第三話〜陽光は歩く者に降り注ぐ〜
「ずいぶんと珍しいお客だな」
窓の外で揺れる雲が一瞬陽の光を遮るのと同時に魔力の変化を感じたオリヴィアはふと視線を上げる。その瞬間、部屋の中央にふわりとした魔力の波動が走り、床に淡い光の円が広がっていった。
「精霊陣――」
淡く、静かに。光は広がり、やがてその中心に一人の少女が立った。白銀の髪。青と金の瞳。透き通るような佇まい。纏う空気は、どこか神秘的だった。
「……精霊姫」
その名を呼ぶと、彼女――精霊姫は優しく微笑んで頷いた。
「ごめんなさい、突然で。けれど……話さなければならないことがあってね」
オリヴィアは頷くだけで、言葉を返さなかった。姫は軽く視線を落とし、口を開く。
「“アクア”が――行方不明なの」
オリヴィアの表情が微かに動いた。
「……アクアが戻っていない、それが異常だと?」
「精霊の帰り道は3つに分かれてるの。1つは普通に精霊域へ戻る。2つ目は、地上に未練があって魂に引っ張られる精霊。3つ目は――契約者の魂に異常がある場合。“導き手”として精霊自身が魂を守り、別の回廊へ導くケース」
淡々と語られる報告。それは、“おかしい”というレベルを超えた異常だった。オリヴィアは拳を握る。落ち着いた様子を保っていたその瞳が、わずかに揺れる。
「消滅の可能性は……?」
「それも否定できない。けれど――」
姫の表情が、ほんの少し緩んだ。
「私は、そうじゃないと信じてる。アクアの波長は、“冥府の道”を通っていなかった。……きっと彼女は、ノアの魂を抱いて、《エ・テン・アプス》に向かったのよ。あの御伽話が、本当なら」
「御伽話……?」
精霊姫はうなずくと、静かに語りはじめた。
「“エ・テン・アプス”。精霊域に伝わる古い物語。昔々、世界がまだ神々の息吹を帯びていた頃の話。死者の魂は、地下にある冥府――エレシュキガルの座す静寂の国へと還るとされていたの。そこに建つのが、《エ・テン・アプス》。神の柱と呼ばれた神殿よ」
オリヴィアは言葉を飲む。
「神の柱……」
「伝承ではね、その神殿の“扉”が、魂の還る道と繋がっていて、ほんのわずかな例だけれど、“死者をこの世に還した”奇跡があったとされてるの」
そこで一拍置いて、精霊姫は続ける。
「でも場所はもう誰も知らないし、今では御伽話扱いよ」
「それを……アクアは信じたってことか?」
「ええ。信じてその場所へ向かった。私が“そうだ”と確信したわけじゃない。でも、精霊王の審問にも彼女の痕跡は見つからなかった。そうなると……もう、その可能性しか残らないの。それに……私にも実際の場所はわからないの」
精霊姫は肩をすくめ、少しだけ困ったように微笑む。だがしかし、オリヴィアは静かに深く息を吐いた。
「なら文献を探すしかないな。あんたがこの物語は事実だっていうんなら、何処かしらに記録があるはずだ」
「……え?」
「古い文書に旅人の記録。さらには伝承……情報を繋げて、そこに行き着いてみせる。……あいつが、そこで待ってるっていうなら――」
拳を握りしめたまま、彼はゆっくりとベッドから立ち上がった。
「なら星の図書館に向かいなさい」
「星の図書館?」
「世界のすべての本があるとされているけれど、一般人は立ち入れないのよ」
「なら立ち入れるようにしてみせるだけさ」
「勇ましいこと。ふふふっ、貴方にこの話をしに来てよかったわ。私も何か情報を手に入れたら貴方に共有するから。ばいばい」
精霊姫は光に包まれ、精霊陣ごと消えたのだった。彼の瞳には、かつて失っていたはずの光が灯り始めていた。そして――
「ようやく吹っ切れたわね、オリヴィア」
窓枠に座っていたノワールが、笑いながら身を起こす。
「でもさ、その前に」
オリヴィアの肩にぽんと乗り、彼女は指をさす。
「ご飯は食べて行きなさい?そんなんじゃ旅なんかできないわよ?」
その言葉に、オリヴィアは一瞬だけ呆れたように目を細め――それでも、口元には微かに笑みが浮かんでいた。
「ああ、そうだな」
――食卓には、まだ温もりの残る料理が並んでいた。オリヴィアはゆっくりと椅子を引き、静かに腰を下ろす。
「……いただきます」
呟きながら、フォークを手に取る。皿の上に盛られたのは、香ばしく炒められたハーブの香りが漂うトマトソースのパスタ。湯気と共に、ふわりと優しい香りが鼻先をくすぐった。
一口――。
口内に広がったのは、まろやかで、優しくて、どこか懐かしい味。
「……うまい、な」
「そうでしょう?」
ぽつりとこぼれた言葉には、わずかな驚きが混じっていた。
「アイラの料理で、こんなにちゃんと味が整ってるなんて……」
魔法学園時代、アイラは料理が壊滅的に下手だった。ノアにすら『アイラは厨房に立たないで』と言われ、泣きべそをかいたことすらある。そのアイラが店を出せるレベルまで腕を上げているとは知らなかった。
「……腕、上げたな。まさか、本当にアイラが作ったのか?」
呟く声に、ノワールがくすりと笑った。
「アイラはね、ご主人がスープだけでも食べてくれてて嬉しがってたのよ。味はともかく、ずっと頑張ってたんだから」
「……そうか」
止まっていた時間が、確かに動いている。
その一皿に詰まった想いが、確かに今、胸の奥に届いていた。
「ずっとご主人のことを想って作ってたんだから。その想い、しっかり受け止めなさい」
当たり前のようにそこにある食事が、これほどまでに胸を打つとは思わなかった。止まっていた時間が、少しずつ動き出す。ノワールはその様子を見て、何も言わずにただふわりと笑った。完食した後、オリヴィアは静かに立ち上がると、棚の引き出しから紙とペンを取り出す。簡素な文字で、けれど丁寧に――。
⸻
《手紙》
ごめん。黙って出ていくこと、許してくれ。
やることができたんだ。だから俺は行かなくちゃいけないんだ。
ありがとう。今まで世話になった。
帰ってきたら、今度は……一緒に飯を食べよう。
――オリヴィア
⸻
手紙を机の上に置き、荷物を背負う。窓を静かに開け放ち、冷たい風がカーテンを揺らした。ノワールがふわりと肩に乗る。
「……ほんとに行くのね」
カーテンの隙間から差し込む陽光が、部屋の床を優しく照らしていた。ノワールは窓枠に腰掛けながら、少し寂しげに、それでも笑みを浮かべて言った。
「今更、止める気はないだろ?」
そう返すオリヴィアの声には、揺るがぬ決意が宿っていた。
「当然。私は見たいの、貴方が本当に求めているものを」
「……なら、付き合えよ。最後まで」
荷物を背負ったまま、彼は窓へと向かう。真昼の太陽が高く昇り、空を金色に染めている。目を細め、風の音を聞きながら、彼は一度だけ目を閉じた。
「ノア。俺はもう一度――君に会いに行く」
そして次の瞬間。黒の外套をはためかせ、オリヴィアは陽光の中へ――風のように、静かに、けれど確かに世界へと踏み出すのだった。