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 あれから、いつもと同じような毎日を過ごすように努めてきた。起きて、授業を受け、勉強をし、風呂に入って寝る。寝起きするのも食事をするのもエルネスタと一緒なので、寝るときとトイレに行くときくらいしか気が休まらない。


 あの日から続くギクシャクした関係でも会話が絶えることは少なかった。そんな日常の中、二人で授業を休む日を決めた。エルネスタは実家に帰り、イルザはヘルムートの家に行くことになった。基本的に授業を休んだことがなかったので単位は問題はない。


 全寮制ではあるが休日に寮から出ることは許されている。それでもずっと寮にいたのにはいくつかの理由があった。


 まずは寮の生活に慣れることが必要だった。勉強する時間を捻出し、エックハルト家で暮らしていたときと大差なく過ごすことを重要視した。それまではエックハルト家の人間とは会わないでおこうと決めていた。帰る場所があるかもしれないと思うだけで甘えてしまうような気がしたからだ。けれどそろそろこの生活にも慣れてきた。ディアナにも礼を言わなければならないし、久しぶりにフィーネの顔を見たかった。またあの家族と同じ時間を過ごせるのだと考えたら頬が緩んだ。


 そして休日がやってきた。


 屋敷で暮らしていたときに買ってもらった黄色いワンピースを着て部屋を出た。エルネスタとはアカデミーの前で別れた。エルネスタは実家に泊まるために大きなカバンを持って、嬉しそうに鼻歌交じりで歩いていった。こちらはエックハルト家に顔を出し、遅くとも夜には帰るつもりなので荷物は少ない。革のショルダーバッグ一つで十分だった。


 買い物をする必要もあったので、馬車は使わずに徒歩で向かった。市場の場所は近くの派出所で訊いた。


 人が多いところはあまり好きではない。やせ細った体で仕事をしていた頃、いくつもの蔑むような視線にさらされてきた。どういう形であれ大勢の人間から見られるのかもしれないと気が重くなる。


 王都の中央を走るメンケント通り。それこそが巨大な市場であり商業の中心部であった。王都の正面にある大門から王宮へと通じる大通りは「必要な物が揃う道」とさえ言われている。


 派出所から十分ほど歩いてメルケント通りに到着した。メルケント通りに近づくにつれて人が多くなり、通りに着いたときには自由に歩くことも難しくなっていた。


 メルケント通りの前、右側に建てられた大きな看板に目が留まる。


「左折禁止、右側通行厳守ね」


 王都に限らず、幅員がある大きな道は中央に分離帯を設け、右側通行を法的に定めている。人の流れを一定にするためだ。


 ここまで人が多いところは初めてだった。二度三度と深呼吸し、イルザはようやく一歩踏み出すことができた。


 様々な店の前を通りながら、思ったよりも人の目が気にならないことに気がついた。歩きながら周囲を見渡せば誰もこちらを見てない。家族や恋人や友人と楽しそうに会話をしている人が多く、一人で歩いている人はただ前を向いて目的地に向かうだけだ。


 これが「普通」ということなのだと気付かされる。逆を言えば、自分がいかに「普通でない暮らし」をしていたのかを痛感してしまう。


 どうしてなのか笑いがこみ上げてきた。少しばかり考えてみたが理由はわからなかった。


 歩きながら様々な店を見ていく。人の流れが穏やかで、店の前に簡単な露天が展開されているからできることだった。少しくらいならば足を止めても問題なく、イルザを避けるようにして流れが新しく形成されていく。それを横目に見ながら「これでいいんだ」と新しい情報を自身に言い聞かせ、染み込ませていった。


 自分の中にある常識という名の偏見が侵食され、上書きされていくのを感じながら、けれど嫌な感じはどこにもない。情報を吸収することと、その情報を取捨選択することの喜びを知ったからだ。


 店を見てまわりながら最初にインクを買った。これで万年筆が使えると顔もほころぶ。


 店を出てから更に歩みを進める。ヘルムートの誕生日プレゼントをなににしようかと思って歩いていたが、刺繍屋が目に止まって店内に足を踏み入れた。店は小さいが、サンプルの布切れがたくさん並べられている小綺麗な店だった。


 店内をゆっくり見ていると一つの刺繍が気になった。


「四葉のクローバーか」


 細長い布の先に親指大くらいの刺繍がされていた。糸には光沢があり白い布に映える。


 刺繍された布切れの下には、サンプルの細い布がいくつかぶら下がっている。一枚一枚ぶら下がっている布に触れていく。値段は少し高いがシルクが一番肌触りが良かった。


「気になった物はありましたか?」


 店員であろう初老の女性が話しかけてきた。


「ああ、これがいい」


 人差し指と親指で何度も布を触りながら言った。


「シルク地のクローバーですね。在庫を確認してきますので少々お待ちを」


 老婆はニコリと笑ってから店の奥に姿を消した。戻ってくるまでの間に店内をくまなく歩いた。たくさんの刺繍もそうだが、色とりどりの布や糸が所狭しと並べられている。それがどうしてかキラキラと輝いているように見えた。


 光って見えていたわけではない。汚れや穢れがない、そんな清潔さに心を惹かれていた。清廉潔白で、どうしてかフィーネやエルネスタを思い出す。


「お嬢さん」


 老婆がそう言って戻ってきた。


「どうだった?」

「大丈夫ですよ、在庫はございます」

「何枚あるんだ?」

「白が三枚、ピンクが三枚、青が一枚ですね」

「全部一枚ずつ、一つずつ包装してくれ」

「承知いたしました。お時間五分少々いただきますがよろしいでしょうか」

「大丈夫だ。それまで店内にいる」

「それではごゆっくりどうぞ」


 老婆はまた店の奥に戻っていった。そしてハンカチを三枚もってきて、カウンターの上で包装を始める。作業が終わる間は店内を見て回ることにした。


 広いとは言えない店の一角に刺繍道具専用のテーブルがあった。針に糸、布を切るハサミ、糸を切るハサミ、色鉛筆に刺繍枠。そういえばと、エルネスタの荷物のことを思い出した。彼女の荷物の中にも似たようなものがあったからだ。それにイルザが一人で勉強しているとき、エルネスタが机に向かって刺繍をしているところを見かけたことがある。


 刺繍道具を見ていると、老婆が「できましたよ」と声をかけてくれた。カウンターの前に立って財布を開く。


「いくらだ?」

「三枚で四千ガロンになります」


 一万ガロンをカウンターに置くと、老婆はゆったりとした動作で六千ガロンを手渡してくれた。


「刺繍、興味あるんですか?」


 お釣りを受け取る際にそう言われた。


「いや、友達がやってるのを見たんだ」

「じゃあそのお友達にもなにかプレゼントを?」

「そういうわけじゃないが……」


 刺繍道具を見てエルネスタの顔が浮かんだのは間違いない。


「ちょっと待っててくれ」


 紙袋をカウンターに置いて刺繍道具のところに戻った。バラの彫り物がしてある糸切りバサミを手にとって再度カウンターへ。


「これも頼む」

「はい、わかりました」


 老婆はニコリと微笑み、その場で包んで紙袋に入れてくれた。


「いくらだ?」

「二千ガロンね」


 カウンターに紙幣を二枚置いて「ありがとう」と言ってからドアに向かった。


 外に出て、人の流れに乗って歩き出す。どうしてなのか胸がスーッとして、いいことをした気分になった。

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