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寒いウンディーネを通り過ぎ、暖かくなってシルフを迎えた。エルネスタの誕生日には、あのときに買った糸切りバサミをプレゼントした。
徐々に日が高くなってサラマンダーがやってきて、そしてまたノームの季節にさしかかる。アカデミーに来て二度目の誕生日を迎えるのも時間の問題だった。
あの日からより一層体力づくりや武術に打ち込むようになった。かと言って勉強の手は抜かず、それでいて暇な時間ができたらエルネスタに刺繍を教わった。下手くそな刺繍を施したハンカチをエルネスタにプレゼントした。彼女は「大切にしますね」と、わずかに涙を浮かべていた。内心、そこまで喜ぶことないのに、などと考えてしまっていた。
イルザの成績は上昇し続けて、一年で全校生徒の中で二十番以内に入るようになっていた。アカデミーの生徒は一括で入学するわけではないので成績にバラツキがでる。だが成績上位であれば魔法使いへの足がかりにはなる。体力や武術、一般的な学力、魔法や魔法使いに関しての知識、礼節の理解度、アカデミー内での素行、そして魔法使いからの推薦。それらを総合的に見て魔法使いが選定される。その選定も明確な期日があるわけではないため、生徒たちは目的にいつ到着するかもわからぬまま目指し続ける。それに耐えたものが魔法使いに近づくことができるのだ。
耐えることに関しては自信があった。だからやってこられた。誰かが遊んでいるとき、誰かが落ち込んでいるとき、誰かが家族と過ごすとき、イルザは机に向かったり体を鍛えることに注力した。
「イルザさん、刺繍上手くなりましたね」
「そうか?」
勉強と勉強の合間に刺繍を教わり続け、自分の道具も持つようになった。
「まあ私ほどではありませんが」
と、エルネスタが胸を張った。こういうときは決まって「ああそうかよかったな」と答えることにしていた。
「そういう態度良くないですよ?」
「ああそうかよかったな」
軽くあしらいながら手を動かしていく。イルザの態度にも慣れているのか、エルネスタは「またそうやってー」と言って頬を膨らませていた。
そのとき、ドアがノックされた。二人同時に「はい」とドアに向かって返事をした。
部屋に入ってきたのは、長い縮れ毛の初老の女教師だった。政治の科目で何度か授業を受けたことがある。親指でメガネを直す姿が印象的だったのでよく覚えている。
「学院長から大事な話がありますので明日の午前十時に大講堂に集まるように。それと明日は一日休みになりますので授業はありません。わかりましたか?」
二人が静かにうなずくと、教師は「それでは」と部屋を出ていった。
ドアが閉まるのをずっと眺めていた。いや、閉まってからもしばらくは眺めていた。それはエルネスタも同じだったようで、二人は微動だにしなかった。
そんな空気を動かしたのはエルネスタだった。
「イルザさん」
と、エルネスタが控えめに言った。視線を向けると、その顔は彼女らしくない神妙な面持ちだった。名
前を呼んでいるのに、顔はまだドアに向けられたままなのも気になった。
「わかってる」
しかしエルネスタがそうやって動けないでいる理由はわかる。教師がわざわざ出向いてまで招集をかけたのだ、その内容がどんなものであるか想像に難しくはない。
浮ついた気持ちというわけではないが、その日の授業は身に入らなかった。自分の授業態度はどうだったか。やり残したことはないか。このままで、本当に大丈夫なのか。
エルネスタとの会話は問題なかった。ちゃんとノートもとってある。けれどそのすべてを覚えているかと言われると難しい。自分の能力を信じられないが故に不安が全身を覆い隠す。感覚が鈍く、思考は遅く、少しでも判決のときが長引けばいいのにと思ってしまっていた。
上の空で一日を過ごし、気がつけば就寝時間になっていた。
「不安ですか?」
パジャマに着替えたエルネスタが向かい側のベッドに座っていた。
「そりゃ不安に決まってる」
「そんなんじゃ選ばれるものも選ばれませんよ」
「そういうお前はどうなんだよ。不安じゃないのか? アカデミーの生徒は二百人いる。その中で選ばれるってのは簡単じゃない」
「ええ、簡単じゃないことくらいわかってますとも。そのうえで私に不安はありません」
「まったく?」
「まったく」
「どうして?」
「やることはすべてやっている、と自分では思っているからですよ。誰にも負けたくないし、負けるつもりもありません。イルザさんもそうじゃないんですか? 毎日毎日、誰にも負けないように全力を出そうとしているんじゃないですか?」
そう言われてドキッとした。エルネスタは晴れ晴れとした笑顔を浮かべ、自信が心からのものであるというのがよくわかる。それに比べて自分はどうだ。ここまで胸を張って言えるほどのことを今までしてきたのか。
「わからない」
「本当にそうですか?」
何度問われてもわからない。もっとやれることがあったんじゃないかと考えるだけで不安に飲み込まれそうになる。
「時間が足りなかった。そうとしか言えることがないんだ。どうやっても自信は持てない」
「でもやれることはやってきたんですよね?」
「それは、そうだけど……」
やれることをすべてやってきたのと、そのやってきたことに自信を持てるのはまた別の話だ。だからこそ強い葛藤が生まれ、気持ちが揺れ続けていた。
「でも時間は待ってくれませんよ。どこかで折り合いをつけなければいけません。なにかを志すのであれば、本来の実力と行動による成果を主観と客観によって評価し、その評価を受け止めていかなければいけない。そしてそれが自信になり、さらなる成果に繋がっていくんです」
「それができたらどれだけ楽なんだろうな」
「きっとできますよ」
「どうしてそう言い切れる?」
「イルザさんはイルザさんが思っているよりもずっと優秀で強い人です。だから私を信じてみてください。きっとなんとかなりますよ」
「そうだな、気持ち的にどうしようもなくなったらお前のことを信じることにするよ」
「素直じゃないですね。私のことを天使だと思ってくれてもいいんですよ?」
「うるさいな、もう寝るぞ」
枕元のランタンの火を消した。
「信じたいものを信じれば、それが例えば歪んでたとしても、きっとイルザさんの世界はちゃんと回っていきますよ」
次にエルネスタがランタンの火を消す。部屋は完全に真っ暗になった。
「なんだよそれ」
「それじゃあおやすみなさい!」
大きな衣擦れ音が聞こえてきたかと思えば、ボフンと鈍い音がした。布団を勢いよく被ったのだとすぐにわかった。
こちらはゆっくりと布団に入った。
「ああ、おやすみ」
そして目を閉じた。
これからどうなるのだろう。これからどうすればいいのだろう。自分は本当にこのままでいいのだろうか。教師からはどう見られているだろうか。内申を上げるためにはどうしたらよかっただろうか。そんなことばかりを考えていたが、エルネスタと話をしているうちにどうでもよくなっていた。
彼女が言うことももっともだと思い始めていた。結局、どう足掻いたところで今の自分を飛び越えることなどできはしない。特に勉強をするのが大幅に遅れているため、周囲に追いつくので精一杯だった。そのうえでできることはすべてやってきたはずだ。後悔したところで「時間が足りなかった」としか言いようがない。であれば腹を括る以外に道はなかった。
エルネスタという少女が温かく包み込んでくれた。そのおかげで気持ちが和らいでいくのを感じていた。緊張がほぐれていくのと同時に眠気がやってきて、気がつけばその意識は完全に溶けてなくなった。イルザは自分でも気が付かないうちに笑顔のまま眠りに落ちていた。




