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エマを追い出してから服を脱いだ。大きな姿見に自分の裸体が映り込むと、自分に対しての嫌悪感が体の奥底からせり上がってくるようだった。骨と皮のような痩せた体に、全身につけられた切り傷や青あざがこれまでの生活を物語っていたからだ。仕事の最中に意味もなく暴力を振るう者もいたし、盗みに失敗して捕まれば当然のように報復される。結果、このような体になった。中には一生消えないであろう深い古傷もあった。
風呂から上がるとすぐに夕食によばれた。連れて行かれたダイニングルームは非常に広く、細長いテーブルが真ん中に置かれ、壁際には絵画や花瓶などが飾られていた。
「よく来ましたね。こっちが妻のディアナ、こっちは娘のフィーネです」
ディアナはウェーブがかった茶色い髪の毛と、大きな茶色い瞳が特徴的だった。優雅でキレイだといういのが率直な感想だった。フィーネはヘルムートの特徴を引き継いでいるのか、プラチナブロンドと碧色の瞳をしていた。だが顔立ちは母親に似てタレ目で優しそうな美人だ。まだ小さく、おそらくはベルノルトと同い年くらいだと推測した。見ていると胸が締め付けられるようで、思わず下唇を噛んでいた。
「えっと、始めまして? イルザ=フォルツです。あー、これからしばらく世話になる」
ヘルムートとディアナが顔を見合わせて笑った。
「ええ、よろしくね。困ったことがあったらなんでも言ってちょうだい」
ディアナが微笑むとこちらまで優しくなれそうだった。
「あ、ありがとう」
「それじゃあ席へどうぞ」
ヘルムートが席へと手を伸ばした。そこが貴女の席です、と言われているようだった。
夫婦は背中を向けたがフィーネだけはまだイルザの顔を見ていた。不思議そうに首を傾げ、珍しいものでも見ているような目だった。
「お姉ちゃん、ここにいるの?」
しゃがみこんで目線を合わせた。
「少しの間だけな。よろしく」
右手を差し出すと、フィーネは困惑しながらも手を握った。
「うん、よろしくね」
無邪気な愛くるしい笑顔だった。こちらも思わず笑顔になる、そんな清らかな笑顔。でも、どうしてもベルノルトの顔を思い出してしまう。
「冷めてしまいますから食事にしましょう」
ヘルムートの言葉で全員席についた。こういった状況が初めてのせいで酷く居心地が悪かった。食事は常に自分とベルノルトだけだったから。
出てきた食事はライスに野菜スープ、一口大に切られた肉数切れとサラダというものだった。この屋敷からみれば質素であったがその全てが美味しかった。肉は柔らかくサラダは少しだけガーリックの匂いがした。スープの野菜は味が染み込んでいて、これが本当に野菜なのかと驚いた。今まで食べてきた小さく砂っぽいだけの野菜とは雲泥の差だった。
食事を終えて部屋に戻った。ヘルムートと出会ってから人生が大きく変わってしまった。間違いなくいいことだが、それはベルノルトと生きてきた人生を否定するようでどこか納得できないでいた。
その後ヘルムートがやってきた。緩い服装で、出会ったときのような仰々しさは感じられない。イスに座るように促された。ヘルムートはテーブルを挟んで真正面に座る。
「今日はどうでしたか? うまくやれそうですか?」
「四ヶ月だろ、なんとかなるさ。それにみんないい人そうだしな」
「そう言ってもらえると嬉しいですね。短い間ではありますが、ここを自分の家のように使ってもらって構いません」
「短い間、ね。そういえば四ヶ月後の試験に落ちたらどうなる?」
「試験は四ヶ月ごとに行われます。なので次の試験に備えればいいかと。しかし落ちてもこの家には戻れないと思ってください」
笑いながら、軽いことのように言った。この男は慈悲をくれた。だが魔法使いは聖人というわけではない。与えた慈悲は一生続くものではなく、機会は簡単には訪れないんだぞと言っているようでもある。ここで「じゃあそのあとは私はどうしたらいいのか」などと都合がいいことを訊けるわけがなかった。
「んじゃ、頑張らないとな」
「その意気です」
ヘルムートが目を細めて笑った。
「今日はこのまま就寝で構いません。明日からは時間さえあれば勉強する生活が始まります。休憩はありますが机に向かうことはかなり多くなるでしょう」
「起きてすぐに?」
「基本的には朝起きてから朝食、走り込みや武術、湯浴み、勉強ですかね。昼食後に武術の訓練、その後でまた勉強して走り込み、湯浴み、夕食、勉強、就寝という流れですね。たまに乗馬やマナーなんかも取り入れていきます」
「走り込みは必要なのか?」
「走り込みとは言いますが、最初はゆっくりで構いませんよ。でもちゃんとやらないと体力づくりにはなりません。武芸をこなすにはまず体力をつけないと。体力づくりや武術に関してはドミニクに一任しましたので彼に教わってください。彼は私の護衛騎士ですから私も一緒にいますけどね。近くで本を読んでるだけでしょうが」
そう言いながら微笑むが、どこか含みがあるため笑顔で返すほど精神的な余裕はない。
「それでは私は失礼します。あとはエマに任せますね」
「おまかせください、ご主人さま!」
ヘルムートが出ていくのと同時にエマが部屋に入ってきた。エマが部屋に入ってくると少しだけ部屋が明るくなった気がする。
エマはにっこりと笑ってから手に持っていた白い布を広げた。
「さあお着替えしましょう!」
「もしかしてそれを着るのか?」
肌触りはよさそうだが布地は薄くひらひらしている。耐久性が低そうだ、というのが感想だった。
「ネグリジェです。就寝時にはこれを着てください。もしよければ着替えをお手伝いいたしますよ」
「それはいい、着替えくらい自分でする」
「それは、残念です。ちなみに朝は起こしに参りますので私が来るまでは眠っていても大丈夫ですよ」
「わかった。それじゃあネグリジェはベッドの上にでも置いておいてくれ」
「まだ眠らないんですか?」
「本棚の本を少しだけ読もうかと思ってな」
「勤勉なんですね」
「キンベン?」
「勉強を頑張ってる人のことですよ」
「なら違う。とにかくもういい」
イルザがそう言うと、エマは寂しそうに微笑んで「それでは失礼します」と部屋を出ていった。たった四ヶ月しかいないのだから深く関わる必要はない。趣味だとか好きな食べ物だとか身の上話だとか、そんなことをしている時間があればアカデミーに入るための努力をしなければいけない。
イルザはネグリジェに着替え、本棚から一冊の絵本を手にとった。床に座って絵本を広げると、思わずにため息が出てしまった。
「こんな偶然もあるもんだ」
本を買う金などなかったが、捨てられていた本を拾ったことは何度もあった。その中にこの絵本があった。拾った絵本は六冊ほどで、ベルノルトはこの絵本が一番好きだった。寝る前に絵本を読んであげていたが、同じ本を何度も読むことになった。
「青い毛並みのレンと赤いしっぽのラン、か」
それは幼い狼の話。何度も、何度も何度も読みきかせた。
『おねえちゃん、もいっかい、もいっかいよんで』
ちっちゃい手で服を掴んでせがむ姿はとても可愛かった。せがまれたらもう一度読んでしまう。しかしベルノルトは二回目が読み終わるまで起きていられず途中で眠ってしまっていた。
強く絵本を抱きしめた。この絵本には思い出などなく、この場所にベルノルトはいない。わかってはいるが、どうしてもそうしなければ気持ちを落ち着けられなかった。
「会いたいよ……」
ぽたりぽたりと、ネグリジェに雫が落ちていく。ベルがいなくなるまでこんなに弱い人間だったとは知らなかった。両親がいなくても弟を育てながら生きてきた、そのはずだった。
思えば思うほど胸は苦しくなって涙は止まらなくなっていた。声を殺して泣き続け、やがて体が重くなってきた。
イルザは本を抱いたままその場で横になった。眠るのだろうと直感した。本来ならばちゃんとベッドで眠るべきとわかっているけれど、今日だけはこのまま眠りたかった。ベッドから布団を手繰り寄せて体の上にかけた。絵本を抱きしめたまま、床で眠ることが今のイルザには必要だった。