部使おうとするな」声は低く、強くもなかった。

だが、その一言は、刃よりも深く刺さった。

「全部使おうとすると、全部が死ぬ。一番うまいところだけ、生かせ」

その意味は、すぐにはわからなかった。だが今なら、はっきりわかる。

肉は、足し算ではない。引き算だ。

余分なものを残したままでは、脂は重くなり、香りは濁る。

思い切って削ることで、肉は軽くなる。口の中でほどける余地が生まれる。


肉師は、さらに刃を入れる。余分な肉を、あえて多めに落とす。

見れば、確かにもったいない。数字だけを見れば、損だ。

だが、肉師は数字を見ない。

捌きながら、先代の話を思い出す。

戦時中のことだ。

「東京の店はな、閉めるしかなかった」

その声には、悔しさも、怒りもなかった。

ただ、事実として語られただけだった。

牛肉は県外に出せなくなり、東京に構えた店も、三越の地下の売り場も、すべて引き払った。築いてきた信用を、守るためにだ。

「残すために、引いた」

そう言って、先代は包丁を研いでいた。

肉師は、今その意味を、手の中で確かめている。

捨てることで、残す。

引くことで、続ける。

作業台の上の肉は、すでに別の表情を見せている。

無駄な重さが消え、輪郭がはっきりしてきた。

肉師は一度、手を止める。息を整え、肉を見る。

ここから先は、乱暴になるとすべてが台無しになる。捌きは、勢いではない。

最後まで、丁寧に終わらせる仕事だ。刃を入れ、外し、また入れる。

その繰り返しの中で、肉は少しずつ「形」になっていく。


気づけば、作業場に朝の光が差し込んでいた。

しかし、肉師の感覚はまだ夜のままだ。

捌き終えた肉を見渡し、静かに頷く。

これでいい。

使う肉より、捨てた肉の方が多いかもしれない。それでも、これが正しい。

肉師は、端肉をまとめ、作業台を拭く。次は、磨きだ。

今はただ、捌くという仕事を、終わらせた。

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― 新着の感想 ―
「全部使おうとするな」という先代の言葉が、倫理・経済・美味のすべてにまたがる“核”として刺さる回。 捨てる=悪ではない、という価値転換が、感情ではなく手の感触で語られるのが秀逸。 数字や等級を信じない…
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