第一話〜眠りから醒めし者〜
「やったか?」
光を撃ったはずだった。すべてを終わらせるために、すべてを守るために、あの一撃に願いを込めた。なのに——終わらなかった。何故奴は立っていられるんだ。
「くそっ……!」
俺は膝をつき、立ち上がれずにいた。魔力は尽き、呼吸するだけで肺が焼けそうだ。それでも目の前には、“それ”が立っていた。魔王軍幹部の男は剣身を抜いた。動かない体、そして大地に転がる折れた剣。焦げた空気の中で、無言の死がゆっくりと歩いてくる。
(……動け……っ!)
震える手に力が入らない。剣を握れない。目の前で剣が振り上げられる。今度こそ——俺が殺される。その瞬間。聞き慣れた声が響いた。
「っ……!」
幾度となく俺を助けてくれた大切な人が。俺の彼女が、俺の目の前に立っていた。その体に敵の刃が振り翳される。
「なんで来た!逃げろと言っただろ!」
名前は喉まで出ていたのに、音にはならなかった。声が出なかった。叫べなかった。刃が突き刺さる音。敵の心臓を貫いた一撃。彼女の剣が一矢報いて魔王軍幹部の肺を貫いていた。けれど、それと引き換えに——
「っ……!」
その身体が、俺の腕の中に崩れ落ちた。血の温もりが手のひらに広がっていく。彼女の顔が見えているのに、名前を呼べない。声をかけられない。声が……出ない。震える唇。言おうとした言葉。何も、伝えられないまま——
「どうして……君は……っ……」
その時彼女の瞳から光が消えた。焼けつくような衝撃が、胸を突き刺す。世界が崩れ落ちていく感覚が襲う。
「うわぁぁぁああああああッ!!」
叫んだ瞬間、視界が真っ白に弾けるのだった。
⸻
——ガバッ!
俺は跳ね起きた。息が荒い。喉が焼ける。心臓が喧しく脈打っている。見慣れた天井が、ひどく遠くに感じた。
「……まただ……」
額に手を当てる。濡れているのは汗か、それとも涙か。夢の中で呼べなかった名前が、今も喉に詰まっている。
そのとき、空気が冷えた。何の気配もなく、紫の衣がふわりと視界に滑り込んできた。
「ねぇ、どんな夢を見たの? 」
俺の契約精霊。艶やかな黒髪と、底知れない紫の瞳。今もベッドの端に腰を下ろし、斜めに笑ってこちらを見ている。
「なんだ、ノワールか」
「なんだとは何よ。もしかしてまたあの子を“見殺し”にした夢かしら?」
その声には、優しさも遠慮もなかった。ただ、鋭く冷たい言葉が心臓を的確に貫いてくる。
「いいわよね、あの瞬間。“もう助けられない”って分かった時の、ご主人の絶望した顔。ああいうの。私、すっごく好きなの。悲しみと、後悔と、無力と、全部混ざった味……本当に美味しい」
笑いながら、ノワールは俺の髪に触れる。まるで慰めるように——いや、弄ぶように。
「でも、いいのよ? 私は分かってるもの。誰にも言えないこと、叫べなかった言葉、赦されないと思ってること……ご主人様の全部、私に吐き出していいのよ?」
囁くような声。その声音が、少しだけ優しくなった気がした。
「……ねぇ、ご主人。今夜も、夢で一緒に泣いてあげる。だから、もっと私に頼って?」
指先が頬に触れる。拒む力すら湧かない俺を、彼女は甘やかすように笑った。その時、ドアが乱雑に開いた。
「また……また、あなたは……!」
部屋の扉が勢いよく開くと同時に飛び込んできたのは、小さな少女の姿。金と若草色の衣。風の精霊、シルフィだった。
「ノワール!何度言ったらわかるの!ご主人様をこれ以上苦しめないでよ!」
「おやおや、お早いお目覚め。朝から小言? 風って、ほんとせっかち」
「契約解除して……お願い、私の大事なルミエールを返して!」
シルフィが怒りに震える翼をばたつかせながら、必死に叫んだ。風が巻き起こり、カーテンがばさりと揺れる。その声に、ノワールはわざとらしく肩をすくめ、ため息をついた。
「ざぁ〜んねんっ!」
ノワールはくるりとその場で一回転しながら、まるで舞台に立つ女優のようにポーズを取る。
「契約は“私とご主人様”のものよ?貴女ごときにとやかく言われる筋はないわ」
小首をかしげ煽るように笑うその姿に、シルフィの顔が赤くなる。
「それに精霊の基本原則、忘れちゃった?精霊とその主人は互いの合意がないと契約の解消は出来ないの。風のように記憶を消し飛ばすの、やめたら?」
「ノワール!!!!」
シルフィの声が部屋に響いた。目には涙がにじみ、手を握りしめて必死に踏みとどまる。けれどその怒りも悔しさも、ノワールには届かない。
「ふふふっ。言い返せないでしょう?そこが貴女の欠点なの知らなかった?ルミエールもおんなじこと、思ってたわよ?」
「えっ………うそっ………ルミエールも……?」
ノワールは退屈そうに欠伸をしながら、空中に足を組んでふわりと浮かび上がる。
「まあ嘘だけど。それにねぇ、彼の“本音”を聞ける人がいると思う?私以外誰もいないの。それは貴女も知っているでしょう?」
浮かびながら身を乗り出すように、オリヴィアの頬にそっと指を添えた。その指先は、まるで慰めるように優しく——けれど、どこまでも冷たかった。
「っ……!」
シルフィは荒れ狂う羽を落ち着かせて机に着地した。感情が膨れ上がっても、言葉にする術が見つからない。ノワールの言う通り、そうだと理解してしまったが故に少女の目からは涙が溢れ出ようとしていた。しかしベッドに横たわる男が重く口を開いた。
「……出てってくれ、二人とも……。今は、放っておいてくれ」
その声に、空気が止まった。ノワールは唇をすぼめ、不満げな顔でふわりと宙に浮く。
「……はいはい。ご主人様怒らせちゃった。でも忘れないで、ご主人様。あなたの全部を知ってるのは私だけ。……また夜にね?」
壁をすり抜けて消えながら、彼女は最後まで妖艶に微笑んでいた。シルフィも悲しそうな目でこちらを一瞥し、そっと部屋から出ていった。
——残されたのは、またしても静寂だけだった。
「……俺はどうしたらいいんだ……」
男が窓の外を見つめながらこぼした一言は吹き抜ける風にさらわれ、朝の雲雀に溶けていくのだった。