第一話 一頭の朝
夜明け前の作業場は、外界から切り離された場所のように静まり返っている。
遠くで車が走る音はするが、壁の内側には届かない。
聞こえるのは、冷蔵庫の低い唸りと、自分の呼吸だけだ。
照明は半分しか点けない。明るすぎる光は、肉の本当の色を隠してしまう。
白すぎる光の下では、脂は白く見え、赤は赤すぎる。
肉師は長年の癖で、光を選ぶ。
冷蔵庫の前に立ち、しばらく動かない。
この時間は、誰にも邪魔させない。
扉を開けると、冷気が一気に足元へ落ちていく。
床に薄い霧が生まれ、ゆっくりと広がる。まるで、水が満ちるようだ。
肉師はその中に立ち、牛を見上げる。
一頭買いした近江牛。
今日、この牛と向き合う。
吊られた姿は、すでに「食材」だが、まだ「肉」ではない。
肉になる前の、最後の静けさを保っている。
表面の乾き具合、脂の張り、色の奥行き。すべてが、言葉を持たないまま、こちらを試してくる。
肉師は、すぐに手を伸ばさない。
目で見る。距離を変えて見る。少し角度を変える。影の落ち方を確かめる。
脂は白すぎない。黄ばみもない。均一でもない。細かい揺らぎがある。
これは、長く育てられた牛の脂だ。若さだけでは出ない、時間の痕跡がある。
指先で、そっと触れる。
冷たい。しかし、芯は冷えきっていない。押すと、わずかに沈み、すぐに戻る。
戻り方が速すぎない。遅すぎもしない。
「いい」
声には出さない。
評価は、内側で完結させるものだ。
等級表は見ない。
Aだの5だのという記号は、最後まで信用しない。数字は、基準にはなるが、答えではない。肉師にとって、基準は常に目の前の牛そのものだ。
鼻を近づける。
ほんのりと、甘い匂いがする。血の匂いではない。草でもない。
時間が生んだ匂いだ。これがあるかどうかで、すべてが変わる。
肉師は、この牛を頭の中で分解する。
ロースは、どこまで寝かせるか。モモは、何に使うか。
この脂は、溶ける。溶けすぎない。ここは削る。ここは残す。
包丁は、まだ持たない。
刃を入れる前に、すべてを決める。
どこを切るかではない。
どこで終わらせるかを決める。
若い頃は、切ることが仕事だと思っていた。包丁を入れ、形を整え、量を揃える。
それが肉師の仕事だと信じていた。しかし、ある日、先代に言われた。
――切る前に、終わらせろ。
その意味が、すぐにはわからなかった。だが、牛と向き合う時間を重ねるうちに、少しずつ理解した。包丁は、決断の結果でしかない。
決断は、刃を持たない時間に下される。
肉師は、冷蔵庫の扉を閉める。金属が触れ合う音が、短く響く。
今日一日、この一頭と過ごす。
捌き、磨き、寝かせ、裁つ。
だが、そのすべては、今この瞬間に始まり、そして終わっている。
作業台に向かう背中は、急がない。急ぐ理由がない。
この仕事は、速さではない。正しさでもない。
積み重ねた時間だけが、基準だ。
夜が明けるころ、外は少しずつ明るくなる。だが作業場の中では、まだ朝は始まっていない。始まるのは、包丁を持つその時だ。
肉師は、静かに手を洗い、布巾で水気を拭った。
そして、ようやく、包丁のある場所へ向かった。




