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 次の日、イルザは一人きりの休日を迎えた。王都に来る前は必ずベルノルトと共にあり、ベルノルトを亡くしてからはエックハルト家の人間や家庭教師やメイドが近くにいた。そして寮に移ってからは食事をしているときも勉強をしているときもエルネスタがいた。


 勉強の手を止めた。手は進むし内容も頭に入っている。勉強内容もいつもと同じはずなのに、どこか気だるく、どうしてかため息が出てきてしまう。こんな感覚は始めてだと思いながら、再び鉛筆を動かし始めた。


 そして太陽が沈み始めた頃に誰かが部屋をノックした。


「どうぞ」


 控えめな音がしてドアが開きエルネスタが顔を出す。


「ただいま」


 彼女は「えへへっ」と可愛らしく微笑んだ。そんな笑顔を見ていると、こちらも微笑まずにはいられない。


 部屋に入ってきたエルネスタは大きめのカバンをベッドの上に放り投げ、その勢いで自分もベッドに飛び込んだ。彼女のことだ、わざとだと言われても、そうなってしまったと言われても納得してしまう。


「楽しかったか?」

「実家に帰っただけですよ? でも久しぶりに自分のベッドで寝られたのはよかったですね。お兄ちゃんやお姉ちゃんが世話焼きなので変なふうに疲れました。少し離れていただけなのに」


 そう言いながら、眉間にシワを寄せて笑っていた。


「そっちはどうでしたか?」

「それなりに充実してたよ。フィーネに絵本も読んでやったし文字も教えた。私が人にものを教えることになるなんて思わなかったけどな。あとディアナの料理が美味しかったな」

「それはそれは、なにごともなくてよかったです」


 その言葉にチクリと胸が痛んだ。


 心配はさせたくない。けれど礼を言わないのはなにか違う気もする。だがどうやって表現したらいいのかがわからなかった。


 今まで一人ですべてを背負い込んで生きてきた。ヘルムートには頼ったが、誰かに弱音を吐いて寄りかかるような真似をしたことがない。自分の弱みを見せることができないままこの年齢までやってきた。全幅の信頼を寄せられるような相手がいなかったからだ。


 しかし、今回の一件でわかったことがあった。それは「自分が思っているほど、他人は自分を放っておいてはくれない」ということだった。思い当たる節はある。ベルノルトと暮らしていたときも、嘲笑する者や痛罵を浴びせてくる者がいた。いい意味であっても悪い意味であっても、他人は他人を放っておかない。


 そう、エルネスタも例外ではなかった。


「ありがとうな」


 だからこちらも歩み寄る必要があった。


「どうしたんですか急に」


 彼女がベッドから起き上がって言う。


「お前がヘルムートに言ったんだろ? 危ないから護衛をつけてくれって」


 エルネスタの顔に影がかかる。


「ヘルムート様が話されたんですか?」

「元、ヘルムートの護衛だ。助けてくれたのもそいつだな」

「なにかあったんですか」

「顔をしかめるなよ、大したことない。そうなる前に助けてもらったしな」

「それならよかったです」


 本気で心配していたのだろう、胸をなでおろすように深く息を吐き出していた。


「でな、礼を言おうか言わないか迷ってたんだ。でもお前にはちゃんと言っておきたいって思ったんだ」

「お礼を、ですか?」

「礼だけじゃない」


 額を押さえて目を閉じる。どうやってなにを話せばいいかを考え、出した答えが「そっちに行っていいか」だった。


「大丈夫ですよ」


 エルネスタはこのときも笑顔だった。


 イルザはゆっくりと歩みを進めてエルネスタの隣に座った。ベッドが少しだけ沈み込んだ。


 左手で握りこぶしを作り、それを右手で包んだ。そして床を見つめたまま、訥々と身の上話を始めた。


「もう知ってるとは思うが、私はシン・ルアン・レッセで弟と暮らしてた。両親はクズでな、父親は弟が産まれてすぐにどこかの女と出ていった。母親は弟が一歳のときに出ていった。それから私は、体が弱い弟を育てながら生きてきたんだ。まあ、弟もちょっと前に死んだけど」


 言うか言うまいか迷っていたのは事実だった。エルネスタという、太陽のような、天使のような少女の心を傷つけてしまうかもしれない。同時に、そんな彼女に軽蔑されれば自分も傷ついてしまうと本能的に感じていた。


「そのとき十三歳だった私にできることなんて多くない。元々貧民だったし、知り合いもいなければ祖父母の居場所もわからない。誰かから物を盗むか、最底辺の仕事をするしかなかった。安い賃金で暴力を振るわれながら重労働をしてきた。仕事中はどこかに行かないように足かせをなんかをつけられたよ。賃金が安いから食事もまともにできない。風呂には入れない、仕方なくそのへんの虫や草を食うこともあった。当然のように盗みもたくさんした。私の育ちが悪いのも仕方がなかったと自分では思っている。でもできれば知られたくなかったんだ」


 二人の間に沈黙が降り立った。いきなりこんな話をされて困らない人はいないだろう。


 どんどんと心がかき乱されていく。言いようのない不安と、その不安を押さえつけようとする理性がせめぎ合って、今すぐにでも口からでてきてしまいそうだった。


「そうだったんですね」


 けれど、エルネスタの声色は変わらなかった。


「私が大変だったんですね、というのは少しおかしいかもしれません。でもこれだけは言えるんですよ」

「これだけって?」

「私はアナタを嫌いにならない」


 顔を上げた。横を見ると彼女が笑っている。瞳と瞳が合うと、不思議と心が穏やかになっていった。


「それにイルザさんの境遇を憐れんだり蔑んだりすることはありません。イルザさんの今までの人生はアナタのせいでそうなったわけじゃありませんよ」

「他にももっと道があったかもしれないのに?」

「それでも自分なりに頑張って考えて、身を削って弟さんを育てようとしたんですよね? それなら余計に尊敬こそすれ、軽蔑なんてできませんよ」

「でも私は汚い。心も体も、汚れてる」

「汚くなんてありませんよ」


 そう言って、エルネスタに抱き寄せられた。


「自信を持てとは言いません。でも弟さんのためであったり、生きるためにアナタがとった選択肢を後悔しないでほしいんです。窃盗は当然悪いことですし、そこに関しては私も怒ります。でもそのすべてが悪いことだと思わないでください。それはアナタが今ここにいることを否定しているのと一緒なので」


 背中をそっと撫でられて、思わず涙が出てきてしまう。そしてエルネスタが治癒の魔法使いになりたいと言っていたことを思い出した。この少女ならば必ずなれるだろう。いや、この少女以外は考えられなかった。


「ありがとう」

「私はなにもしてませんよ。それで私からも話があるんですがいいですか?」


 体を離して涙を拭いた。


「話って?」

「イルザさんだから話さなかったわけじゃなく、基本的に話さないようにしているということを念頭に置いて聞いてください」


 柔らかく言うエルネスタと視線を交わし、イルザはゆっくりうなずいた。


「一応、私の家はそれなりの貴族なんです。ジオ・ジェラ・ホロゾを統治しているので、貴族の中では広い領地を持っています。ただ領地が広いだけで権力はないので王族に対しての発言権はないに等しい。そして私は六人兄弟の五番目です」

「五番目は悪いことなのか?」

「そもそも貴族の世界は長子が一番血が濃く偉いとされています。それに家督を継ぐのは基本的に長男で、根強い男尊女卑があります。五番目の女となれば、他の貴族と仲良くするために政略結婚をする以外の価値がないのです」

「なんだよそれ」

「そういう世界なんです。まだ長女であれば可能性が広がりますけどね。私の立場からすれば、いい教育を受けるのはいい場所に嫁ぐためでしかなかったんです。自由なんてありません。両親は優しいのですが、そうするしか道がなくなれば私を家から出すでしょう。上級の貴族からの申し出があれば断ることもできませんからね。それは妹も同じです」

「断ったらどうなるんだ?」

「あの手この手で領地を乗っ取られる可能性がありますね。なので他の貴族との諍いはなるべく避けたいんですよ。ですが一つだけ、私が自由を得るための方法がありました。それこそが魔法使いになることだったんです。過去に治癒の魔法使い様に病気を治してもらったことは間違いありません。憧れたのも事実です。それと同時に、私は魔法使いを「自由になるための言い訳」に使おうとしてるんですよ」


 彼女は一層微笑んだ。


「私が言おうとしていたことは以上です」

「それくらいなんともないだろ」

「中には貴族だからいい暮らしをしてるんだろう、贅沢な悩みだ、と思う人も多いんです。だから黙っているのが最もいい選択肢だと考えていました」

「なんでそれを私に言ったんだ?」

「アナタにならばどんな感情を向けられても受け入れられそうな気がしたんです。それに目的はどうあれ理解しあえるのではないかとも思いました。人には人の人生があって、個人個人の考えや経験によって動いています。イルザさんもそうでしょう? 今そうやって生きている。ならばお互いにそれを突き通しませんか?」


 エルネスタが右手を差し出してきた。


「そうだな」


 迷うことなく手を取った。


 初めての感情が胸の奥から頭の方へとせり上がってきた。熱く、なにかが弾けるような、そんな感情だった。それが頭頂部を通り越すと、なんとも言えない心地よさがやってくる。この気持ちがなにかはわからない。けれど悪いものではないことくらいはイルザにもわかった。


「それとな、お前に頼みがあるんだ」

「できることなら喜んで」

「私に刺繍を教えてほしい」

「いいですよ。その代わり厳しくいきますからね、覚悟しててくださいよ」


 そう言ってはいるが、エルネスタが厳しいことを言わないとわかっている。勉強の方も懇切丁寧に教えてくれる。


「それじゃあ頼む」

「では明日からやりましょう。道具は私の物があるのですぐにでもできますから」


 光のようだなと心から思った。心の闇さえも一瞬で晴らしてしまう、そんな力を持っている。自分にはない、人のためになる力だ。


 人間らしい生活を、少しずつ、他人の手を借りながらも獲得しつつあった。人生が変わっていくことを実感しながら、イルザはエルネスタに向かって微笑むのだった。

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