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ガタンゴトンと揺れながら馬車が走っていた。闇夜に溶けるように、肩まであるボサボサの黒い髪の毛が揺れていた。揺れるたびに頭が窓枠にぶつかって、けれど痛いと感じるよりも虚無感の方が大きく、イルザは景色を見るフリをしながら窓枠に頭を打ち続けていた。
すると正面から手が伸びてきて、窓枠と頭の間に差し込まれた。対面に座る白い外套の男に視線を向けると、男は呆れながらもじっと見つめ返してきた。
「もっと自分を大事にしたほうがいいですよ」
と言われて思わず鼻で笑ってしまった。
「どうでもいい」
男に対しての返事でもあり、今置かれているこの状況に対しての本心でもあった。自分でもひどいと思うくらい投げやりな態度だったが、それでも男が視線を逸らすことはなかった。慈悲深くもあり、哀れんでいるような目がひどく煙たかった。
ため息をついて姿勢を正す。今の状況に不満はあるが、自分を救おうとしているということはよくわかっているからだ。妙に頭が冴えているのもこの男がいるからだ。誰かと一緒にいるとある程度の余裕が生まれている。一人でいたら余計なことを考えて気が狂ってしまうだろう。
「名前、なんだっけ」
最初に聞いた気がするが忘れてしまっていた。というよりも覚えているだけの気力がなかった。
「ヘルムートですよ。ヘルムート=エックハルト」
「そう、だったな」
「ですが私は貴女の名前をまだ聞いていません」
出会ってからここに至るまでの会話も少なかった。二人がした会話はどうして森の中にいたのか、家族はどうしているのかなどだ。その後、首を振る程度しかできなかったイルザは引きずられるようにして馬車に乗せられた。倒れた直後でもあり、一時的な心神耗弱状態であった。
「イルザ=フォルツ」
「両親はいないんでしたね」
「弟も、もういない」
もう一度窓の外を見た。
弟のベルノルトは元々体が強い方ではなかった。一年で何回体調を崩すのかと、数えていてもそのうち忘れてしまうくらいに体が弱い。そんなベルノルトを養うのは簡単ではなかった。思い出すだけでも面倒事の連続だった。しかし、それでも間違いなく愛していた。
「その弟を埋めるために森にやってきたんですよね。これまで二人で生きてきたんですか?」
「ベルが一歳のときに母親が出ていったからな」
「父親は?」
「ベルができたのと同時に女と消えた。仕事もせずに飲んだくれてばっかの男だったし、父親って感覚はあまりなかったけどな」
「どんな仕事で生計を立てていたんですか? あまり環境が良くなかったように見えますが」
そう思われても仕方がないと乾いた声で笑った。いい年の娘が薄汚れた布袋のような服を着ている。その上自分でもわかるくらいに痩せこけている。身長が少しばかり高いせいで余計に痩せて見えてしまう。ちゃんとした食事をし、風呂に入り、世間的に普通といわれるような暮らしをしていればこうはならない。
「鉱山の発掘とか、靴磨きとか、砂とか岩運びとかいろいろだよ。半奴隷なんでな」
稼ぎがなかったわけではない。半奴隷なので稼ぎはよくないが、それでも最低限の仕事は与えられていた。盗みをすることも少なくなかったが、それでなんとか食いつないでいた。だが食事もまともにとれなかったせいで肉付きはよくない。その稼ぎはベルノルトの薬代や親が残していった借金に消える。普通の生活などできる状況ではなかった。
「年齢は?」
「十八。アンタは?」
「三十八です。誕生日はいつですか?」
「ノームトルヴィの八」
「暦の感覚はちゃんとあるようですね」
「馬鹿にしてんのか。一年はシルフ、サラマンダー、ノーム、ウンディーネの四季。その中にトルヴィ、アサーラ、グラフェ、ポッシルの四月があって、一ヶ月は二十日間で区切られてる。五日間で一週、五日目は休日。それを繰り返してる。これで合ってるよな?」
ヘルムートは口に手を当ててなにかを思考していた。その思考を読むつもりはないが、今のやりとりから知識量を推定しているのだろうなとは見当がつく。
「なるほど、わかりました。今日がシルフアサーラの八なのでちょうど八ヶ月後ですか。ちなみに私はノームトルヴィの十なんですよ」
「誕生日なんてどうでもいい。特にお前の誕生日は興味もない」
「わかりました、話を戻しましょう。学校は?」
「学があるように見えるのか?」
教養があったらこんな生活にはなっていないだろうと鼻で笑った。かたやヘルムートは見た目だけでもその育ちの良さがわかる。高そうな衣類、外套、靴だってそうだ。泥汚れは多少目立つが、雨が降っていたことを考えればおかしくはない。それに頭が良さそうだ。だからこそヘルムートの発言は皮肉にも憐れみにも聞こえてしまう。
「見えませんね」
表情を変えることもなければ言い淀むこともなかった。そんな冷静なヘルムートに苛立ちを覚える。わかっていながら「学校は?」なんて訊いてきたのかと腹が立って仕方がなかった。元気さえあったら顔面を殴りつけてやろうかとさえ考えた。だが今のイルザには拳を強く握るだけの力もなかった。
「ああそうかい。で、どこに行くつもりだ? 私はアンタについていくと言った覚えはないんだけど」
「立つこともできなかった少女を放置しておくわけにもいきませんよ。あのままでは衰弱して死してしまう」
確かに自力で立ち上がることも難しいくらい体力を消耗していた。でもそれでもよかった。あのまま死なせてくれとさえ思っていた。ベルノルトを埋めたあの場所でそのまま死んでしまいたかった。もし死んでしまえたら、心中ではないからいく分か気が楽だっ
「頼んでない」
恨んでいるわけではないが、心臓が強く握られたように痛かった。自分だけが生き残っていることが腹立たしく、苦しかった。それほどまでにベルノルトの存在が大きすぎたのだ。二人で生きていこうと約束した。この手で育てていくのだと誓った。どんな困難も乗り越えてみせると意気込んだ。それがこの始末だ。
「そうですね、頼まれていません。ですが貴女が倒れた理由を知っているから、私は貴女を助けたのです」
「疲れてたから倒れたんだ」
「違います。貴女はこの世界でも稀有な魔力を持っている。その魔力が暴走したことが原因なんです。強大な魔力が感情のうねりによって体外に放出されようとした。しかし普通の人間は魔力を扱う術を持たない。結果としてその魔力に体が耐えられなくなったというわけです」
「魔力? そんな話は聞いたことないね。魔力を扱えるのは七人の魔法使いだけだろ」
「それはご存知なんですね」
「世界の常識だからな」
世の中には七人の魔法使いがいる。魔力を用いて魔法を使う。しかし魔法が使えるのは儀式によって魔法を継承された者だけ。この世界で魔法が使えるのは常に七人だけである。
「でも魔力はすべての人間が持っています。魔力が高い者をアカデミーに集め、その中から次の魔法使い候補を決める。それが魔法使い誕生の流れです。そして貴女のような大きな魔力を持つ者はそれだけでアカデミーに入る権利を有しています」
「アカデミー、ね」
教育機関に通ったことがないイルザでも聞いたことくらいはあった。そのへんの酒場に入り浸る中年たちの話を小耳に挟んだ程度だが、アカデミーという場所が魔法使いになるための学校だということは知っている。