第四話〜暁の空の下で〜
「今日の夕飯はどうしようかしら」
テーブルの向こうでシルフィがくるくると動きながら答える。
「えっ!? あたし!? うーんとね〜〜……カレー!甘口のやつ!あとチーズ乗っけてくれるとテンション上がる〜!」
ピンヒールのかかとでくるくると床を蹴りながら、彼女は天真爛漫な笑みを浮かべていた。だが、ふと足を止めてこちらを見つめる。
「でも、ご主人カレーあんまり食べないよね……。あ、アイラは何食べたいの? ご主人のぶんも一緒に作るなら、合わせた方がいいよね?」
「そうね、今日もスープにするわ。彼、スープだけは食べてくれるし。」
「うんうん、そっかぁ……ご主人、最近スープばっかだもんねぇ。」
シルフィは少し寂しそうに眉を下げ、足をぶらぶらさせる。
「ねえ、アイラ……ご主人、いつまであんな風なんだろ。
ノワールは部屋の中で楽しそうにしてるのにさ、ご主人はぜーんぜん顔上げてくれないし……。……寂しくないの?」
「寂しいわよ。けど彼がああなってしまった原因は私にもある。謝りたいけど今の彼は許せる状況じゃないでしょう?だから私は停滞を選んでる。彼がここにいてくれている間はね」
シルフィは俯いたまま、ぽつりと呟く。
「でもさ、でもさ、あたし……ほんとは、ご主人にもアイラにも、もうちょっと笑ってほしいって思ってるんだよ……。ねえ、アイラ。たとえばさ、もし明日、突然ご主人が『出てく』って言い出したら……どうする?」
「ようやく目的を見つけたんだって喜ばしく思うけど、行かせないかな。だって彼、リハビリしてないじゃない?今のままで行ってもすぐに倒れちゃうわよ?」
「うん……だよね……」
シルフィの声が小さくなる。だが、その瞳に浮かんだものは戸惑いだった。
「でもね……なんか、さっき部屋の前通ったとき、いつもより……静かだったの。ノワールの声も、ご主人の気配も、ぜんっぜんしなくて。ちょっと、怖くなっちゃって……。見に行ってくれる?」
「どうしたの急に。急に何処かに行くなんて、今の彼には無理よ?」
そうシルフィに促されアイラはオリヴィアの部屋の前にたどり着いた。だが――いつもドアの外に料理を置いているテーブルにはお盆が置かれていなかった。スープの器も、皿も、なかった。
「ねえオリヴィアいる?」
アイラはゆっくりと扉を開けた。しかしそこには――誰もいなかった。ベッドは整っている。風がカーテンを揺らしている。そして机の上には、一枚の手紙。お盆の影に隠れるように、そっと置かれていた。
「嘘…………ねえ…オリヴィア………?」
アイラの声は細く震え、喉奥でかき消える。そして、涙をこらえる間もなく――
「…………シルフィ…………っ………!!!!!」
アイラは叫ぶように名を呼んだ。階下で何かが倒れる音。すぐに軽い足音が駆け上がってくる。
「アイラ!? な、なになに!? どうし――」
シルフィが部屋を覗き込み、息を飲む。
「……いない、の……?」
「シルフィ…どうして気づかなかったの…?シルフィは彼と契約してるんでしょ?なんで……」
「……わたし、わかんなかったの……。いつもみたいに……静かで……ノワールは何考えてるかわかんないから何処かに行ってるものだと思ってた。ご主人はいつものように“また落ち込んでるだけ”だって、そう思っちゃって……」
シルフィの声がかすれた。涙が頬を伝い落ちる。
「ご主人、ノワールとだけ話すから……。“近づいちゃダメ”って……わたしが近づくと、ノワールが嫌な顔されるから……っ!」
「ごめん…シルフィ…貴女の罪じゃないわよね」
アイラが震える声でそう言った時、シルフィの手がふと手紙を拾い上げる。
「……ね、アイラ。これ……ご主人の、だよね?
読まないの……? アイラ、宛てなんでしょ……?」
アイラはそっと手紙を受け取り、目を通すのだった。
「全く…あいつったら…。全盛期の体じゃない癖に飛び出して行っちゃって…」
「……でも、行っちゃったんだよね。“やることができた”って言ってたってことは――たぶん、ご主人……ようやく、自分の足で歩こうって決めたんだと思う」
「彼が目的を見つけたのなら、私も――止まっているわけにはいかないわね。でも……私が行っていいのかしら。彼の停滞の理由に私が関係していたのだから……」
「ちがうよ、アイラ……! それってきっと――ご主人が、いちばん望んでることだよ!」
「シルフィがそう言うなら…私も行く。そうと決まれば準備をしなくちゃね。叔父様に言ってくるわね。」
「アイラ!」
シルフィがアイラの手を掴む。
「ご主人との契約は、まだ切れてないけど……。今は一緒にいないし、離れてる間くらいなら、仮契約で力を貸せると思うの。あたし、ちゃんと謝りたいから……一緒に行かせて」
「……そうね、シルフィ。仮とはいえ、私と契約してくれる?」
手と手が触れた瞬間、光が舞う。契約の風が、ふたりの間をつなぐ。シルフィは笑う。
「じゃ、行こっか。彼を取り戻す旅を」
*
魔法学園時代の制服に袖を通し、アイラは現最西の辺境都市オラリオの領主、叔父様のもとへと向かう。
「叔父様、夜分遅くに申し訳ありません。失礼します」
「……おや、アイラ。どうしたんだい、こんな時間に?」
「オリヴィアが目的を見つけて旅に出ました。ノワールと共に」
「……そうか。彼が“ようやく歩き出した”のだな。」
だがすぐに、落ち着いた手つきでインク壺にペンを戻すと、彼はゆっくりと椅子の背にもたれかかり静かに息をついた。
「……で、アイラ。君はどうするつもりだ?」
「私は、わがままを言って叔父様の元で勉強をさせてもらってる立場です。お父様が長くない以上、自分の人生を送る時間が残されていないことも理解しているつもりです。それでも良しとするつもりですか?」
「……筋だの、立場だの、そんなものを持ち出すには、君は少々、目が据わりすぎているな。」
その声音には微かに微笑がにじんでいた。だが、そこには誤魔化しのない静かな本音があった。叔父様は机の引き出しをそっと開け、一通の古びた手紙を取り出す。その封は色あせており、角がやや丸くなっている。だが彼は、それをアイラには渡さず、指で封筒の縁をなぞるだけにとどめた。
「これは君の父から送られてきた手紙だ。確かに君の父は私に任せたのかもしれない。けれどアイラ、私は君を“預かっている”つもりはないよ。」
ペンを置き、眼鏡越しにアイラをまっすぐに見つめる。
「君がここにいたのは、“必要だったから”だろう?なら――今、何が必要か、それも君が決めていいはずだ」
重ねられる言葉の一つ一つが、優しくも確固たる意志を帯びていた。アイラの胸の奥で、何かが静かに揺れた。おじ様は立ち上がり、ゆっくりと彼女の前まで歩く。そして、そっと肩に手を置いた。
「……もう、自分を縛るのはやめなさい」
声は落ち着いていたが、どこか父のような厳しさが滲む。
「“旅に出たい”なら、堂々とそう言いなさい。私は、それを咎める立場ではない」
「本当に…私は選んでも良いのですか…?」
その言葉には、許しでも、命令でもない――ただひとりの人間としての、アイラ自身への信頼が込められていた。
「……アイラ、行きなさい。君が歩むその道が、遠回りであろうと、……君の人生の重みを測れる者は、君しかいない」
「…わかりました…。私アイラは叔父様の命を持ってオリヴィアを追います。その果てに何があろうとも、この選択が誤りだったと後悔しないよう努力いたします。」
「行ってらっしゃい、アイラ」
「行ってきます、叔父様」
*
東の空が白みはじめる。辺境都市の城門の向こうに、旅路が広がっていた。
「覚悟と準備はいい? シルフィ。……ここに戻るのは、彼を連れ戻す時だけよ」
「うんっ!ばっちりだよ、アイラ!」
ふたりの影が、暁の光に溶けていく。――旅のはじまり。止まっていた時間が、再び動き出すのだった。