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7

 次の日から忙しい日常が始まった。朝食まではよかった。パンにサラダにスープという軽いものだったが美味しく食べられた。問題は走り込み以降だった。元々食うにも困っていたイルザに体力があるわけもなく、一キロ走るのも苦労した。


 ドミニクは「腕を振りすぎるな」「呼吸は二回吸って二回吐け」「顎を引いて前を向け」といった命令に近い助言で神経を逆なでしてきた。だが文句を言うほどの余裕はなく、フラフラしながら走るので精一杯だった。筋力もなく心肺能力も低いせいですぐに息が切れ、しばらくすると胃の奥からなにかがこみ上げてきた。そしてそのまま吐いた。ドミニクは水を差し出して「もう少しだ」と言うだけで走ることをやめさせようとはしない。走るだけなのにここまで過酷とは知らなかった。窃盗の際に逃げることはあったが、すぐに捕まるか気づかれないかのどちらかだった。走り回って逃げるということが少ないせいで運動への耐性がなかったのだ。


 その後風呂に入って勉強を始める。三人の教師が数時間ごとに入れ替わる形式だとヘルムートに言われた。教師一人につき複数の科目を受け持つようで、基本的に午前中で一人、お昼から夕食までで一人、夕食後から寝るまでで一人といった具合いに勉強を教えるようになっている。算術、公用語、生物学、科学、物理学、歴史、現代社会学、地理学などがあるけれど、科目をあげられても想像できないものもあった。一応だが算術や公用語、歴史や地理は落ちている教科書でも多少であれば理解できた。しかし初歩的な部分しかわからず、教師たちに「これは初等部の一年生から始めなければいけませんね」と言われた。初等部の一年生、つまり六歳の子供と同じレベルから始めなければならなかった。学校に通えなかったということは、知識の面で六歳児と同じであることを意味していた。


 昼食を食べたあとで体術を教わった。拳の打ち出し方や蹴りの方法などを教わったが、そもそも体ができていないので拳を打ち込んでもへろへろと弱々しく、攻撃というよりも遊んでいるようにしか見えないと言われてしまった。そこで更に走り込みが追加されてまた吐いた。


 気持ち悪さを抱えたまま部屋に戻ればまた勉強が始まる。眠くなってきて意識が飛びそうになると首や手など肌がむき出しの部分を長いものさしで叩かれる。


「ってーな!」


 更にもう一度ものさしで叩かれた。


「ヘルムート様に厳しくしろと言われておりますので」


 メガネをかけたキツネ顔の女教師がそう言う。名前はハンナで公用語、生物学、歴史や現代社会学を教えてくれる。見た目同様に教え方も厳しかった。


 勉強が終わって風呂に入り、食事をしてから最後の勉強が始まる。一日で気が狂うかと思うようなこんな日程が毎日続くなんて考えたくもなかった。考えたくないが、やらなければ野望は果たせない。全部あの子のためだからと無理矢理自分に言い聞かせた。


 最後の授業が終って教師が部屋を出て行った。とは言っても机の上には今日中に終わらせなければいけない「宿題」が山積みだった。いつになれば眠れるのかわからないが、教師が言うには必死にやれば日付を跨ぐ頃には終わるだろうということだった。


 大の字になってベッドに寝転んだ。ずっと机に向かっているのはあまりにも苦痛だ。やったことがないから要領がわからない。しかしやらなければコツも掴めないと、矛盾と葛藤の中でただただ天井を見上げていた。


 ぼーっと天井を見上げていると控えめなノックが聞こえてきた。


「はい」と返事をすると、キィとドアが開いて小さな客人がおずおずと入ってきた。フィーネだった。しかしドアから離れようとせず表情もどこか不安そうである。


「どうした?」


 イルザがそう言うとフィーネは不安そうにしながらも小走りで近づいてきた。そしてイルザの横にちょこんと腰掛けた。


 が、思いついたかのようにもう一度ベッドから降り、本棚から一冊の本を持ってきた。


「おねーちゃん、ごほんよんで?」


 持ってきたのは「青い髪のレンと赤いしっぽのラン」だった。


 胸がギュッと締め付けられた。純粋無垢なこの少女に罪はなく、けれどこのせり上がってくる感情の矛先をどこに向けていいかわからなかった。


 それでも、選択肢は一つしかなかった。


「ああ、いいよ」


 そう言いながらイルザは絵本をとった。


「やったー!」


 フィーネは嬉しそうにベッドに飛び乗った。横になり、勝手に布団に入った。


「ここで寝るつもりか?」

「だめ?」


 ため息をついたあとでフィーネの頭をそっと撫でた。


「パパとママにはちゃんと言ってきたのか?」

「うん、おねーちゃんにごほんよんでもらうっていってきた」

「この時間だし、そのまま寝ることもわかってそうだな……」


 この日程の中で子守りまでさせられるとは、とため息をつきそうになった。しかしそれをぐっと堪えて布団に入った。自分がまともな暮らしをできなかったのも、そのおかげで屋敷に来たことも、この過酷とも呼べる日程も、フィーネという少女とは一切関係がない。まだなにも描かれていないような、真っ白い紙のような純粋さを持つこの少女を邪険にはできなかった。


「青い毛並みのレンと赤いしっぽのラン」


 イルザはそう言ってから絵本の表紙をめくった。

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