95.嵐を呼ぶ女(二)
「お待たせ、二人とも」
目の覚めるような美女のうしろに控えていたのは、見るからに屈強そうな男性だった。
縦にも横にも大きいけど、背広が窮屈そうに見えないのは仕立てがいいからなのだろう。短く刈り込んだ髪に広い額、ギョロリとした目が印象的だ。
「あかりさん、こちらは私の付き人をしている岡部よ。ちょっと怖そうに見えるけど、とっても優しい人だから安心してね。岡部、ご挨拶を」
「岡部と申します」
強面の男性――岡部さんは頭を下げると、それきり直立不動になる。
巌のような厳しい顔つきはまるで揺るがない。
「岡部さん。いざというときは彼女を止めてください。どうかお願いします」
青年が頭を下げると彼は一瞬だけそちらを見て、またすぐに視線を戻す。
なんの返答も色よい素振りも見られないけど、泰明さんにはそれで十分だったらしい。彼の表情はわずかにゆるんでいた。
「あかり。僕はもう行くけど、危ないと思ったらすぐに大きな声で叫ぶんだよ? 必ず助けに来るからね」
「まぁひどい。あなたさっきから好き勝手言ってくださるけど、私のことをなんだと思っていて?」
「色狂いの死体愛好家」
色狂い……死体愛好家……。
日常では決して聞かない言葉に頭が追いつかない。
「あら、私は生きてる人間のほうが好きだけど」
「腐乱した遺体の写真を見て興奮する奴がなにを言う。神経を疑うね」
鼻で笑う青年に、彼女も相手を馬鹿にするように笑う。
正面から向き合う二人はお互いを嘲笑しながらもどこか楽しそうだった。
「あれは九相図を実写で表現した芸術品よ。本物を用いたからこそ受ける衝撃と感動は計りしれないの。朽ちて変わっていく様は凄惨でもそこには究極の退廃美がある……そして死を直視することで世の無常、儚さを真に理解することもできる。それをおわかりいただけないなんて残念だわ」
「君とは一生わかりあえなくて結構。あれを芸術品と言いきる時点で君は死者を冒涜しているし、審美眼も相当いかれてる。他人の治療をする前に自分の治療をしたほうがいい」
「心配してくださってありがとう。でもあなたこそご自分の心配をなさったら? 正常なふりが得意な異常者さん」
「別に君を心配しているわけじゃない。君が捕まったときにこっちに飛び火したら嫌だから言ってるんだ」
「その言葉そっくりお返しするわ。せいぜい捕まらないように頑張ってねダーリン」
過激な言葉の応酬をする彼らを見て、なんだか少しだけもやっとしてくる。
泰明さんの顔つきや態度から警戒は感じられるけど、同時に打ち解けている印象もして。彼女とはとても親しい――気安い仲なのだとわかってしまう。
それに二人が並んだ姿は圧巻だった。
清艶で雅やかな美しさのある泰明さんと、鮮麗で華やかな美しさのある麗花さん。
対照的な美しさを持つ二人がいる周辺だけ空気が違う。まるで神聖な場所のように、にわかには近づきがたい崇高な雰囲気が漂っている。
背丈もぴったりの美男美女。二人並んだところを写真にすれば魔除けのお守りにもなりそうな――。
「あかり?」
ふいに目の前で手が振られて我に返る。
「す、すみません、つい見とれてしまって……。美人さんが揃うと迫力ありますね」
恥を忍んで正直に答えると、泰明さんは渋面になり麗花さんは目と口を三日月にして笑う。
「この子は美人に弱いのねぇ」
「緑川……」
「はいはい、ちゃんとお行儀よくするわよ。ところでダーリン、あなたにもお話ししたいことがあるの。今夜一緒に食事でもいかが? 車でお迎えにあがるから――」
「話は聞くが食事はしない」
麗花さんの誘いの言葉に胃のあたりがすっと冷える。
続いた泰明さんの言葉にほっとしつつも、もやもやは一層大きくなった。
「八時、南の村入口」
「よろしくてよ」
「……話が終わったらすぐに帰れ。長居はするな」
泰明さんはわたしにちらりと視線を向けると、倒れていた自転車を起こして門扉を出ていった。
青年の姿が見えなくなると美女は大げさにため息をつく。
「本当にずいぶんと過保護なのねぇ。あの人があんなに感情的になるなんてびっくり」
麗花さんはつぶやきながらこちらを振り返った。
その表情は彼に向けていたものとは違い作り物めいた完璧な笑顔だった。見る人の警戒心を解くような柔らかい笑みに、泰明さんから注意されたことを思い出す。
少しだけ背筋が寒くなった。
「さぁ、あかりさん。邪魔者もいなくなったことだし、あらためてお話いいかしら?」
「はい。よろしければ縁側へどうぞ。今お茶をお持ちします」
麗花さんと岡部さんには縁側の沓脱石のところからあがってもらい、用意したお客さん用の座布団を勧める。天気が悪くて寒いこともあり、ガラス戸も閉めておく。
お茶を用意して戻ってくると座布団のひとつが――岡部さんが縁側の端のほうに移動していた。
とりあえず主人の麗花さんにお茶を出してから岡部さんにお茶を出す。
正座する膝の横に茶托を置くとわずかに会釈してくれたものの、それきり庭に目を向けて動かなくなってしまった。
「ええと」
「私が離れて座るよう命じたの。だから彼のことは気にしないで。ここでの話も一切口外しないから遠慮なく喋って大丈夫よ。ほら、いらっしゃいあかりさん」
こちらの戸惑いを察知した麗花さんに呼び戻されて、わたしはとりあえず一礼してから麗花さんの隣に落ち着いた。
「突然の訪問でごめんなさいね。どうしてもあなたと一度お話しがしたくて、だからこうするしかなかったの」
先ほどまでのはしゃいだ空気は消えていた。
真摯な気配に背筋が伸びる。
「まず私が何者かというところだけど……。倉橋君とは共に大学で医学を学び研鑽を積んだ間柄。そして彼のかつての恋人で、今度お見合いをする者よ」
そこで彼女は悪戯っぽくほほえんだ。
「いうなれば彼の未来の花嫁ね」
「……そうですか」
確定事項として語られる言葉になんとか返事をする。
動揺しないでいられるのは、泰明さんがそれを認めていないから。彼女の言葉は一方的な思い込みに過ぎない。そう自分に言い聞かせる。
美女がくすくす笑った。
「驚かないのね。その辺のことは聞かされているのかしら」
「はい、お聞きしました。お二人が偽りの恋人であったことも」
「あらそう。そのことも知っているのね。それなら話が早いわ」
麗花さんがまっすぐにこちらを見つめる。
その不思議な美しい瞳を、わたしもじっと見つめ返した。
「私とあの人は確かに本物の恋人じゃなかった。でも私はあの人を夫に迎えたいと思っているの。どうせ夫を迎えないといけないなら、あの人以外に適任はいないから」
そこでふわりと優しく笑う。
でもその目の奥は冷めていた。
「彼に愛する人がいることは私も知っているわ。だから私との結婚生活はうわべだけで結構。書類上、それに立場上妻として振る舞わせていただくことにはなるけど、別に私を愛してほしいとは思っていない。大いに他の女性を愛したらいいわ」
麗花さんが言葉を切って身体を傾けてくる。
目の前に迫った美しい顔が艶然と笑んだ。蜜のしたたるような甘い笑顔に見惚れる一方で、頭のどこかで警鐘が鳴った気がした。
「つまりね、私はあなたに安心してねって言いにきたの。彼を取っちゃうことになるけど、本当の意味で取るわけじゃないから。さすがに彼には東京に来てもらう必要があるけど、彼だけじゃなくてみんな東京に来たらいいわけだし――」
「それはダメです」
思わず話をさえぎる。
姫様はこの地を離れられない。泰明さんについて行けるわけじゃない。
――いやそもそも、結婚はそういうものじゃない。
「そんなの偽装結婚じゃないですか。それって偽装の恋人とはわけが違いますよね? なにかこう、犯罪にもなるんじゃないですか?」
「そこは安心してちょうだい。そうならないようにうまくやるから」
「うまくって……」
麗花さんに楽しげに笑いかけられて二の句がつげない。
葉月ちゃんもそうだったけど、なんでそう割り切れるのか。わたしにはどうにも理解しがたい。
それでも説得を試みる。
「あの、そもそも結婚ってそういうものじゃないですよね? これからの結婚は誰しもが自由に恋愛をして本当に好きだと思える人同士でするべきものです。もちろん、まだまだお見合いが当たり前な世の中ですけど……だとしてもお互いが愛情を持ちよることで温かい家庭を築いていけるわけで。最初からそういう態度はどうかと思いますけど」
「あら。愛情を持ってしまっていいの?」
「っ、それは……」
言葉に詰まると、美女はくすくす笑う。
「あかりさんてずいぶん美しい考えをお持ちね。まっすぐできらきら輝いて、この目が潰れてしまいそう。あの人はこれに耐えられるのかしら」
「……もしかして馬鹿にしてますか?」
「あらぁ、そんな風に聞こえたのならごめんなさい。でもお耳は悪くないようね」
麗花さんは笑みを崩さない。
「ねぇあかりさん。理想と現実は違うもの、綺麗事だけでは世の中回らなくてよ? 世間には当人同士が愛し合っていても結ばれるのが難しい場合もあるの。例えば今回のこともそう。政略結婚、偽装結婚、契約結婚……呼び方はいろいろあれど、上流階級になるほどそういう形を取っている夫婦は多いわ。かくいう私の親もそうだし」
「な」
「あの人たちは業務の一環で子作りもこなすビジネスパートナーってところかしら。それぞれ愛人も子どももいるけど、お互い様ってことで今のところ問題もなし」
「は…………?」
思わず絶句する。一方の美女はなんでもないことのようにケロリとしている。
わたしの感覚がおかしいのか、それとも彼女が――彼女のいる世界がどこか麻痺しているのか。
麗花さんはわたしを見るとずっと浮かべていた笑みを消した。
「大人の世界はね、打算的でしがらみも多くて、とっても複雑なの。それに人の数だけたくさんの考え方がある。つらいだろうけど、どうかわかってちょうだい」
麗花さんはどこか悲しそうに声を落とす。
衝撃から立ち直っても、わたしはしばらく口を開くことができなかった。




