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その日も朝から日が落ちるまで治療を続けた。患者がいないときに舌打ちをしてディルクに何度窘められたかわからない。その舌打ちは患者に対してではなく純粋な忙しさに対してのものだった。
仕事をしながら、どうしてこんなことをしているのかと思うこともある。考えたいわけではないが、ふと思い出してエルネスタのことを恨むこともある。だが反面、患者が笑顔で帰っていくということは嬉しく思う。
診療時間が終了して体を伸ばした。
「あー、クソ疲れた」
「言葉遣い」
「うるせえよ」
そう言って立ち上がったときだった。
「すいません!」
と、大きな声が待合室から聞こえてきた。診察室から顔を出すと、廊下の突き当りで受付係の侍女と中年女性が話をしているのが見えた。コリンナだった。何度も何度も頭を下げている。近くにいる夫らしき男性が子供を抱きかかえており、その子供がぐったりしているのだけはわかった。
侍女が困った顔でこちらに視線を向けてきた。イルザは右手を出して「こっちに寄越せ」と手で合図した。
「イルザ様、診療時間外です」
診察室に戻ってすぐにしかめっ面のディルクに言われた。
「一人くらいいいだろうが」
「一人を許せば大多数が押しかけますよ。そんなことがまかり通るようになれば「どうしてあの人はよくて私はダメなんだ」という人が出てきます。いつまで経っても診療所を閉められなくなる」
「今は私が緊急だと思ったからいいんだ」
「イルザ様!」
「お前が言いたいことはよくわかる。でもな――」
白衣の襟を掴んで強引に引き寄せた。
「これであの子が死んだら、私は絶対に後悔する」
そう、この世には救えなかった命があることを知っているから。
お互いに睨み合って、けれどこのやり取りに意味がないことを悟った。だから乱暴に、殴りつけるように手を離した。
ディルクの襟を離して数秒と経たずにコリンナと夫が一人の少年を運んできた。
「すいません、迷惑だとはわかっているんですが……」
「気にするな。それよりなにがあった?」
すぐにベッドに乗せて触診を始めた。
「木の実を取るために木を登ったんですが、私の身長の二倍くらいある場所から落ちてしまって……」
体を触って分析を始めた。右腕と右肋骨に骨折、右大腿部に亀裂骨折。息が浅く意識がない。呼吸に異音が混じっていないので呼吸器系に深刻な異常はなさそうだった。幸いなことに頭は打っておらず内蔵が傷ついた様子もない。すぐさま骨折を治して、意識が戻るようにと頭に手をあてて魔法をかけた。
徐々に息が整って、ゆっくりと目蓋を開けた。
「だれ……?」
イルザは息を吐き出してから身を引いた。すると勢いよく中年女性が飛び込んでいった。
「ヨハン!」
「お母さん?」
子供を抱きしめておいおいと泣き始める。
「あんまり強くするなよ。意識も戻ったばっかりだしな」
「はい! ありがとうございます……!」
「気にするなって言ったろ」
「このご恩は一生忘れません!」
「忘れてもいいから、美味いもんでも献上してくれりゃいいよ」
「本当にありがとうございました!」
コリンナたちは何度も頭を下げてから診療室を出ていった。追うようにしてイルザも診療室を出て、親子が帰るのを見送った。
「気をつけてな」
そう言いながら手を振ると、ヨハンがこちらに向かって笑顔で手を振り返してきた。
「ありがとうお姉ちゃん! さよなら!」
「おう」
親子が見えなくなるまで手を振り、姿が見えなくなるのと同時に気が抜けた。
「今日限りですよ」
「わかったわかった。もう帰るぞ」
裏口に向かって歩き出した。歩きながら白衣を脱ぎ、裏口近くにある大きなカゴに叩き込んだ。ここに入れておくと侍女が回収して洗濯をしてくれる。
一度屋敷に戻ってからタオルを持って裏庭に向かった。毎日の走り込みや武術の鍛錬は欠かさない。ここに来てよかったと思うことの一つに、かなり優秀な武術の指南役ができたことだ。
「今日も来ましたね、イルザ様」
大男が木剣を腰に携えて仁王立ちして立っていた。この屋敷の中でも一番身長が高く二メートル以上ある。それに加えて肩幅はイルザが腕を上げたときの右肘から左肘まである。もちろんのこと筋肉もついているため、最初は誰でも面食らうだろう。
しかし性格は非常に潔く、それでいて豪快だった。エル・アルサ・イーズの人々、特に子どもたちからも人気が高い。名はランドルフ=ローゼンメラー、治癒の魔法使いの護衛騎士団団長だった。
「そんなに張り切るなよ」
「イルザ様はいつもやる気がありませんな」
「やる気なんて出していいことなんてなかったからな」
「魔法使いになれたのはやる気を出して努力をした結果では?」
「まあそうだな」なんて言いながらため息をついた。
「ディルク殿とは反りが合いませんか?」
「なんでディルク?」
「精神的に良くなさそうな組み合わせだったもので、実際のところどうなのかなと」
「良くはない。あーだのこーだのいちいちうるさいんだアイツは。なんか言い方キツイし」
「元々の性格もあるでしょうが、アカデミーの卒業生だからかもしれませんね。あと一歩、というところで魔法使いを逃したと聞いたことがありますよ」
「それならまあ、納得できないことはないな」
ディルクの几帳面な性格からすれば、ダラダラと毎日を過ごして、それでも魔法使いとしてやっていかれているイルザは見るに耐えない存在だろう。だからと言ってディルクに合わせるつもりは毛頭ない。
「そんなことより今日も頼む」
ランドルフは顎に指を当てて「ふむ」と一言言ってから「やりましょう」と笑った。
軽い体操から入って次に筋肉を鍛える。腕立て伏せ、腹筋、背筋などが終わったあとで走り込みで屋敷を何周かした。そして最後に剣術の鍛錬に移った。
いつものように木剣で打ち合う。カン、カン、カンと裏庭に甲高い音が響き渡った。
「イルザ様は隙がありませんな」
「騎士団長に言われるのは嬉しいな」
「けれど嬉しそうではない。なにか悩みでもありますかな?」
「どうかな」
素早く一歩踏み出して下段から斬り上げた。が、柄で弾かれてしまった。
「素直じゃありませんね」
今度はランドルフが攻めてきた。力強く肩口を入れ込んできた。サイドステップでそれを避けると、着地と同時に木剣の薙ぎ払いが飛んできた。
木剣でなんとかそれを受け止めるが、力が強すぎて大きく吹き飛んでしまう。
「この馬鹿力が……!」
ただ剣で打ち合うだけならば問題ない。けれどこのようにして攻撃を受け止めなければいけない状況になると形勢が崩れてしまう。力で吹き飛ばされ、おまけにそのせいで腕は痺れ、しばらくまともに動かせない。
剣を握ろうとするが力が入らない。両手で持ち上げようとするが震えのせいで剣を落としてしまう。
「すぐこれだ」
「当然ですな。私は力を売りにしていますから」
ランドルフは「がははっ」と豪快に笑った。
「汚いだろそれは。お前に力で勝つのは不可能だ」
「であれば勝てる方法を考えなければいけません。イルザ様であれば私の攻撃を受けることなくすべてを回避する。一撃の威力は弱くてもいいから数を当てる。そうやって攻撃と防御を最適化していかなければ」
「やってるよ。上手くいかないだけで」
「であれば精進すればそのうちなんとかなりますよ。それでは今日はここまでにしましょう。イルザ様もお疲れでしょうし」
「そうだな。お疲れ様」
木剣を置いてタオルを取った。顔や首の汗を拭いながら屋敷へと歩き出した。
「イルザ様なら大丈夫ですぞー!」
後ろから声が聞こえてきたので手を挙げて応えた。
屋敷に戻って湯浴みをし、そのあとで食事をした。広い風呂に入っていても、豪華な食事をしても、どうしてか心が満たされない。狭い風呂でも弟と二人なら楽しかった。広い風呂だとエルネスタが一緒にいてくれた。考えてみればいままで食事を一人でとったことなどほとんどなかった。
「さびしいな」
そんなことを言いながらナイフとフォークを置いた。そして、独りきりの食事を終えた。
金は欲しかったが、なにかを犠牲にして得たいと思ったことはない。より良い暮らしを望んでいたが、こんな気持ちになってまでしたいとは思っていない。
そうやって孤独を感じながら部屋に戻った。イスに座り、教科書とノートを開いて鉛筆を用意した。今でも習慣のように勉強は続けている。一般人に比べて知識量が不足していることを自覚しているからだった。
ノックが聞こえてきた。「入れ」と言うとドアが開きディルクが入ってきた。けれどそれだけを確認し、イルザは教科書へと視線を戻す。
「明日の予定を確認させていただきます」
「どうせいつもと変わらないんだろ。二ヶ月間ほとんど同じだったしな」
「変わりありません。ですがこうして確認する義務がありますから」
「じゃあもう帰っていいぞ。お前も疲れてるだろ。そんなに真面目にやる必要もないしな」
「そういうわけにはいきません」
ピシャリと言われ、思わず顔を上げた。
「なんでそこまで硬いんだ? 力を抜けよ、面倒だろ」
「貴女が面倒くさいだけでしょう」
言葉に迷いがないからこそ腹が立つ。
音を立てて鉛筆を置き、大げさに額に手を当てた。
「そうだよ、それがどうした。私は魔法使いなんだろ? だったら私を尊重するのがお前の仕事じゃないのか?」
「貴女の言うことは正しい。だからこそ間違っています」
「なにがどう間違ってんだよ」
「貴女は魔法使いかもしれませんが魔法使いの仕事をしているだけの一般人です」
「だったらなんだ。お前が認めようが認めなかろうが私は魔法使いだ。バカ言ってないで部屋から出ていけ」
大きくため息を吐くと、それが合図であるかのようにディルクが出ていった。そしてドアが閉まった後、両手で頭を抱えて机に突っ伏した。
毎日のことではあるが、一日の終りにディスクと顔を合わせる瞬間にすべてが面倒くさくなる。ディルクが自分のことをよく思ってないことはよくわかる。護衛騎士たちや侍女の数名が陰口を叩いていることも知っている。誰が言い出したのかは知らないが、元奴隷で学校にも行っていなかったという情報が屋敷の中に広がっている。その人生が「普通」ではなかったため、低俗なゴシップ記事でも出回ったのだろうと、それくらいはなんとなく予想できた。
昔、まだベルノルトと暮らしていた頃であればまったく気にしなかっただろう。生きることだけに精一杯だった頃はなにも気にしなくてもよかった。それが二年程度の間になにもかもが変わってしまった。大事なものも変わった、守るべきものも、他人の目も、他人への見方も変わった。それが、苦しかった。
今まで考えなくてもよかったことが、土砂崩れのように思考を押しつぶしていった。なんだか熱が出てきたような気さえした。
面倒になったときは眠るに限ると、勉強道具をそのままにしてベッドに飛び込んだ。もぞもぞと布団を被って目蓋を閉じ、明日が来ないことを祈りながら、そっと意識を閉ざしていった。




