98.子どもな二人
「それで、緑川とはなにを話したの?」
いただきますの挨拶をすませると開口一番、泰明さんが尋ねてきた。
普段着姿の彼は箸を取ることなく、正面に座るわたしを笑顔で見つめてくる。その穏やかな口ぶりといい、昼間の様子がまるで嘘のように感じられるけど――目にはどことなく剣吞な光が宿っていた。
本家二日目の夕食は泰明さん、それからいつも一緒に食事してくれる奥様に代わって葉月ちゃんが席についていた。
泰明さんが女中頭のタエさんを下がらせたこともあって、座敷にいるのは三人だけ。
初日の昨日は倉橋様夫妻をはじめご隠居夫妻や泰明さんのお兄さん方も一家総出で集まることができたから、それはもうお祭りのように大賑わいだった。
和気あいあいとした空気がなんだか遠い昔のことのように感じられる。
「最初はその……麗花さんは泰明さんと結婚するけど、それは表面上のものだから安心するようにって言われて」
「僕はあれとは絶対結婚しないんだけど」
間髪入れずに青年がつぶやく。わたしも急いでうなずいた。
「はい、泰明さんにそのつもりがないことはお伝えしましたし、麗花さんも最初から承知されていました。だから泰明さんの愛する人を東京に連れてきたらいいって、そうおっしゃって……」
彼女がどんな気持ちでそれを言ったのかと思うと、胸が苦しい。
麗花さんの流した涙を思い出してなんだかわたしまで泣きたくなってくる。
「でも、麗花さんも最初は泰明さんと一緒になるつもりはなかったみたいなんです。本当は別の方と一緒になりたかったそうで」
そこまで言ってから葉月ちゃんをちらっと見た。
彼女は酒の肴とばかりに手酌をしながらこちらの話に耳を傾けている。
わたしと目が合うと葉月ちゃんがパチリと片目をつぶった。
「私はこの子のあれこれを知ってるから遠慮せずに話していいわよ」
「姉さんのことは気にしなくていいから、続けて」
二人に促されてうなずく。
「お二人が恋人のふりをしていたとき、それぞれ別に好きな方がいたって話してましたよね。麗花さんは今でもその方が好きで、でもお相手は……どうもその……」
「もう好きじゃないって?」
「そう言われてしまったようです」
眉をひそめる青年に小さく答える。
「麗花さんは何度も話をしようとしたんですけど、まったく取り合ってもらえなくて。だから今回のことは、ある意味やけになっているんだと思うんです」
そこまで言うとあらためて背筋を正した。
泰明さんをまっすぐ見つめて、覚悟しながら声に出す。
「麗花さんは今でもその方を愛しているそうです。だからわたし、お二人がよりを戻せないかと思ってて。それで麗花さんと約束したんです。わたしからお相手に、麗花さんと会って話をしてもらえないか頼んでみるって」
「そっか」
泰明さんのあっけない一言に拍子抜けする。
彼女と話をする前、彼からいろいろ注意されていたのにわたしはそれを無視してしまった……というかあのときは話に夢中で、言われたことを思い出せなかった。
てっきり怒られるかと思っていたのに。
「怒らないんですか?」
恐るおそる聞くと彼は苦笑した。
「あれはダメ元で言っただけだからね。あかりはとっても優しい子だから、緑川にいいようにされちゃうだろうなって思ってたし。だから別に怒ってないよ。なるべくしてなったなって思ってるだけ」
よかった。本当に怒っているわけではなさそうだ。
麗花さんと別れてから泰明さんと会うまでずっと緊張していたから、なんだかどっと疲れが出てしまう。
「そういうわけで、明日その方に会いに行ってきます」
「え…………明日?」
「はい。麗花さんが言ってたんですけど、もしかしたらお見合いの日が早まるかもしれないんです。だから急がないといけなくて……場所は、いつも行く……デパートの……」
「あきちゃん、どうどう。あかりちゃんが怖がってるわよ」
それまでの穏やかな気配が一転、喋るほどに青年から不穏な空気が流れてくる。
向けられた瞳は真っ黒だ。
それはいつもの黒曜石のような美しい黒じゃない――澱みを感じる虚のような黒だった。
「あかり。それは駄目だよ」
「な、なんでですか?」
「屋敷の関係者が誰一人村に残っていないのは問題があるでしょ。姫様……せめて父さんが戻ってきてからにして。次の土曜日には戻ってくるから、そしたら僕と一緒に行こう。いいね?」
有無を言わさない口調でそう言うと青年が箸を取った。
ご飯を片手にブリの照り焼きやゼンマイのお浸し、春菊のゴマよごしをせっせと口に運び、綺麗な食べ方ながらものすごい勢いで料理が減っていく。
いや、見ている場合じゃない。わたしは慌てて首を横に振った。
「待ってください、それじゃ遅いんです。麗花さんとも約束してますし、それに――」
「僕とは約束してくれなかったのに」
むすっとした声にさえぎられて反射的に黙る。
彼はお吸い物のお椀を置くと不機嫌そうな目でじっとこちらを見つめた。
「僕だって前に言ったよね。姫様のおこもりのとき、一緒にデパートに行こうって。でもあかりはおこもりの間、村の外に行くのはちょっとって言ったよ。なんで緑川はよくて僕は駄目なの? ねぇなんで?」
どこか幼い言い方にぽかんとする。
葉月ちゃんがブフッと噴きだし、それをじろりと睨んでから泰明さんがまたこちらを見る。
「なんでって……でもそれとこれとは事情が違いますし。わたしは遊びに行くわけじゃなくて大事な用があって」
「じゃあ屋敷に用がある人のことはどうするの? おこもり中でもお茶渡しとか仕立ての受注とかはあるでしょ。そういう人たちのことはほっとくの? それだって世話役の大事な仕事なんじゃないの?」
「それは……でも、明日は雨予報ですから。雨の日に屋敷を訪ねてくる人はまずいません。だからそういう意味でも、チャンスは明日しかないんです」
突然の質問攻撃になんとか答えつつその目を見つめる。
確かに彼の言う通り、泰明さんにはものすごく義理を欠いてしまっている。わたしだって逆の立場だったらすごくショックだと思う。
それでもこれは緊急事態なのだ。本当に申し訳ないとは思うけど、今回だけは見逃してほしい。
でも、青年のトゲトゲしい空気は変わらなかった。
料理に視線を戻すと食事を再開してしまう。
「とにかく駄目だよ。雨が降ったら地面もぐちゃぐちゃになるんだから、足がよくないのにわざわざ足元の悪いなか出かけることはないでしょ。そもそも一人で行くとか……人攫いにでもあったらどうするつもり? 絶対駄目だから」
「な……んで、泰明さんがそんなこと言うんですか? 泰明さんはわたしのお父さんじゃないし姫様でもないしご当主でもないし。なんでわたしにダメって言うんですか?」
気がつけば口答えしていた。
泰明さんが顔をあげる。は? と言わんばかりの視線にまたカチンとくる。
これは泰明さんと姫様のためでもある。
こっちは二人の仲を邪魔するどころか少しでも早く良くなるようにしたいだけなのに。
それに心配してくれるのは嬉しいけど、大人に対する言葉とも思えない。
もちろんわたしは泰明さんよりずっと年下だ。でもちゃんと成人しているし、子ども扱いはやめてほしい。
「わたしは雨なんて平気です。人攫いだってありえません。こっちはもう子どもじゃないんですよ? 心配しすぎです」
「駄目。この話は終わり。明日出かけたら怒るから」
「おこ……それならわたしだって怒りますよ!」
取りつく島もないとはこのことだ。
というか、怒られたくなければ出かけるなって……その言い方もなんなのだ。
カーッと頭に血が上る。一方の青年は半眼で呆れたようにボソッとつぶやいた。
「もう怒ってるじゃないか」
「だって! だってそれは泰明さんが一方的に――」
「はいはーい。その辺でおしまいにしましょ」
パンパン、と葉月ちゃんの手が鳴る。
「いいじゃないの。あかりちゃんの好きにしたら」
「姉さん!」
「あんたあかりちゃんが絡むとほんと駄目ね、さっきから悪手ばっかり。見てて恥ずかしくなっちゃう。その幼児退行、いい加減にしなさいよ」
「…………っ」
泰明さんの顔にさっと朱が走る。
うつむく直前に見えた表情は恥ずかしそうで悲しそうで――ふいに冷たい風が吹いたように、熱くなっていた頭が急速に冷えていった。
冷静になればなるほど自分の言ったことを後悔する。
コトン、と。
葉月ちゃんのお猪口を置く音が妙に大きく感じられた。
「あかりちゃんも。あきちゃんの誘いを断ってるってことは、あかりちゃんだって姫様のおこもり中に出かけることはよくないことだって思ってるのよね」
「……はい」
「それはどうして?」
やさしげな問いかけが胸を刺す。
目をそらしていたことを真正面から突きつけられて、とっさに言葉が出てこない。
「あ、機密事項なら私に言わなくていいわ。心の中で答えてちょうだい」
「……はい」
屋敷関係者がいないなかで外出を控える理由。
漠然と抵抗感がある、じゃなくてきちんとその理由を突き詰めると――屋敷を危険にさらすことになるから、ひいては姫様を危険にさらすことになるから、ということに気づく。
屋敷は単なる住居にとどまらず、姫様の――山神の明確な棲み処になっている。
この村において屋敷に行くことはある種の詣でになっていた。
それが無意識にであっても、みんながこの場所へ信仰をよせることで、それが姫様の力となる。
つまり屋敷は姫様のご神体や祠と並ぶもの。ある意味神社のようなものなのだ。
屋敷は姫様の結界で守られているけど、それは中への侵入を阻むものであって放火や外からの破壊行為を防ぐものじゃない。
例えば屋敷が焼けてしまった場合、それは民家が燃えるのとはわけが違う。
みんなの潜在化にある信仰対象を失うことになる。
それになによりこの屋敷は姫様と泰治様の思い出の詰まった棲み処。姫様だって人間でいうところの心神喪失、なんてことにもなるかもしれない。
神霊は肉の器を持たない自我ある強大な魂だという。
つまり精神面に大きな異変があれば即座にその身に異変が現れてもおかしくない。
姫様のおこもり中はわたしが日中ずっと屋敷にいるし、夜間不在にしていてもありがたいことに倉橋様の手配で屋敷まわりの警戒が行き届いている。
この夜間警備を日中にもお願いできればいいのだけど、今は許可を出せる倉橋様や次期当主の泰名さん、前当主のご隠居様さえもいない。
わたしまでいなくなったら誰も屋敷を守る人がいない……。
どうしよう。どうしたらいい。
田上さんのところへ行きたい気持ちと行っちゃいけないという気持ちが何度も浮き沈みして、なんだか目までぐるぐる回りそうだった。
「ねぇあかりちゃん。世話役は加加姫様のおこもり中に村の外に出てはいけない、みたいな決まりはあるの?」
葉月ちゃんがはじかみを噛みながらふとしたように訊ねてきた。
わたしは首を横に振る。
「いいえ、それはありません。お父――先代世話役も姫様のおこもり中に村の外へ出ることはありましたから」
「それはどうして?」
「仕事です。拝み屋として依頼を受けてのことでした」
ただ、その時はお母さんがいつも屋敷にいた。
泰明さんが箸を置くなり葉月ちゃんを鋭い目でにらむ。
彼女はそれに気づかない様子でお猪口を取りあげた。
「私、明日はちょうどレモンの定休日なの。でも特に用事もないのよね」
「じゃあ姉さんがあかりについてってあげてください。僕の代わりに」
「あんたちょっとはあかりちゃんを信用したら? この歳で一人歩きは許さないとかどんだけ狭量なのよ。私はね、明日は雨だしずーっとゴロゴロしてるつもりなの」
「ゆっくりできそうでいいですね」
なにげない世間話がはじまって、わたしもちょっと気がまぎれる。
彼女は山椒の佃煮を箸でつまむとどこか意味ありげな視線を投げかけてきた。
「ちなみにゴロゴロするのはどこでも構わないのよね~」
「姉さん、やめてください」
「私の父も弟も屋敷の関係者だし~。たまには広い縁側で雨音を聴きながらくつろぐのもオツよね~」
「姉さん!」
険しい表情の青年をニヤニヤ眺めながら葉月ちゃんがわざとらしく言う。
ふいにハッとした。それは曇天から一筋の光が差したかのようだった。
「あの、それって……もしかして?」
「あかり、聞いて」
泰明さんの硬い声に意識を引き戻される。
わずかに身を乗り出してこちらを見る目はとても暗い。
「先代殿は仕事で家を空けたんだ。君は仕事じゃなくて私用で村を出ようとしてる。世話役としての責任を放棄すればそれなりの処罰もある。まわりの信頼だって地に落ちる。それでもいいの?」
「それじゃあかりちゃん、私の洋服を仕立ててくれるかしら。ロングのフレアスカートとチョッキをお願い。どちらも色はラベンダーで。サイズは以前仕立ててもらったときと同じね。それから生地はデパート近くの末廣洋品店のものがいいかしら。ほら、あそこは安いわりに品質がいいから。次の土曜日までにはできる?」
間髪入れずに葉月ちゃんが口を挟む。
泰明さんが天を仰いだ。
「葉月ちゃん……」
「拝み屋が世話役の仕事のひとつなら、その代わりとなった仕立て屋だって立派な世話役の仕事よね」
パチリと片目をつぶる姿に胸がいっぱいになる。
泰明さんはなにも言わない。ただ唇を引き結んでわたしをじっと見ていた。
「でもね、あかりちゃん。これだけは言っとくわね。あなたは加加姫様の大事なお嫁さんで大切な娘さんでもあるの。大人子どもに関わらず、出かけるときは事前に家族にどこに行くか言うものでしょ?」
葉月ちゃんがふいに声を落として真剣な目をする。
そこに笑みはない。
「加加姫様に断りもなく村を出たら、あの方はすごくお怒りになると思うの。彼女が不在のときとあればなおさらね。世話役への咎めはなくても、あなた自身にお仕置きがあるかもしれない。それでも大丈夫?」
「お仕置き……」
そうか。そういうこともあるかもしれない。
でも――わたしだけが受ける罰なら、問題ない。なにをされても構わない。
わたしは葉月ちゃんに向き直ると姿勢を正した。
「葉月ちゃん。仕立ての依頼、お受けします。それから明日……わたしが村に不在の間、屋敷に滞在していただけませんか? 仕立てのお代は屋敷の留守を預かっていただけたら、それで結構ですので」
「オッケーよん。やったー儲けちゃったー」
「……ごちそうさまでした。行ってきます」
葉月ちゃんが朗らかに笑う横で泰明さんが手を合わせる。いつの間にか彼の食器はすべて空になっていた。
こちらには目もくれずに立ち上がると、そのまま座敷を出ていこうとする。なにか声をかけたいけど、全身でそれを拒んでいるのがわかった。
「さ、あかりちゃんも食べなさい。あれは気にしなくていいから」
「……はい。いただきます」
閉じた襖を見つめながら、あらためて手を合わせる。
箸をつけた焼き物やお吸い物はちょっと冷めてしまったけどおいしかった。
ちゃんと味を感じられることに安心するけど、本当にこれでよかったのかなという思いもちらちら頭をよぎってしまう。
でももう、決めてしまった。
こうなったらあとは動くだけ。明日に備えてしっかり食べよう。
わたしは葉月ちゃんと会話しつつ、せっせと箸を動かし続けた。




