義妹が本物、私は偽物? 追放されたら幸せが待っていました。
海に囲まれ、海の神を主神とするフカン国には、古くからの取り決めがあった。
──海の神女は、最も高貴な者の妃とされるべし──
その日、フカンの国は例年になくにぎわっていた。
海の神女が十六歳の成人を迎え、"海神の大祭"が催されることになったからだ。
フカンにおいて、神女は海神の寵愛の徴として、鱗型の痣を持って生まれる。
その存在は、豊穣と繁栄の約束。
けれどもここ数十年ほど神女は無く。海難や凶作が続く中、やっと生まれた当代神女は、筆頭大臣の娘だった。
大臣の長女スザナが痣持つ神女として就任して以来、国は凶事もなく安寧。スザナも祭祀に公務にと、よく勤めを果していたが。
"大祭"前夜に、騒ぎが起こった。
「これより、偽の神女スザナの罪を問う!」
高らかに声を張り上げたのは、檀上に立つ第一王子。
前夜祭を任されていた王子は、王に代わるその夜の最高責任者であった。
彼の傍らには華奢で可憐な少女が、王子に抱き寄せられるように身体を預けている。
王子と少女の対面に佇むもう一人の少女は、たった今名指しされた神女。
彼女たちの名がそれぞれ、大臣の長女スザナと次女レンゲであることは、この場の誰もが知っていた。
王子の隣がレンゲ、視線の先がスザナ。
大勢の人出で溢れる祭り前夜に、不穏な発言。
一体何事が始まったのだと、人々はざわめいた。
広場には国の重鎮を始め、一般市民も多く詰めかけている。
彼らの注目を一身に集め、王子はスザナを睨みつけたまま、聴衆に聞こえるよう大声で続けた。
「今までよくも我らを謀ってくれたな、スザナ! 本当の神女は貴様の妹、レンゲだったと判明した。貴様が享受していた諸々の権利を、直ちに正統な神女へと返すが良い!」
ざわっ。
衝撃が走る。
"スザナ様が偽神女で、レンゲ様が本物?"
"どういうことだ? これまでスザナ様を神女として、国は安泰だった。王子は急に何を言い出したのだ?"
"そもそもレンゲ様には、神女の徴たる痣がないではないか"。
囁かれた声に、王子が応えた。
「皆の疑問はもっともだ。しかし、我々はずっと騙されてきた。国が平穏に保たれていたのは、真の神女レンゲの加護があったからに他ならない。さ、レンゲ、皆にそなたの徴を見せなさい」
優し気に促す王子に、俯いていたレンゲが顔を上げ、肩の着衣を滑らせる。
するとそこには、遠目にもはっきりと分かる、濃い鱗型の模様があった。
そこかしこに立てられた祭りの篝火が、煌々と痣を照らす。
「あれは……、神女の徴!」
「どういうことだ。当代の神女はスザナ様。神女は滅多に現れないはずなのに」
騒然とする会場に向かい、王子が言う。
「スザナの痣は自ら刻んだニセの徴だ。レンゲが彼女の嘘を明かしてくれた」
「なっ」
「それが本当なら大罪だぞ」
驚く人々の前で、レンゲが大きな瞳に涙をたたえ、姉に向かって訴える。
「ごめんなさい、お姉さま。秘密にするよう厳命されていましたが、これ以上海神様と皆様を欺くこと、私の良心が耐えれませんでした」
そんなレンゲを愛し気に抱き、王子が言葉を引き継ぐ。
「レンゲはずっとスザナに虐待されていたのだ。私が気づいた時、レンゲの肩は青く変色していた。本物の痣だと分からぬよう、スザナが日々レンゲを打ち据え、徴を隠していたのだ。痛みに苦しむレンゲを介抱した際、こたびの虚言が発覚した」
「まさかそんな」
狼狽えながらも聴衆は、儚げなレンゲと王子の話に説得力を得て、スザナを見遣る。
その眼差しには、すでに疑惑の念が宿っていた。
妹レンゲは誰もが認める、明るく華やかな美少女。
対する姉スザナは、栄えある神女の身でありながらいつも陰鬱。白い神女服が"死に装束"を連想させるほど、重い空気を纏った少女だ。
保たれる表情は常に無で、心のうちがまるで読めない。
これまでは神女らしい神秘さだと受け取っていたが。
"愛される妹を妬んで、根暗な姉が"神女の地位"を妹から奪い取ったのか?"
そう考えると辻褄も合う、気がする。
「何か申し開きはあるか、スザナ!」
苛烈な王子の声に責められ、群衆から非難の目を浴び、突然の事態に驚いたからだろうか。スザナの肩は震えている。
小さな唇から、微かに声がこぼれた。
「レンゲ、あなたは……」
ポロリ、とスザナの目から涙が落ちる。
「なんという……」
隠れた口元が、そっと緩んで弧を描く。
「愚かな……。神女の役目を、代わってくれるというのね……」
その呟きは誰にも届かず、王子は彼女を断じて言った。
「泣いたところで無駄だ、スザナよ。貴様の何倍もレンゲは辛い思いをしてきた。義理の姉に虐められ、折檻されてどれほど落涙したことか」
レンゲが大臣の妾の子であることは、知られた話である。
スザナとは同い年の十六歳だが、屋敷に引き取られた際、スザナを立てるために"妹"とされたことも。
「ぐすっ、殿下……。わたくし、お姉さまに逆らえず……申し訳ありません……」
周囲はすっかりレンゲに同情した。
人は近寄りがたいものより、親しみやすいものに庇護欲をかきたてられる。
"きっと妾の娘を目障りに思った姉が、憐れな妹を虐げていたのだ"。
"スザナ様の薄ぼやけた痣とは違い、レンゲ様の痣はこんなにも鮮明"。
"これまで健気に耐え忍んできたレンゲ様こそが、選ばれし神女に違いない"。
「兵士たちよ! すぐに偽の神女スザナをこの国から放り出せ! 与えて良いのは一艘の小舟と漕ぎ手、二日分の食料だけ。それ以外は持たせるな」
王子の沙汰は下った。
かくしてスザナは捕えられ、彼女の忠実な従者と共に放逐された。
夜のうちに速やかに。"海神の大祭"を明日に控え、スザナは祖国から追い出されたのだった。
◇
「ふふふ、上手く行きましたね、殿下」
「ああ、上手くいったな、レンゲ。私たちの思うままに事が進んだ。まさかスザナが何の反論もしないとは。相当、怯えていたに違いない。これまで痛めて来た甲斐があった」
"もっとも、逆らったとしても追い詰めたがな"。
王子が盃を手に笑う。
海に面した宮殿の一角で、波音を聞きながら王子とレンゲは祝杯をあげていた。
「明日の大祭には父上がご出席になり、神女に宣旨が下される。それは妃の任命だと聞いている。ふふっ。"海の神女は、最も高貴な者の妃とされるべし"か。
父王には、すでに母上がいらっしゃるから、次なる高貴なる者は、次期国王であるこの私。つまり神女は、私の妃になるというわけだが──」
王子が機嫌良く盃をあおった。
「スザナのような陰気な女を嫁にするなど、ゾッとする。私の妃にはレンゲ、そなたこそが相応しい」
「まあ。嬉しいお言葉を。秘かに取り寄せた染め薬で、ニセの痣を創った甲斐がありました」
「珍しい貝が原料と言ったか? シミひとつない玉のような肌に、消えない跡を刻んでしまって惜しかったな」
「ですがこれで、殿下の妃になれるのでしたら、安いものですわ」
しなだれかかるレンゲに、だらしなく鼻の下を伸ばした王子が、彼女の服のうちに手を差し入れようとした時。
息を切らせた侍従が飛び込んできた。
「国王陛下がいらっしゃいました!」
「なっ!」
予期せぬ王の来訪に、慌てて王子が姿勢を正し、レンゲはさっと距離を取る。
彼女が脇に平伏すより先に、王は部屋にあらわれた。
「父上、突然のお越しとは。お呼びくだされば私が参りますものを」
王からただならぬ怒気を感じ、取り繕うように王子がおもねる。
「その娘が新しい神女か! よくも相談なく、勝手なことを仕出かしてくれたな」
レンゲに一瞥をくれ、王は王子を怒鳴りつけた。
「っつ、父上。何をそんなにお怒りに──?」
「なぜ神女スザナを追放した! 明日の祭りをどうするつもりだ!」
「そ、それは、スザナに代わってレンゲが神女を務めますゆえ、問題ないかと」
「この痴れ者!!」
王の剣幕に、王子は焦りながら父の顔色を窺う。
王は、これ見よがしに溜め息をついた。
「──大祭における神女の役目。お前たちはそれが何か分かっているのか?」
「は、はい。成人した神女が、妃に任命され、嫁ぐ祭りです」
「では、誰の妃だと心得ている?」
「それはもちろん、国で"最も高貴な者"。つまりは王族。父上には母上がいらっしゃるので、私の妃、となるのですよね?」
「"海神の大祭"ぞ? 最も高貴な存在とは"海神"に決まっておる」
「え?」
「祭りで神女は、海神の妃になる」
「それは……どういう……」
「どういう? 海の神の妻になるのだ。身も心も海神に捧げるため、祭り後の神女は、海中で暮らすことになる」
「海中で暮らす? で、ですが人間は、海の中では呼吸が続きません」
「わかっておる! だから"妃"という名の生贄だ!」
「ええっ?!」
王の言葉に、王子とレンゲは一気に顔を青ざめさせる。
「"海神の大祭"は数十年ぶり。若い者たちが知らぬのは無理もないが、しかしお前は王子として、学ぶ機会はあったはずだ。神女が成人を機に生贄となることは、大臣もスザナ自身も知っていた」
「え?」
「お姉さまは、知っていた……?」
「レンゲとやら。そなたは知らされていなかったのだろう? 大臣は、死に逝く娘スザナよりも、そなたを目にかけ可愛がっておったからな。姉の暗い未来など語り聞かせたことはないと言っておった。しかしまさか、こんな真似をするとは──」
スザナは成人すると生贄にされることを知っていた?
だからあんなに陰りのある表情をして過ごしていたのか?
「スザナ亡き後、王子妃には名誉ある神女家の妹が、推挙される段取りとなっておった」
「!」
「神女家の妹とは、父上。レンゲのことですか?」
「海神の妃にスザナを。王子の妃にレンゲを。大臣に生贄を出させる条件として、そういう約束になっておったのだ」
王が語った大臣との取引話に、王子とレンゲは目を見開く。
では、自分達のしたことは?
王の言葉にレンゲは振り返る。
確かに、父である大臣は、姉スザナを顧みることなく、常に自分を優先してくれていた。
神女の家に支給される年金は、常にレンゲの衣装代や装飾品に代わり、姉スザナは決まった神女服しか与えられていなかった。
王子が広場で語った、スザナによるレンゲ虐待の事実などもない。
レンゲが八つ当たりや戯れに、スザナに手を挙げたことはあっても。
大臣も屋敷の者も、何かあってもレンゲを咎めることなく肯定していた。
それは、妾であった自身の母や、愛らしい自分の方が、政略結婚だったスザナ母娘より気に入られているからだと思っていたが……。理由はそれだけではなかった?
死が確約された姉に将来は無しと、スザナが父に見限られていたから?
愕然とするレンゲに、王の声が響く。
「レンゲよ。スザナが去った今、国に残った神女はそなた一人だけだ。そなたが神女である以上、"大祭"の儀式から逃れることは出来ん。──諦めよ」
「っ! 諦めよ、とは……。まさか私は……、神女として海に放り込まれる、のですか……?」
いつの間にか直答しているレンゲを、王は寛大に許した。いささかの憐憫を視線に含んで頷く。
「そうなる」
「そんな……っ。あの、違うのです、これは。この徴は、実は」
「よもや今更、その徴がニセの痣とは言わぬだろうな? 大臣も知らぬ間に出来ていたそなたの痣だが……。海神に神女を捧げなければ、国が廃れる。民も納得せぬ」
「ひっ」
王の迫力に、レンゲは口を噤む。
言えない。王は自分を真の神女だと言っている。
よしんば、違っていても「そうであれ」と命じている。
この痣を創ったものだと話せば、さらに恐ろしい罰が待っているに違いない。斬首もあり得る。
即刻処刑されるより、まだ海に捨てられた方が生き延びられる可能性があるのでは……?
状況を秤にかけるレンゲの横で、王子が弾かれたように言った。
「スザナを連れ戻せば!」
そうだ。従来通り、スザナを神女として捧げれば。
偽神女説は間違いだったと訂正して、義姉に役目を果たして貰えば良い。
ぱっとレンゲの顔が輝くが、王の声は重く鋭い。
「見つかると思うか?」
「今は春の大潮。国周りの渦は大きく、夜の海に漕ぎ出て無事で済むとは思えません。きっと立ち往生しているはずです」
「だからそなたは漕ぎ手をつけたのだろう? スザナを迅速に遠く追いやるために」
「……! は……い……」
「漕ぎ手には、スザナが育てた従者が名乗り出たそうだ。聞けば、潮を読むに長けた若者らしい。今頃、危険な海域は脱していよう」
「!」
「なぜ漕ぎ手をつけようと思った? 誰かから吹き込まれた気はしないか、王子よ」
王の言葉に、王子は記憶を探る。
そもそも、自分はなぜ即座にスザナを追放しようと考えたのか? 投獄でも間に合ったはずなのに。
追放も漕ぎ手の話も、レンゲがもたらしたもの。
彼女は屋敷の者にそれとなく相談した際、この提案を受けたと言っていた。
屋敷。スザナと彼女の従者も属する場所。
巡り巡って、スザナたちが裏にいてもおかしくはない。
「──!!」
「そなたたちは、してやられたかも知れんな、スザナに」
「は?」
「あの娘も、生贄になるのは嫌だったのだろう」
だから神女の地位を奪わせ、自分を追放するよう仕向けた。
なんてことだ。結果だけ見ると、スザナは生贄役を押し付けて、まんまと逃げている。
「な──」
今度こそ、王子とレンゲは絶句した。
「父上、何とかなりませんか。レンゲをみすみす生贄にしたくはありません」
「……そなたは、己の身を案じた方が良いだろう」
疲労の色を浮かべ、王は王子を見る。
「? 私が……何か?」
「そなたには、『海神の妻となる女性を略奪した不届き者』という噂が流れている。以前よりレンゲと交際していたらしいな。箝口令を出したが、おそらくもう、国中に知れ渡っている」
「!! いえ、それはしかしっ、レンゲは私の妃となるから」
「海神の妃、だ」
「神女に手を出したそなたは、海神の怒りを鎮めるため、下僕の印をその身に刻まれ、縛って海に投げ入れられるだろう。卑しい下僕として使役いただくことで、海の神に溜飲をさげていただくというわけだ」
「そんな……馬鹿な……。私は父上のひとり息子で……、次期国王となる高貴な身で……、だから……」
「家臣一同が、奏上してきた。皆、再び海が荒れるのが恐ろしいのだ。そなたたちは知らぬだろうが、神女が生まれるまでの災難は、本当に酷いものだったからな」
王がゆっくりと首を振る。
「娘をふたり失うことになった大臣も立腹していてな。儂にも止めることが出来なかった」
「では、今お話になられた私の処遇は、決定事項なのですか?!」
「次期王には我が弟の子を据える……。せめてもの情けで、こっそり縄に切り目を入れるよう、指示しておこう。運良く助かれば、遠い地に逃げ延びるが良い。生きていることが民に知られれば、再び海に投げ込まれてしまうのだから」
「まさか……! 下僕の印を刻まれて、国を出て、私にどう生きろと言われるのです!」
フカンで王子として生まれ育ってきた身にとっては、死よりも辛い宣告であった。
主のいない下僕が他国で見つかれば、"逃亡奴隷"として酷い扱いを受ける。
「身代わりを用意してください!」
「王子の顔は知れ渡っているのにか? 明日までに都合良く、良く似た他人が見つかるわけがない。……儂も辛いのだ……」
王の嘆息に、王子は言葉を失った。
父の権力をもってしても、覆すことが出来なかった以上、もうどうにもならないのだと。
がっくりと項垂れる王子の横で、蒼白になったレンゲも、ただガタガタと明くる未来に恐怖するばかりだった。
王子も捨てられる、父も諦めた、となれば、もはや頼れる相手はいない。
(どうしてこんなことに。私はただ、王子妃になりたかっただけなのに)
「逃げないよう、王子とレンゲを拘束しろ」
王が背後に控える兵士たちに命じた。
「海神様が供物にご満足してくれることを祈ろうぞ」
その声は、ひどく遠く聞こえた。
◇
「フカンはこれからどうなるのかしら」
小舟に揺られながら、スザナは呟いた。
遠い陸地に、灯りが並ぶ。
故国フカンの浜と丘。
丘には王の宮殿があり、向こうからもこの昏い海が見えていることだろう。
ギィ、ギィと規則正しい櫂の音が、器用に波間を縫って滑り往く。
「ご心配ですか? お嬢様は本当にお優しい」
月明かりに照らされた精悍な従者が、落ち着いた声音でスザナに応える。
「優しくは、ないわ。大切なお役目を捨てて、逃げ出したのだもの」
神女の任から解放されると決まった時、安堵のあまり、思わず涙が出た。
「お嬢様が逃げたのではなく、あちらが言い掛かりで追放したのです。お気になされませんよう」
スザナの気持ちを軽くするため、言い切った従者の目は黒く深く、敏い輝きを秘めている。
その瞳を見上げて、スザナは柔らかく微笑んだ。
「イリク、お前、大きくなったわね。わたくしが拾った時は、ほんの子どもだったのに」
「お嬢様のおかげです」
「──わたくしは、育ち盛りのお前に十分な食事さえ用意してあげれなかった。自分が悔しいわ」
日々を思い出すように、スザナが目を伏せる。
大臣家の娘であり、国を代表する神女ながら、スザナの生家での立場は弱いものだった。
彼女の実母は、娘が神女として生を受けたことに衝撃を受け、海神の妃となる未来を嘆くうち、身を病んで儚くなってしまった。
父親は妾を引き入れ、同い年の"義妹"レンゲを可愛がり、スザナをいないものと放置した。
"スザナを見ていると辛くなる。それならば情が移らぬよう、初めから関せぬ方が良い"。
たとえそんな理由であったとしても、捨て置かれる方はたまったものではない。
屋敷の使用人たちも主人に倣い、スザナの世話は最低限、命を繋ぐための範囲に留められた。
希望もなく、与えられた神女服と質素な食事で、淡々と神事をこなす毎日。
そんなある日、スザナは浜辺に打ち上げられていた子どもを拾った。
自分とほぼ年の変わらない少年。息も絶え絶えで、スザナが見捨てた途端に命を落としてしまいそうなか弱い子ども。
少ない自分の食事を分け、スザナは夢中で彼の世話をした。
孤独な自分を、流れ着いた子に重ねていたのかもしれない。
回復した彼は海に潜り、自ら食べ物を調達してくるようになると、スザナの食卓にも品数が増えた。少年が「あれも食べて、これも食べて」と持ち込んだから。
少年は、異国の出身だったようだ。
彼はスザナに"イリク"と名乗り、フカンの外の世界について語った。
長い時間を共有したイリクが、従者としてスザナに付き従うようになったのは、自然な流れだった。
「イリクがいたから、わたくし、今日まで耐えられたわ」
絶望に塗り潰されていた日々に、彩りをくれたイリク。
スザナには、欲が生まれた。
もっと生きたい。
生きて、イリクと一緒に外の世界を見てみたい。
スザナとイリクは示し合わせた。ふたりでフカン国を脱出しようと。
けれど神女は、日頃たくさんの目に見張られている。無理なく出るには──。
レンゲの元に、特別な染め薬が渡るよう手配したのは、スザナとイリクだ。
幼い頃からレンゲは、"神女"の地位を妬ましそうに眺めていたから。
「お姉さまだけ、いつも注目を浴びて!」
そう叫んだ義妹に、母の形見の櫛を折られたこともあった。
極寒の水垢離から帰宅して、体温が戻らず、凍え震えていた日の出来事だったから、よく覚えている。
海神様と交信する霊力を高めるための修行は、衆目に見られる見世物で。
白く薄い衣が水に打たれて肌に張り付く姿まで人に見られて。
(そんな注目、あなた本当に欲しかった?)
神女になりたかった義妹。
(それなら、なれば良いじゃない。喜んで座を譲るわ)
罪悪感を感じないと言えば嘘になる。
けれど、スザナとて選びたかった。
レンゲには数多くの選択肢があった。
そして義妹は自ら選んだのだ。神女になる道を。
スザナが国を出た後の流れは、おそらく義妹に執心の王子にも、止めることは出来ないだろう。
レンゲに会うためいつも屋敷を訪れていた王子は、ついでのようにスザナに暴言を吐き、イリクを嬲った。
レンゲが「気に入らない」と言っているだけで、理由のない暴力を降らせ、スザナを庇ったイリクが怪我を負ったことも、数えきれない。
その度何度も、自分の無力さを噛みしめ耐えた。
◇
思いに耽っていると、イリクから確認の声がかかった。
「お嬢様、本当に俺の生国に行かれるので、よろしいのですか?」
「ええ、知りたいの。イリクの故郷のこと。イリクの国も海に近いのでしょう? お前の操船は、天性のものにしても抜きんでているわ。まるで波が避けていくみたい」
複雑な潮流の間を、難なく抜け出てしまった。そして速い。
「まあ……、誇張ではなく、海は俺の意に従ってくれますからね」
「言うわね! まるで海神様みたいなこと、聞かれたら大変よ」
コロコロと鈴を転がすような音色でスザナが笑う。
フカンでは滅多に見られない、もしかしたらイリクだけしか知らない神女の笑顔。
イリクがふっと頬を緩める。
「あと、故郷は海に近いというか、海の中というか」
「フカンみたいに、海に囲まれてるのね」
「ですね。嬉しいです。お嬢様をお招き出来るなんて」
「そういえばイリクはずっとわたくしの傍にいてくれたけど……、どうして今まで帰らなかったの? 本当は、帰ることが出来たのでしょう?」
イリクにとって、海は何の隔たりにもならない。そのぐらい、現在の彼は海を熟知している。
動揺したようにイリクが答えた。
年相応に素直に、そしてなぜか顔を赤らめながら。
「っあ、ああ。それは……。実は俺たちの一族は、生まれた時から運命の相手が決まっているんです。二枚貝みたいに同じ時に生まれ、ぴたりと添う相手が。その相手を見つけ、花嫁として連れ帰ることが"一人前"と認められる条件でして……」
「まあ、大変! それじゃあわたくしの元にいたせいで、大切な相手を探せなかったじゃない」
「~~っ。あの、お嬢様、気を悪くしないで聞いていただきたいのですが、その……、相手というのが、お嬢様、なのです」
「──え?」
「だから、お嬢様の傍に置いていただけたのは、俺にとって何よりも幸運なことでした」
「えっ、えっ、えっ」
(イリクは今、何を言ったの? わたくしがイリクの運命の相手で? 花嫁として、連れ帰る? えっ、ええっ)
呼吸を忘れるほど、スザナのすべてが停止する。
従者の言葉を思い返して紐解いて、彼女の身体は一気に沸騰した。ぱっと顔中が赤く染まる。
そうなれたらいいなと、ずっと夢見ていた。
一番近くで、自分を支えてくれていた絶対的な味方。イリクと添い遂げることが出来たなら、どんなに幸せだろうと。
「お嬢様……。俺と一緒に、俺の妻として来ていただけますか? 必ず幸せにすると、お約束します」
「わたくしでいいの? これまでさんざん迷惑をかけたのに」
これからも迷惑をかけてしまうのでは?
案じながらも、心は彼からの肯定を待っている。弾む期待に、逸る鼓動が抑えられない。
「お嬢様でなければ、俺、駄目なんです」
乞うような熱い告白は、スザナの心臓を破裂させかけた。
「イリク……! わたくしも、ずっとお前のことが好きだったの。妻になるわ! わたくしを娶って!」
求婚を受け入れた途端に見せた、イリクの破顔一笑を、一生忘れないだろうとスザナは思った。
それほどに邪気のない、喜びに満ちた想い人の笑顔。
それは甘いときめきを伴って、心地良くスザナを痺れさせた。
「良かった。じゃあ、ご案内します。俺の故郷へ! 眷属も皆、お嬢様を歓迎します」
言うなり、眼前の海が迫り上がった。
茅の輪の如き大円を描き、小舟を通す道が生まれる。
輪の向こう、水平線の先には、輝き聳える気高い島。その神々しい光は、周りの夜をかき消すほど眩い。
「まさか海果ての神の国、ニルヤ……?」
呆然と、海神の住まう理想郷の名が、スザナの口から零れ落ちる。
(海神様の国ニルヤが、イリクの生まれ故郷)
それは、つまり。
「イリク……。わたくし、ずっと思っていたの。あんなに海神様に声を届けるための修行を続けたのに、まるで成果が出ないって」
「届いてましたよ。だから俺は、会いに行ったでしょう」
(そう、イリクと出会ったのは、過酷な水垢離神事のすぐ後だった)
目に映る景色がかすむ。
涙で濡れているのだと、遅まきながらスザナは気づいた。
イリクがそっと、彼女の頬を拭う。
「人間の国で使える力は、成人するまで微々たるものしかなく、まるでお役に立てませんでしたが」
(そんなことない! イリクまで苦しい思いをする必要はなかったのに。私のために、フカンの屋敷にいてくれた)
こみ上げてくる思いに、スザナの声が詰まる。
「いいえ、いいえ、十分過ぎるほど、助けて貰ったわ」
イリクが優しく、腕の中にスザナを閉じ込める。
「ニルヤはあらゆる海に繋がっています。落ち着いたら、どこにでもお連れしますね。お嬢様が見て回りたいとおっしゃっていた国すべてに」
しゃくり上げながら、スザナが笑う。
「ねえ、イリク。"お嬢様"はもう、変よ。スザナと呼んで」
「スザナ……。俺の大切な神女」
(あなたが海神様だったのね、イリク)
逞しい胸元にスザナは顔を埋め、小舟はゆっくりと波間を進んで行くのだった。
海の、彼方へと──。
お読みいただき有難うございました!
なろう様のシステム&ランキングが変わってから初めての投稿です。(というか、今年入って初だった)
ざまぁが読みたくて、でも鬱展開は無しにしたくて。そしたら何か、こんななりました。
大きく二部構成。どうなんだろう? ガラリと変わるので、連載形式のほうが良かったでしょうか?
ところでレンゲと王子、海に捧げられる必要なかったじゃんね? そのままスザナが投げ込まれてイリクが助ければ良かったんでは、と思うけど、きっと長年に渡る悪さが、腹に据えかねるレベルだったんですね。
着想は補陀落渡海。(補陀落に向かうお坊さんは、食料詰め込んだ船に、扉を釘付けされて海に出るんですよ。ひぃ) 戻って来たら、また詰め込まれて流されたの。コワイよ!(ノД`)・゜・。
で、ニルヤの名前は琉球のニライカナイ由来。なんとなーく和風舞台な、どことも知れない国のファンタジー。和風で書きましたが「西洋イメージで読んだ」というお声もいただきましたので、西洋でもありです!(笑) お好みなテイストでご想像ください(´艸`*)
お話をお気に召していただけたら、ぜひ下の☆を★に塗り替えて伝えてやってください。お願いします(∩´∀`*)∩
国籍を隠すため顔だけ絵のイリク&スザナ(笑) 3/26追加