96.嵐を呼ぶ女(三)
今日はぶ厚い雲が太陽を隠しているせいで縁側も暖かいとはいえなかった。
それどころか麗花さんの話を聞くほどに心も凍えそうになる。
彼女の結婚観は、わたしには受け入れがたいものだった。
でもわたしの結婚観もまた、彼女には受け入れがたいのかもしれない。
自分の考えはどうやら幼くて潔癖、あるいは夢見がちらしい。それは恋愛小説を読むようになって少しずつわかってきたことだった。
でも――それでも思わずにはいられない。
夢を見てはいけないのか、理想を追いかけてはいけないのかと。
お互い割り切っていればいいだとか、そんなものはよくわからない。
私は泰明さんが好きだ。だから泰明さんが愛のない結婚をしてしまうのは嫌だった。
わたしのわがままだけど、単純に、ただそれだけだった。
「麗花さん、お願いがあります」
わたしは正座のまま座布団を降りると、正面の麗花さんに向かって背筋を伸ばした。
一度その灰緑色の目を見つめてから、床に額がつきそうなほど低く頭を下げる。
「どうか泰明さんとの結婚は諦めていただけませんか? どうか、この通りです。お願いします」
一応、泰明さんが承諾しない限り……両者の同意がない限りは結婚なんてできないはず。
できないはずだけど――麗花さんだけでなく倉橋様もこの縁談には乗り気だった。泰明さん以外の人がみんなこの結婚を望んでいるなら、たった一人の意見なんてどうにでもできてしまうかもしれない。
脅しや懐柔だってしてくるかもしれない。
「あかりさん……」
「彼にはずっと昔から好きな方がいらっしゃいます。彼はその方と結ばれたいと強く願っていて、お見合いにも乗り気ではありません。今回お話を受けたのはお父上から言われて仕方なく――」
「ええ、わかっているわあかりさん。わかったうえで私はここに来たの。この意味がわかるかしら」
穏やかな声に唇を噛む。
両肩を押されるまま上体を起こすと、彼女はわたしを慰めるように腕を優しくさすった。
こちらを見つめる目はどこか悲しげで、同時になにか眩しいものを見るようでもあった。
「倉橋君はいいわね、愛されてて。私もそんなふうに一途に愛されてみたいわ。そうすればきっと、どんな障害だって乗り越えられるのに……」
ささやくようなその言葉に天啓を受けた気がした。
泰明さんと麗花さんは学生時代、恋人を演じていた。
そう、演技だ。つまり本当に好きあっていたわけじゃない。
それは寄ってくる異性を退けるための方便だった。なぜなら二人にはそれぞれ別に愛する人がいて――。
「麗花さん! 確か麗花さんにも好きな方がいらっしゃるんですよね? その方のことはいいんですか? 一緒になりたいって思わないんですか?」
思わず勢い込んで言うと美しい顔がさっと翳った。
それだけで縁側まで暗くなってしまうようだった。
「それは、もちろんよ。私だってできることなら一緒になりたいと思うわ。でも……私だけそんなことを言っても仕方がないでしょう?」
「それは……どういうことですか?」
彼女はわたしの肩から手を離すと膝の上で両手を組んだ。
うつむき加減の顔に弱々しい笑みが浮かぶ。
「私の可愛い秘密の恋人。何年も想いを通わせて、これまでたくさん愛を交わして、誰よりもお互いをわかってると思ってた。なにがあっても必ず一緒になってみせるって誓ったわ。……でも、あの人はそうでもなかったみたい」
麗花さんの顔があがってドキリとする。
その目には涙がたまり、灰緑色の瞳がうるんで光っていた。
「私のことが嫌いになった、だから別れよう。会うのはもうこれきりにしようって言われちゃったの」
「そんな……なんで……」
「なんでかしらね……」
吐息混じりの声は途方に暮れているようだった。
麗花さんはゆるゆると顔を庭にめぐらせて遠くをじっと見つめる。
瞬きをこらえる姿は痛ましくて、なのに胸を打つほど美しかった。
「なにを聞いても嫌いになったの一点張りで、なにも教えてくれないの。とても納得できるものじゃないから家や職場に押しかけたりもしたけど、冷たくあしらわれて取りつく島もなし。それでも押しかけてたら頬をぴしゃりとされちゃって……それ以降は会ってないわ」
「ひどい……」
思わずもらすと彼女はくすっと笑い、ひどいわよねぇとつぶやいた。
景色を見つめる目に、ふいに強い光が宿る。
「でもね、私にはわかるの。嫌いになったなんて絶対嘘。なにか理由があるんだわ。……でもそれを知りたくても全然相手にしてもらえないし、さすがの私もちょっと疲れちゃって」
ふたたび麗花さんの声から力がなくなる。
「倉橋君とお見合いするって知ったら、少しは会って話ができるかと思ったのだけど……どうやらそれも無理そうね。私たち、きっともう駄目なんだわ」
綺麗な横顔に一筋の涙が伝う。
悲しみと憂いに満ちた声に、表情に――麗花さんの本音を知った気がした。
彼女も最初から愛のない結婚を望んでいたわけじゃない。本当は愛する人と一緒になりたかったのだ。
お見合いしようとしたのも相手の気を引くため。どうしてももう一度振り向かせたくて――でもそれも叶わなくて。
きっと胸が張り裂けそうになるくらい、つらくて悲しかっただろう。
今もこうして涙を流す彼女に、なにかしてあげられることはないか。
そう思わずにはいられなかった。
「麗花さんは、まだその方を愛していますか?」
「もちろんよ。未来永劫、私はあの人のもの。そしてあの人は私のもの。この愛に終わりなんてない。だからこそ一緒になれる方法をずっと模索してきたのに……」
麗花さんの言葉の端々から察するに、どうもそのお相手との結婚は道のり険しいものらしい。
そういうのも相手の心の移り変わりに影響しているかもしれない。
「なにがあっても、その方と一緒になりたいですか?」
「えぇ、私はそう思ってるけど……」
麗花さんがわたしを不思議そうに見つめてくる。
その灰緑色の瞳に、ふいに期待の光が浮かぶ。
「麗花さんのおっしゃるように、相手の方にはなにか事情があるのかもしれません。あるいはなにか誤解があるとか。とにかくお二人が話をしないとなにも始まりませんよね」
「えぇそうね、でもそれは――」
「よかったら、わたしに任せていただけませんか?」
麗花さんの目が丸くなった。
わたしも彼女の力になってあげたい。こんなにも誰かを一途に想う彼女を応援したい。
もちろんそこに打算的な考えがないわけじゃない。
麗花さんとお相手がよりを戻せば、泰明さんは晴れて無罪放免……という言い方は変だけど、とにかくこの件から解放されるはず。
人助けができて泰明さんと姫様の障害も取り除けて、これぞまさに一石二鳥。
「どこまでできるかはわからないですけど、わたしがお二人の間を取り持ちます」
「まぁ……っ」
麗花さんが目をキラキラと輝かせてわたしの両手を握ってくる。
でもすぐにハッとなって、首をぷるぷる横に振った。
「いいえ、やっぱり駄目よあかりさん。こんなことにあなたを巻き込んだら倉橋君に怒られちゃうわ」
「そこは大丈夫ですよ。だって麗花さんがその方と一緒になれたら、泰明さんだって自分の好きな方と一緒になれるかもしれないってことですし。だからこれは、麗花さんだけじゃなく泰明さんの応援にもなるんです」
「でも……悪いわよ」
「平気です。それにこれはわたしが勝手にすることですから。だからどうか、わたしにも麗花さんのお手伝いをさせてください」
劇的な悲恋の物語――それはそれで悲しくも美しいけど、現実の世界ではやっぱり大円満がいい。
彼女たちの恋を成就させて、泰明さんも含めてまるっと事をおさめるのだ。
麗花さんは顔を紅潮させると、いきなりわたしに抱きついてくる。
わたしもその背中を優しくなでた。
「素敵! あぁっ、ここに来てよかったわ! 本当にありがとうあかりさん。なんとお礼を言ったらいいか……」
「あは、まだうまくいくと決まったわけじゃないですけどね」
そう、うまくいくかどうかはわからない。
相手の人が本当に麗花さんを嫌いになってのことだったら、その時点で終わる。
そのときは――そのときだ。頑張って別の策を考えるしかない。
「ありがとうあかりさん。あなたはなんて優しい人なのかしら。まるで恋のキューピッドだわ」
甘える猫のように頬ずりされながら、ふと刺すような強い視線を感じた。
麗花さん越しに縁側の端を見ると、岡部さんが険しい目つきでこちらを見ていた。
え、と思う間もなく視線が外される。
その横顔はどこか強張っているようだった。




