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「叶うかもしれない、か」
確実性はない、あくまで可能性の話。
「ちなみにですが、私はもう蘇生魔法を使えない。近々後継者に蘇生の称号を渡すことになるでしょう。そうなれば貴女を優先的にアカデミーに入学させるということができなくなります。一般入学にも紹介入学にも試験はありますが、魔法使いからの紹介があれば試験の内容が少しくらい悪くても入学できるのです。つまりこの機会を逃すのは正直もったいないかなと、私は思います」
「試験って難しいのか?」
「他のアカデミー生はアカデミーに入る前に通常の学校で一般的な学問を学んできた者がほとんどです。読み書きはもちろんのこと、地理や歴史、生物や科学もある程度は勉強してきています。アカデミーでも学校で習うような内容があるので、貴女のように一からやらなければいけない方は不利になります。そして運動能力や武芸も最低限必要になります」
「武芸の話は初めて聞いたぞ」
「魔法使いだから机に向かっていればいいというわけではありません。ですがどれだけ武芸に秀でていても意味はない。運動能力や武芸は最低限度の点数があれば大丈夫です。私もその点に関してはギリギリでした」
「やっぱりお勉強がメインになるんだな」
「王に従属し国に雇われることになるので、記憶力や考える力をはかるという意味でも勉強は重要視されます。どんなときにどういう対処をしなければいけないのか。王族に対して、貴族に対して、政府に対して、どのように立ち回ったらよいのかなど学ぶ必要があります。礼儀や規則、法律も多少は必要です。本当にかじる程度ですが」
「聞いてるだけで頭が痛くなりそうだ」
眉間を押さえながら目を伏せた。学校に通ったことがないせいで本格的な勉強など想像ができない。ただ、他人が捨てた教科書などを持ち帰って読んだことくらいはある。というよりもそういった方法でしか知識を得られなかった。
「でも貴女は少なからず自発的に勉強をしたことがありますよね?」
そう言うヘルムートは優しそうな目をしていた。
「捨ててあったなんかの本とかは読んでた。でも内容がわからないところは飛ばすしかない」
「では算術などは難しいかもしれませんね」
「全然わからなかった。だから、諦めるしかなかった」
「でも少しは読めるんですよね? 誰に教わったんですか?」
「日雇い奴隷の中の優しそうなやつに教わった」
「そう、だったんですね」
ヘルムートはバツが悪そうに苦笑いを浮かべた。その意味がわかったから、イルザは何も言わなかった。王都から遠い場所に根付いた日雇い奴隷というものに触れたからだ、と。
教科書が手元にあって時間があれば学校で机に向かう「普通の子供」のマネごとができると思っていた。だが、現実はそこまで甘くはなかった。それを知ったのは、捨てられた教科書を拾ったその日だった。教科書を開いたところで意味がわからない部分が多かった。基礎の基礎が圧倒的に不足していたのだ。は幼少期より蓄積されるはずの知識がなく地盤がゆるいため、それよりも高度な教科書を見てもまったくわからない。その状況に愕然として言葉を失った。
「では、これからわかるようにしましょう。私たちがちゃんと教えますよ」
「たちってどういうことだ?」
「家庭教師をつけます。先程はすぐにアカデミーに入ると言いましたが厳密には違います。王都に着いてから四ヶ月程度は私の家で暮らしてもらいますが、その四ヶ月で教養の水準を引き上げます」
「四ヶ月でなんとかなるのか? もう手遅れだと思うけどな」
「そうですね、学校は基本的に六歳から入って十八歳で卒業します。貴女の年ではもう卒業してるか、もしくはその少し前でしょう」
「六歳からするはずの勉強を一からやって今から間に合うのかよ」
「間に合うか、ではなく間に合わせるのです。本当に最低限の部分に指さえかかれば入学は可能です。アカデミーの入学時はどれだけ勉強ができなくてもいいのです。アカデミー生になってからも勉強を続ければきっと追いつけると思いますし。あそこは人を育てる場所なので、勉強ができるできないはあまり重要ではない。それでも最低限は必要です。それなりに過酷ではありますが、私が思う限り、貴女はもっと過酷な環境で生きてきたと思っています」
表情としては微笑んでいるが目は笑っていなかった。本気で言っているのだと気づいて背筋が冷たくなる。
ヘルムートが言っていることは間違っていなかった。家はオンボロ、ウンディーネは冷たい風が吹き込んで、サラマンダーは日差しが降り注ぐ。壁は腐った木材のまま、穴が空いた天井も修理をする金はなかった。何年も使っている毛布も穴だらけで、毛羽立った洋服はみすぼらしかった。毎日毎日仕事をしても弟の薬代と食事代、商売をするための場所代や両親の借金で消えていく。カモになりそうな旅行者から端金を巻き上げても、今度は家賃や火を起こすためのオイル代で消えていく。そんな環境で何年も暮らしてきた。寒かろうが暑かろうが、辛かろうが苦しかろうが耐えるしかなかった。そう、耐えることだけだったら誰にも負けない自信があった。
イルザは右拳を左手で包み込み顔を上げる。その瞳には生きる希望が宿っていた。
「やってやるさ。もう失うものも守るものもないからな」
同時に、胸中には野望にも似た希望が芽吹いた。やり方さえ間違えなければ弟を蘇生させることができる。
ヘルムートが深く息を吐いた。表情が柔らかくなって、目元からも怖さが消え去った。
「いい返事です」
そのあとで二回ほど手を叩いた。するとドアが開いて食事をトレーに乗せた女性が入ってきた。一瞬にして部屋の中にオニオンとバターの匂いが充満する。すぐさまイルザの腹が反応していた。トレーの上には湯気がたったスープ、柔らかそうなパン、新鮮なサラダに厚めのステーキが乗っていた。女性はテーブルに食事を置いたあとで軽く会釈をして出て行った。
よだれが出て、腹が鳴って、それがなんだか妙に惨めで、思わず涙が出てきてしまう。
「食べても大丈夫ですよ」
目の前にいるこの男との身分の差、貧富の差を思い知らされたことがあまりにも惨めだった。目の前の男は薄汚い女を宿に泊めて食事を振る舞うだけの余裕があり、自分はそれを受けることしかできず、自分では誰にもなにも施すことができないのだ。
「なんでだよ……」
涙が止まらなかった。
「なんでもっと早く来てくれなかったんだよ……」
もっと早ければ弟は死ななかったのに。苦しむこともなかったし、満足に食事をさせてやることもできたのに。
「温かいうちに食べてください。貴女はこれから変わるんですよ」
奥歯を強く噛み締めたあと、右手でスプーンを持った。スプーンをスープに突っ込み、左手ではパンを掴んで口に押し込んだ。更に涙がこみ上げてきた。
強く生きていこうと思っていた。誰にも施しを受けずとも生きていかれるはずだった。だが現実はどうだ。結局誰かの力を借りることをありがたいと、心の端では思ってしまっている。こうやって憐れみを受けて、可哀想だと思われて、それでも食事とベッドを用意してくれたことに感謝してしまう。受け入れている自分にも、偽善を向けてくる相手にも腹が立ち、なによりも悔しさで唇が震えてしまっている。
「美味しいですか?」
うまかった。今まで食べたなによりもうまかった。でも、ここにベルノルトの姿はない。今望みが叶うのならばベルノルトにこの食事を食べさせてやりたい。それくらい、うまかった。
イルザはヘルムートの問いに答えることなく食事を続けた。そのうち食事はどれも少ししょっぱくなっていった。水でさえ塩の味がした。
「クソっ、クソっ……」
二度とこんな惨めな思いはしてたまるかと、見返してやるんだと手を動かし続けた。家族を置き去りにした父親も、自分とベルノルトを見捨てた母親も、今まで奴隷扱いしてきた人たちも、そしてこの男だって見返してやる、と。
ヘルムートが席を立ったあとでも食事の手は止めなかった。今必要なのは食べて眠って普通の暮らしをすることで、ヘルムートの挙動を気にすることではないからだ。
食事は思ったよりも減らなかった。半分を過ぎたあたりで腹が膨れ、再度眠気がやってきたからだ。スプーンを置いてベッドに飛び込む。食べられるときに食べて眠れるときに眠る。今はこれが最優先だと体が訴えていた。だから本能に身を任せた。暗く心地よいこの欲望に、ただただ身を任せるだけだった。