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 それから毎日同じことを繰り返した。勉強に体力づくり、体術や剣術の稽古、乗馬の訓練、テーブルマナーなどの作法を学んだ。非常に多くのことを詰め込まれ、ときには頭を抱え、ときには教師たちにため息をつかれ、暗記が上手くいかずに涙をにじませることもあった。


 しかしイルザには諦めるという選択肢が存在しなかった。奥歯を噛み締め、拳を握り込み、瞼を強く閉じ、そしてすぐに体を弛緩させて浅く長く息を吐いた。そうして一歩一歩前に進み続けた。食べて寝て、勉強に武術にと真剣に取り組んだ。


 その甲斐があってか、数週間で顔つきも体つきもふっくらとし、髪の毛は艷やかになっていった。


 一週間に三回ほど、寝る前にフィーネに絵本を読んでとせがまれた。疲れていても辛くてもその要求

を飲んで、彼女が寝るまで絵本を読んだ。何回かに一回は一緒に寝てしまうこともあったが、ヘルムートからもディアナからもなにも言われなかった。


 ある日の剣術の休憩時間にヘルムートに訊いた。


「なあ、お前は私とフィーネが一緒に寝てるのが気にならないのか?」


 ヘルムートは本を閉じて首をかしげて見せた。


「どうして気になるんですか?」

「私はそのへんで転がっててもおかしくない貧民だぞ? そんなヤツと大事な娘を一緒に眠らせるのはおかしいだろ。それになんで私に絵本を読ませるんだ?」

「言いたいことはわかります。ですが、貴女はフィーネを邪険にすることは絶対にない。あの子がイチゴが食べたいと言えば差し出し、抱き上げて欲しいと言えば抱き上げ、風呂に入りたいと言ったら一緒に入ると思いました。絵本に関しては私の指示ではありませんけどね」

「ってことはあの子が自分で私の部屋に来たって? ディアナはよく反対しなかったな」

「最初は反対してましたよ。でも私が大丈夫だと言ったんです。なによりもフィーネが貴女の元に行きたがった。だから行かせた」

「フィーネが? なんでだ? 最初に私の部屋に来たのって私がこの屋敷に来た次の日だぞ」

「子供というのは私たちが思うよりもずっと人の心に敏感なんですよ」

「無謀なだけじゃないか? 知りもしない相手の部屋に飛び込んでくなんて正気じゃない」

「ではあの子が正気じゃないと本気で思ってるんですか? あんなに可愛い子に対して酷い物言いですね」

「別にそういうわけじゃない」

「でも貴女の言い方だとそういうふうに聞こえますよ?」


 イルザは「クソっ」と言いながら頭を掻いた。寝る前に朗読し、一緒に眠ったことで距離が縮まった。自分のことを「お姉ちゃん」と慕い、弾けるような笑顔を見せるフィーネを見て、それでもなお

「正気ではない」なんて本気で言えるわけがない。

「悪かったよ、正気じゃないなんて言って」


 ヘルムートは嬉しそうに目を細めて「当然です」と頷いた。


 そこにドミニクが歩いてきた。ヘルムートとは正反対で常に怒っているような印象で、それは訓練中も変わらず顔にも態度にも現れていた。


「ヘル、そろそろいいか?」

「いいですよ。数週間で体力もついてきたみたいですし、好きなだけしごいてあげてください」

「言われなくてもそのつもりだ」


 荒々しく、やや横柄な態度にムッとする。ヘルムートが気にした様子がないのが不思議なくらいだ。


「ドミニクはヘルムートの護衛なんだろ? それなのになんでドミニクはそんな態度なんだよ」


 イルザの言葉を聞き、二人は顔を見合わせて笑った。


「私は平民、ドミニクは貴族と身分は違います。でもドミニクは貴族社会というのが好きではなかったんですね。お屋敷を飛び出して平民の子どもたちとよく遊んでいたんです。その中の一人が私でした。と言っても五歳年上の私がドミニクに勉強を教えたり面倒を見てたというのが事実ですが」

「それは言い過ぎだ。お前らには果物だのパンだのと持っていってやっただろ」

「そうでしたね」


 ドミニクは「この野郎」と言いながらも、その口元には笑みを浮かべていた。


「身分的には魔法使いは王族の下、上級貴族の上なので騎士であるドミニクは私に対して敬語であるべきなんですけどね」

「でもドミニクは貴族なんだろ?」

「中級貴族の三男なんですが、家督はドミニクの兄が継いだのでドミニクは正式な貴族にはなれませんよ。どこかに嫁ぐとか、功績を上げれば下級貴族にはなれるかもしれませんね。その気があればですが」

「騎士ってのはどれくらいの地位なんだ?」

「下級貴族の下、準下級貴族と同等ですね。平民に毛が生えた程度です。ドミニクはそこが限界でしょうかね」


 ヘルムートが呆れた様子で言うと、ドミニクは「黙れよ」と少しばかり機嫌が悪そうにする。


「仲いいんだな」

「腐れ縁ですけど仲はいいと思いますよ。ということで私たちに上下関係はありません」

「疑問が解消したところで続きやるぞ。木剣を持て」

「はいはい、わかりましたよ」


 ため息をついて木剣を持った。最初は十分も木剣を振るうことができなかった。そのため休憩を長めにとって重いものに慣れることから始めた。それが今では三十分木剣を振るい、十分休憩を挟む程度でも問題なくなった。今までが貧弱だったせいもあり数週間あれば体力も筋力もついてくる。イルザは木剣を握りながら強く実感していた。


 訓練をし、勉強をし、マナーを学び、湯浴みと食事を済ませてからまた勉強をする。そして寝る前はフィーネに絵本を読む。特に最近はほぼ毎日イルザの元にやってくるようになった。そうなると勉強の時間は間違いなく減る。けれどイヤではなく、断ることも一度としてなかった。フィーネが自分のことを「お姉ちゃん」と呼び慕ってくれることが嬉しかったからだ。


 フィーネが眠ったあとで今日一日の復習をする。数式を解き、地名を暗記し、公用語の文法をノートに書き出していく。そうやって知識を詰め込んでいると、どうしても「なぜこんなことをしているのか」という疑問が湧いてくる。そのまま一時間経過し、浅く長い息を吐きながら鉛筆を置いた。


 ベッドへと視線を向けるとフィーネが気持ちよさそうに眠っている。可愛いとは思う。この屋敷にいることも幸せだと感じてしまっている。しかし「どうして今ここにいるのか」を考えると、この幸福感に黙ったまま浸り続けることはできない。


 スーッと頭が冴え渡っていくようだった。耽美とも言えるこの生活も制限付きのもので、当然フィーネとの関係も時間がくれば終わってしまう。親切にされればされるほど、親切にすればするほどに自分がここにいる理由を見失いかけてしまう。


 目を閉じて頬を叩き、また机に向かった。こんなも自分は本当の自分ではないと鉛筆を握った。この生活もこの環境もこの感情もなにもかも、本来自分が持っているものではないのだと言い聞かせていた。そうしなければ飲み込まれてしまうような気がしたのだ。この屋敷に滞留している甘く温かな空気に蝕まれているのがどうしても許せなかった。


 イルザはその後も勉強を続けた。明確な目的があるのは非常に楽だった。先が見えないギリギリの生活を続けるよりも遥かに簡単だ。


 結局、イルザが寝たのは朝日が上る少し前だった。目を閉じればすぐに眠ってしまうような、そんな時間であれば思考するまでもなく眠ることができるから。そうやって、無理矢理眠りにつくのだった。

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