第二話〜閉ざされた扉の前で〜
朝の光が差し込むダイニングで、スープが小さく湯気を立てていた。
「……今日も美味しく出来た気がする。」
そう呟きながら、アイラは白いスープ皿に香草をそっと浮かべた。スプーンですくって味見をすると、柔らかな甘みと塩味が広がる。
「……オリヴィア、食べてくれるよね?」
温もりが冷めないうちにと、アイラは膳に盆を載せ、スープとパン、カップに注いだ紅茶を添える。微かに震える指先を自分で叱るように握り締め、顔を上げた。彼の部屋へ向かう階段。その途中で、アイラは足を止める。
「……いつまで続くんだろう、これ…。早く元気になってよ…オリヴィア」
ぽつりと漏れた言葉は、朝の空気に溶けて消えた。彼はいつも返事をしない。出てくることはない。スープだけは食べてくれてはいるみたいだけど、他の料理は全く手をつけてくれないようだ。それでも彼女は毎日三食分の食事を運んでいる。まるで儀式のように。
「……今日は、食べてくれるといいけど」
そう呟きながら、もう一段階段を上がろうとした、その時だった。
「……うぅっ……ひっく……」
ふと、微かな嗚咽が耳に入った。
「……シルフィ?」
廊下の角にしゃがみ込んでいたのは、小柄な精霊だった。明るい金と黄緑のグラデーションが入った髪が肩にかかり、薄緑のワンピースが床にくたっと落ちていた。
「シルフィ、泣いてるの?」
「……う、うん……ノワールと……また喧嘩、しちゃった……っ」
「また……?」
アイラはそっとしゃがみ、涙をぬぐうシルフィの背を撫でた。
「どうして喧嘩になるの?」
「……あの子、ご主人様のことばかり……好き勝手に言うから……!私だって……あの子のこと、取り戻したいのに……!」
「……うん、分かるよ。でも、ノワールもノワールなりに思うところがあるんだと思う」
「でも、私のこと、愚かだって……」
「……あの子の言葉、全部真に受けちゃだめ。あの子の言葉は棘が多すぎるの」
シルフィは目を伏せたまま、うなずく。
「……ねえ、シルフィ。今日……オリヴィアは、食べてくれるかしら?」
「……今日は……風の流れが、ちょっと違う気がする……。だから、うん。たぶん」
「ありがとう」
アイラはそっと立ち上がり、盆を持ち直した。
「行ってくるね。シルフィも、あったかいお茶でも飲んでて」
「……うん。アイラ、がんばって」
静かな廊下を、盆を手に歩く。彼の部屋の扉は、いつものように沈黙していた。ノックをしても、応える気配はない。
「おはよう、オリヴィア」
静かに、扉の前に盆を置く。
「今日は、少し塩を控えめにしてみたよ。スープの香り、少しは届いてるかな……」
返事はない。それでもアイラは微笑んだ。
「……食べてくれたら、嬉しいな」
振り返り、階段へ戻りかけて――ふと、振り返る。
「早く元気になってね…オリヴィア」
扉の先にいるかもしれない彼に、もう一度、言葉をかけるが廊下に響くのは、盆の音も、返事もない、静寂だけだった。
*
静かな廊下を降りて、アイラはシルフィとともにダイニングへ向かった。廊下には朝の光が差し込み、木の床に長く影が伸びる。だが、その穏やかな雰囲気とは裏腹に、シルフィの表情はまだどこか陰っている。
「……シルフィ、大丈夫?」
「うん……大丈夫。アイラが一緒なら……」
扉を開けると、すでに朝の空気を乱す存在がそこにいた。紫と黒の装飾を施した衣装をひらめかせながら椅子に座るその少女は、スプーンでスープを掬い、優雅に口元へ運んでいた。
「ううん、まあまあね。及第点かしら」
艶やかな黒髪。気だるげな表情。紫の瞳が二人を一瞥する。闇の精霊ノワール。シルフィと共にオリヴィアと契約しているもう一人の“精霊”。
「あら、やっと来たの?ずいぶん遅い朝食ね」
「……また、勝手に」
アイラはため息を吐いてテーブルにつく。
「いいじゃない。私だってここに住まわせてもらってるんだし、食べる権利くらいあるはずよね?」
「なんでそういつも自分勝手に…!」
ノワールは悪びれることもなく、スープの最後の一口を飲み干した。シルフィは言葉を飲み込む。怒りがこみ上げてくるのが分かった。けれど、今はアイラが口を開く番だった。
「ノワール。あなた、今朝シルフィに何を言ったの?」
「んー?何だっけ……ああ、“風の精霊は記憶も風に飛ばしちゃうのね”だったかしら?」
「ノワール!!!!」
シルフィはスープ皿をカランと置いて、ノワールは薄く笑った。
「だって、そうでしょ?こいつは何もできなかった。ご主人を守れなかった、そしてご主人の大切なものも守れなかった。私はノワールでもありルミエールでもあるんだから、彼が最後に私に縋ったことが何よりも証拠になるでしょう?」
「それ以上はやめて!」
アイラは声を張った。シルフィがびくりと肩を震わせる。
「あなたの言葉は……ただの毒。今の彼にとっても、シルフィにとっても致命傷よ」
「毒ねぇ」
ノワールは椅子の背にもたれかかり、紫の瞳を細めた。
「でもね、現実ってそう甘くないのよ?甘い言葉で包んで誤魔化しても、腐った芯は変わらない。理想を掲げていたとしても現実を知って億劫になる。それが本質、人間も精霊もね?」
「彼を支えたいなら、優しさを選ぶべきじゃないの?あなたがしてるのは、突き落としてるだけ」
「彼に与えている痛みは彼が欲しているからあげているだけよ。そうじゃなきゃ、私が“彼の闇”として存在する意味がないもの」
アイラはノワールを真っ直ぐ見つめた。
「あなた……本当に彼のためを思ってる?」
「当然じゃない。……だって私は、彼の“本音”を知ってるもの。あんたたちが知らないことを全部ね?」
そう言って、ノワールは椅子を押しのけて立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響いた。
「ごちそうさま、ご飯美味しかったわ。あんた腕をあげたんじゃない?学生時代は料理もろくにできなかったものね?」
くすりと笑って、ノワールはひらひらと手を振るようにして出ていこうとする。
「……待って、まだ話は——!」
そのままノワールは、気ままな足取りで扉を開け、出て行った。残されたダイニングに、沈黙が落ちる。しばらくして、アイラはそっとスープに手を伸ばし、スプーンで一口すくった。
「……ノワールの言葉を軽く流せる日はいつかくるのかな…」
アイラはうつむいたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……わたし、もっと強くならなきゃ。ご主人様のそばにいるなら……あの子にも、負けないくらい」
シルフィは小さくうなずき、料理に手をつけるのだった。