異端者の休息
僕ほど性格の悪い人間はそういないだろうが、僕ほど倫理的に完成された人間はそれ以上に少ないだろう。プライドが高く自己中心的で嫉妬深く、承認欲求が強い、そして人を見下すことか自分に酔いしれることでしか自分を保てない僕でも、自分を善人だと思っている人間よりは遥かにマシだろう。良い性格の絶対条件である道徳とはそれが欠落した衆愚のためにあるものだ。もしこの世の全ての人間の性格が僕以上に悪かったとしても皆が道理を通す人間であれば何も問題は起こらない。むしろ今存在する、もしくはしていたこの世の全ての人的地獄は僕よりも性格の良い人間によってもたらされている。もはや僕の性格や哲学は僕に長年恩恵と弊害のその両方をもたらしてきた発達障害の特性からすらも完全に逸脱している。そのことには何年も前から気付いていたが認めたくはなかった。これは僕が倫理的に完成していないことを認めざるを得ない数少ない証左のひとつだろう。
おそらく僕よりも頭の悪い人間でも、古今の哲学書を読み漁れば今の僕と同じことが言えるだろう。絶対数でなら、僕を超える人間は言うなれば星の数ほど過去にも未来にも存在するのだから、僕の哲学は僕自身にしか価値ある可能性はあり得ないが、それに限れば天文学的な数値で表せるだろう。哲学を愛しながら哲学書を拒む僕からいったいどれだけの哲学書に載っているのと同じ言葉が出てくるのかについて僕は知りたくて仕方がないが、そのことをそれが許すことは永久にあり得ない。そしてその検証を他の誰かに求むることもこれはまた叶わず、僕の哲学を破壊する最も簡単かつ確実な方法である。僕の哲学が僕の哲学によるものなのか、僕が哲学書を読み漁って再構成したものなのかを測り得るのは知能か、経験か、僕への理解か、あるいは哲学か。第六感というのは今挙げたうちのどれと一致するのだろうか? あるいは内包か、それとも外包か? 少なくとも僕の哲学では明かし得ない。
僕が僕の哲学が破壊されることを願っている筈はないが、逆を証明する手筈も存在し得ない。そして破壊を試みることがそれを明かす唯一の方法であるべきだが、とある場合はその試み自体が存在しない。これの主人はそれが価値を示し得る人間だけであり、その特定はもはや僕には不可能だ。結局僕には何も分からない。成し遂げるために唯一残された道は僕の哲学を破壊することだけであり、そこにある開かずの扉は破壊目標そのものであり、歩かんとする道と一体である。ならば僕にはもう立ち止まることしか出来ないが、それは扉の取手を回す時間を僕にあたえる。扉は開くためにあるものだ。僕の考えていることはあまりにも月並みだと言わざるを得ない。だがそれはそうであることもまた重要な存在意義の構成要素だ。言葉の、あるいは哲学の。そして誰かがその扉を開くことは、僕の哲学を破壊することにはならないだろう。今ここに試みの主人はその存在たりえないことが証明された。扉の鍵を開けることは、その取手を回すことに比べれば遥かに簡単なことだ。扉の開く方向は?
いつのまにかもう出勤時刻だ。