17
支給された青緑色のスカートを穿いてブラウスのボタンをとめていく。それが終わったらスカートと同じ色のボレロを羽織り、胸ポケットの上から名札のクリップを留めた。最後に教科書と筆箱を鞄に詰め込んだ。アカデミーの刺繍が入った帆布鞄だった。
「さあ行きましょうか」
ドアの前でエルネスタがスカートをひらりとなびかせながら回ってみせた。赤い髪の毛のせいもあって、花がくるくると回っているようだ。
「ああ、行くか」
エルネスタを先頭にして部屋を出た。そしてそのまま講義室を目指す。学舎は学生寮を出て二分程度の場所にある。そこから昇降口を抜けて授業を受ける講義室へと向かった。エルネスタとは基本的に同じ授業取ることになるため二人は受ける授業を合わせることにした。
アカデミーは単位制であり規定の単位を取ることで進級することが可能となる。半年で中間査定があり、教師からの評価が入って残りの半年間でどのように単位を取るかを決める。
算術、公用語、歴史、地理、生物、乗馬の六つは単位が少なく、半年間で授業を三十程度取れば問題ない。
しかし政治、礼節、倫理、武術は半年で百近い単位を取る必要があった。単位制であるため、エルネスタ以外の人間と同じ教室になることも仕方がない。たとえば他人が苦手であったとしても我慢するしかないことはよくわかっていた。
講義室に入るとすでに十人以上の生徒が席についていた。イルザはエルネスタと共に一番前の席に座った。しばらくして教師が講義室に入ってきた。そうして、授業が始まった。
授業の時間は一時間。教師の話を聞き、黒板の内容をノートに写し、そうしている間に一時間など簡単に過ぎてしまう。特にここ四ヶ月で勉強という行為を覚えたイルザにとっては机に向かい続けるというのは苦痛だった。苦痛ではあるが、時間は忘れられた。
午前中の授業が三時間、昼休みを挟んで午後の授業が三時間。疲労は間違いなくあるが帰ってすぐに眠るほどではなかった。これも勉強と体力づくりを両立したおかげだった。最初は無理矢理であったが、ヘルムートには心の中で感謝していた。
すべての授業が終わって部屋に帰った。食堂で夕食を食べてから大浴場に向かうと、大浴場には誰もおらず貸し切り状態だった。
大浴場の湯を桶で掬い、軽く汗を流してから風呂に浸かった。お湯に入っただけだというのに重力から開放され、一日の疲れがお湯に溶け出していくようだった。
「疲れましたねー」
エルネスタがタオルで髪の毛をまとめながら言った。
「ホントにな。複数の人間と同じ空間にいるってのは初めてだから特に疲れる。学校ってのは窮屈なんだな」
イルザが感じた率直な感想だった。自分と教師の二人きりのときはまだよかった。だが同じ空間にいる人間が増えることで、どうしても人の気配というのが気になって仕方がなかった。
「高等部とはまた違った緊張感がありましたね。そういえば妹が今年から中等部だったんですけど、最初は暗い顔してました。まさか私が妹と同じような心境になるとは思いませんでした」
「妹はお前とは違うんだな」
「そうですね、おっとりしていて人の後ろに隠れるタイプでしょうか。私は人見知りしないタイプなんですが、生徒の年齢があそこまでバラバラだとちょっと気後れしちゃいます」
「私は知らない人間は全部よくない人間に見えるからかな、常に気を張ってるせいで疲れるな」
そこでエルネスタの様子がおかしいことに気がついた。目を伏せて水面をじっと見つめていた。なにかを考えているようで、呆けているようにも見えた。
「今更なんですけど訊いてもいいですか?」
すぐに言い出さないところを見て真面目な話をしようとしているのがわかった。予感はあった。いつかは訊かれるのだろう、と。
エルネスタという少女は非常に純粋そうに見え、人当たりがよく、話す言葉にもイヤミがない。しかしまだ信用に値するとは思えなかった。ヘルムートにさえまだ完全に心を開くことができないエルザにとって、同性の同級生という新しい関係の存在は異質だった。
「なんだ、改まって言うようなことなのか?」
「まあ、そうですね。人によっては」
「面倒なヤツだな。言いたきゃ言え。その代わり答えたくない場合は答えない」
エルネスタが身じろぎすると透明な湯船に波紋が広がった。
「イルザさんって、私が今まで関わってきた人と違うなって最初から思ってました」
「だから?」
「その、イルザさんってアカデミーの入学試験を受ける前はなにをやってたのかなーって、思いまして……」
その言葉だけでエルネスタの優しさがよく分かる。同時に想像以上に好奇心が強いことも。
戸惑うことはない。言ったところでエルネスタの反応に対して自分が無関心であり続ければいい。今までそうやって生きてきた。
そう思っているはずなのに、言葉を吐き出す前に深呼吸をしていた。
「ここから遠いところで暮らしてたよ。馬車で三日はかかる」
「遠く、ですか?」
「シン・ルアン・レッセだ。いい町とは言えなかったがそこそこ大きかった、気がする。そこで日雇いの仕事をして食いつないでたよ。お前は?」
「私はジオ・ジェラ・ホロゾですよ。ここから馬車で二時間程度です」
「ジオってことは南、ジェラが近い、ホロゾが大規模町だったか。そうか、近いんだな。家族はどうしてる? お前がアカデミーに来ることに反対しなかったか?」
「両親、兄二人、姉二人、妹も元気ですよ。でも私がアカデミーに行くことを良しとしなかったみたいで、最後の最後まで反対されちゃいました」
「そうか、いい家族なんだな」
「はい、自慢の家族です」
エルネスタは笑顔を浮かべてそう言った。
チクリと、胸が痛んだ。痛んだ場所から黒いドロっとしたなにかがじくじくと染み出してきたような気がして、急いで深い呼吸と共に傷に蓋をした。感情を殺すことには慣れているからできることだった。
「イルザさんのご家族は誰か反対されたんですか?」
どうやって説明しようか。そう考える間もなく言葉が口をついて出てくる。
「うちは誰も反対しなかった。両親も、弟もな。そういう家もある」
間違ってはいない。間違ってはいないがどうしてか気が咎める。しかしエルネスタに詳しく説明するのもまた気が進まなかった。
「イルザさんのお家は放任主義なんですかね? でも魔法使いになりたいってことは、イルザさんにもやりたいことや憧れる人がいるってことなんですよね?」
「まあ、やりたいことはあるな。でも憧れてるなんてヤツはいない。私は魔力が高いらしいからヘルムートが目をつけた。ただそれだけの話だ」
「じゃあ憧れはヘルムート様ですか?」
「アイツはそういうんじゃない。感謝はしているが、それ以上でもそれ以下でもない」
エルネスタの顔がどんどんと赤くなってきている。イルザ自身も限界が近く、そろそろ頃合いだと勢いよく立ち上がった。
「そろそろ限界だ。私はもうあがるぞ」
「それなら私もあがります」
二人揃って湯船を出た。エルネスタは脱衣所のベンチに座り込んでタオルでパタパタと顔を扇いでいた。同じくベンチに座って涼むこともできたが、イルザはすぐに着替えることにした
暑いことは暑いがまだ入っていられた。それくらいの余裕はあるが、あのまま熱さで少しずつ思考力が鈍くなっていけば余計な話をしてしまいそうだった。会話を中断するいい口実ができたと思いながらも着替えを済ませていく。着替えが終わると、出入り口に備え付けられている水道で水を飲んだ。風呂上がりに飲むように備え付けられているのだろう、コップが紐で括り付けられている。
「お前もさっさと着替え済ませて水飲めよ。脱水症状になるぞ」
「もうちょっとー」
のろのろと着替えるエルネスタを見てため息を吐いた。
そのとき、イルザは自分が笑っていることに気付いていなかった。だからエルネスタがこちらに向かって微笑んでいる理由もわからなかった。ただ、彼女が情に深く笑顔を振りまくような人間であると考えていた。ありとあらゆる人間に優しくできる、そんな人間なのだと。
「それじゃあ行きましょうか」
いつの間にか着替え終わったエルネスタがイルザを見上げて言った。清らかで可愛らしい。この笑顔を見ているとなぜかこちらまで優しくなれたような気がしていた。
「着替えを部屋においたら夕食だな」
二人揃って脱衣所を出た。一度部屋に戻ってから食堂で夕食を食べた。また部屋に戻って勉強をしてから床に就く。こうやって新しい日常を、また新しく体に馴染ませることから始めなければいけない。それでも順応する自信はあった。というよりもそうするしかないことを知っている。
朝起きて、食事をし、学校へ行き、帰ってきて、風呂に入って食事をする。最後に勉強してから就寝する。このリズムを保ちながら学校生活に慣れていった。アカデミーという新しい環境での生活に対してなにかを感じる暇もなく、イルザの時間は過ぎていった。