34
そのとき、やや離れた場所でなにかが揺れた。小さく細く、月明かりがなければそこに存在していることさえも気づかないくらいだった。
弾かれるように動き始める二人。ランドルフがすぐさまイルザの前に立ち剣の柄を握った。
それはゆらゆら、ゆらゆらと揺れながら大きくなっていった。
「近づいて、きてるのか?」
「どうやら人みたいですね。しかし、大きさがどうも……」
ランドルフが言いたいこともわかる。足取りの不安定さもそうだが、線の細さが大人のそれではない。肩幅も狭く、首も短く、背も低い人影だった。
「子供……?」
まだ距離はあるが駆け出した。いや、気づいたら脚が動いていたのだ。
「いけませんイルザ様!」
そう言われるだろうことはわかっていたが、黙って見ているだけというわけにはいかなかった。というよりも体が勝手に動いてしまったのだ。
駆け出してから間を置いて人影が一層大きく揺れた。
前かがみになって速度を上げる。両手を前に出して、人影の前に滑り込んだ。気がつけば、その人影はイルザの胸元に収まる形で倒れ込んできた。
「お前、エル・アルサ・イーズの……」
治療した記憶がある。コリンナの息子であるヨハンだ。コリンナの話でもかなりわんぱくな子供であることはわかっていた。
ランドルフも到着し「その子はヨハンでは」と零していた。
「コリンナの子供だよな」
「そうですね、よく息子と遊んでくれると妻が言ってました」
ヨハンがイルザの手を掴む。
「おねえ、ちゃん」
その男の子はか細い声で言った。目からは涙が滲み、やがてあふれるまでになっていた。
「どうした。なにがあった」
「町が、町に、盗賊が来て……」
すぐさまランドルフの顔を見上げたが、思ったよりも平静を保てているようだった。しかし、わずかに顎が動いた。奥歯を強く噛み締めているのが手に取るようにわかった。
「お前だけ逃げて来たのか」
「外に遊びに出て、そのまま寝ちゃったんだ。それで町に戻ったらみんなが町の真ん中に集められてて」
どんどんと涙が溢れ出してくる。
「よしよし。大丈夫だ、私がなんとかする」
「ホント?」
「私が魔法使いなのは知ってるだろ? 魔法使いはすごいんだぞ」
「お父さんもお母さんも助けてくれる?」
「助けるさ」
目を細めて、笑ってみせた。
「じゃあ、約束」
ヨハンが手の甲を上に向けて差し出してきた。
「ああ、約束だ」
イルザがヨハンの手の下に自分の手を差し入れる。ヨハンは「うん、約束」と、笑顔でイルザの手を二度、優しく叩いた。
そこで張り詰めていたであろう糸が切れた。目蓋が閉じられたかと思えば、静かな寝息が聞こえてくるようになった。それくらい心身ともに疲れていたのだろう。
「心細かっただろ。よく頑張ったな」
ヨハンの頭を撫でていると自然と笑顔になっていく。けれどその笑みはすぐに消え、ただ前を見つめていた。そして彼の体を抱き上げてランドルフに預けた。
「この子を屋敷に連れていけ」
「イルザ様はどうするおつもりですか」
「馬小屋だ」
肩で風を切って歩き出した。
「イルザ様」
そうやって何度か名前を呼ばれたが立ち止まることはなかった。
馬小屋では三人の騎士が馬の世話をしていた。馬の世話は当番制だという話をユリアーナがしていたことを思い出す。
「イルザ様と団長? どうしたんですかこんな時間に」
その中にはテオフィルもいた。団員全員どころか侍女や看護師の顔と名前が一致しない中で、イルザが名前を呼べる数少ない人間だった。
「ひょっとして二人ってそういう関係……?」
「冗談を言ってる場合じゃない。エル・アルサ・イーズが盗賊に襲撃された」
イルザの言葉を聞き、馬小屋にいた騎士たちがざわつき始めた。
「え、いや、ちょっと待ってくださいよ。本当ですか?」
「こんなことで嘘ついてどうする。すぐに馬を用意しろ」
「用意するのはいいんですけどどうするつもりなんです? イルザ様が自分で様子を見に行くとか言いませんよね?」
「それ以外ないだろ、さっさと用意しろ。剣もよこせ。あと誰か投げナイフ持ってないか?」
そう言ってテオフィルに向かって右手を出した。
けれど、その腕を横から誰かに掴まれた。大きく、力強い手だった。
「なりません」
イルザの腕を掴んだのはランドルフだった。が、予想していたのでなんとも思わなかった。腕を払い、下から睨めつける。
「我々騎士が向かいます。イルザ様はここにいてください」
彼の言うこともわかる。魔法使いは貴重な存在だ。代わりがいると言っても、その地位は王族の下に位置する。地位が高いのもそうだが尊重されるべき存在であるため騎士たちは魔法使いを守る義務がある。
「はあ」と短くため息を吐いた。
「私じゃなきゃダメなんだ。危険であれば危険であるほど、な」
「危険ならなおのこと我々が引き受けます」
「で、怪我をしたらどうする? 腕が切断されたら? 脚がもげたら? 目が潰れたら? お前らじゃなにもできない」
「イルザ様が治してくだされば問題ありません」
「それまで生きてたら治してやるさ。生きて、帰って来たらの話だが」
ランドルフは眉間にシワを寄せて大きく喉を鳴らしていた。イルザがなにを言わんとしているのかがわかったからだ。
イルザであれば傷ついた瞬間に治癒できるが、騎士たちを治癒するとなると話は変わってくる。戦闘中に治癒することも難しく、戦闘が終わってからでは死人が出る可能性だってあった。
「私なら自分で傷を治しながら戦える。それに大勢で押しかければ相手は警戒するだろうしな」
「確かにそうかもしれませんが、魔法使いであるアナタが危険に飛び込んでいくのを見て見ぬ振りなどできません」
そしてイルザもまたランドルフの言い分を理解していた。短い時間だったが、様々な人と共に暮らし、人には人の立ち位置があるのだと知った。だからわかる。命をかけることが嫌でも、命を差し出さなければいけないこともある。己の身を盾にする仕事もあるのだ。
しかし、それを肯定するわけにはいかなかった。
「私一人で突っ込むって言ってるわけじゃない。様子見をしようって言ってるんだ」
「それなら余計に騎士で十分です」
額に手の平を当てて俯いた。この状況を切り抜ける手段は心得ている。魔法使いだからこそできる方法であるができれば使いたくない。だがもうこれしか手はなかった。
「この屋敷の中で一番地位が高いのは誰だ?」
「それは……」
「それは?」
「イルザ様です」
「じゃあ私の命令は拒否できない」
「そういうことになります」
命令をしたいわけじゃない。お願いを利いてくれるのならばその限りではなかった。だがこの状況では上から権力で押さえつけるしか方法が思いつかなかった。自分以外の誰にも傷ついてほしくない。その一心だった。
「でもな、できれば命令はしたくないんだ。頼むから行かせてくれ」
屈強な強面の大男が顔を歪ませていた。知らない人間が見たら少女を脅しているようにも見えるだろう。しかし彼はただただ葛藤していた。この葛藤、この表情が優しさの現れであることをイルザは知っている。
「何人か、騎士を連れて行ってください」
ランドルフが低い声で言った。今まで聞いた中で一番低く細い声だった。
「じゃあ、そうだな。テオフィルだけ連れてく」
「お、俺ですか?」
「四、五人の騎士を集めてすぐに後を追わせてくれ。指揮はユリアーナにさせればいい。弓と近接武器の両方を持ってこさせろ。ランドルフはここに残って残りの騎士と一緒に屋敷を守れ」
「私に、残れと言うんですか」
「二時間しても帰って来なかったら屋敷の人たちを連れて王都に迎え。二時間しても誰も戻ってこなかったらもう手遅れってことだ。それに相手も強い」
革が絞られたような音がした。ランドルフの大きな拳がぎゅっと強く握られたのだ。
「イルザ様は残酷なお方ですね」
「バカだな」
思い切り手を振りかぶり、そのまま肩に向けて手の平を叩きつけた。パーン、という乾いた音が馬小屋に響いた。
「私に任せろ」
そう言ってからランドルフに背を向けた。
「剣と馬だ。あとテオははぐれずについてこい」
「な、なんで俺なんですか!」
騎士が使う中でも少し短めの剣を受けとって、腰に携えながら馬小屋を出た。しばらくすると騎士が馬を連れてきた。イルザの体躯に合った小柄な馬は、この屋敷に訪れる際に国からもらった馬だった。
馬に跨ってからテオフィルが馬に乗っているかを確認した。護衛騎士用の薄めの鎧を着込んでいた。
「ちゃんとついて来いよ」
「わかってますって……」
騎士の一人にランタンを渡された。そして、手綱を大きく振った。小さなランタンの明かりを頼りに暗闇の中に飛び込んでいく。イルザの瞳には迷いや憂いなどなかった。ただひたすらに前を見つめ続けていた。




