プロローグ
今日もまた仕事で得た金で弟の薬や食材を買った。半奴隷という低賃金重労働でなければ、学のないイルザは金を稼ぐことができない。家は有り帰れるが安い賃金で毎日働かされる。
紙袋を持って家の前に立つと自然とため息が出てきてしまう。雨風も完全に凌げないボロボロの家だがここしか帰る場所がない。ひどく滑稽で、自分のことが哀れに思えてきてしまう。
今日はベルノルトの体調が良くなかった。一日中ついていてやりたかった。六歳になったばかりのたった一人の家族だからそれも当然だ。だが薬も食材もなかったので金が必要だった。
ドアを開けると夕日が家の中に差し込む。その光の中で誰かが倒れていた。誰かなど考えるまでもない。
「ベル!」
仕事中に蹴られた腹や踏みつけられた腕の痛みも忘れ、紙袋をその場に落として駆け寄った。抱き上げて、ベルノルトの口元に耳を近づけた。すでに呼吸は止まっていた。
上下に揺さぶってみるが反応はない。「ベル、ベル」と呼びかけても反応はない。
少しずつ、少しずつ鼓動が小さくなっていくのがわかった。
「ダメだ、ダメだダメだダメだ!」
何度も何度も体を揺さぶる。しかしベルノルトが起きる様子はなかった。
体温が失われていくのを全身で感じると顎が震えて歯がカチカチと鳴った。双眸から流れる涙が落ちてベルノルトの顔を濡らしていった。
「待ってくれよ、誰か、誰か助けてくれ……!」
強く抱きしめ、自分とベルノルトしかいない室内で助けを求める。今まで誰かに頼ったことはない。ベルノルトはなんとしてでも自分が育てていくと決めたから。今でも鮮明に思い出す。産まれてすぐ、イルザが差し出した人差し指をその小さな手でキュッと握りしめた。そのときの衝撃と感動を忘れたことはない。ずっと守っていくのだと心に決めた。この子が生きていくために身を削る覚悟もした。そして出ていった両親の代わりに愛情をもって育ててきた。
それが間違いであったのかもしれないと、こうなって初めて気がついた。たとえば涙を流して、額を地面に擦り付ければ誰かが助けてくれたかもしれない。けれどイルザはそうしなかった。意地だった。立派にベルノルトを育て上げて、出ていった両親に「お前らが捨てた子供だぞ、参ったか」と見せつけてやりたかった。なによりもベルノルトと一緒にいたかった。
そうして、ベルノルトの心臓は生きることをやめた。
体を離して顔を見た。安らかで、穏やかな寝顔だったことにほっと胸を撫で下ろす。苦しそうな顔をしていなくてよかったなと、そんなことを思ってしまったのだ。
イルザはベルノルトを強く抱きしめた。そして声が枯れるまで泣き叫んだ。雨が強かに屋根を打ち付けていることさえも気が付かず、たただたその場で泣き続けた。