94.嵐を呼ぶ女(一)
それは姫様のおこもりがはじまって二日目のことだった。
姫様と九摩留のいない静かな屋敷で納戸の整理整頓をしていると、遠くから女性の声が聞こえてきた。間を置かずに玄関の戸を叩くようなにぎやかな音も聞こえてくる。
「はーい、今行きまーす!」
とりあえず声を張り上げつつ、心の中ではて? と思う。
村の人はみんな玄関じゃなくて縁側のガラス戸を開けて声をかけてくることが多い。屋敷に来慣れてない人だろうか。
納戸からお勝手に出ると、ガラッと玄関の開く音が聞こえた。
「あらやだ不用心。ごめんくださーい、どなたかいらっしゃいませんかー?」
「すみません、お待たせしました! 今行きますから決して中には入らないでください!」
まずいと思いつつ急いでお勝手から土間に身を乗り出す。
玄関の向こうに立っていたのは見知らぬ長身の女性だった。
逆光で顔はよくわからないけど、わたしを見てパッと気配が華やぐ。
「まあ、巫女さん! 巫女さんだわ! なんて可愛らし…」
はしゃぐような声とともに一歩なかへ入り、そのままくるりと踵を返して出ていった。
「あら?」
すぐに振り返って、彼女は首をかしげながらまた入ろうとする。
「あ、ダメですダメです! それ以上はダメです!」
わたわたと土間の草履をつっかけて女性のもとに向かうけど、間に合わなかった。
彼女が四回目の立ち入りを試みた途端、バヂッ! と大きな破裂音がした。
女性が見えない手に突き飛ばされたかのように尻もちをつく。
「ああぁ……間に合わなかった」
屋敷には姫様の結界が張ってある。
縁側には誰でも入れるけどそれ以外の場所へ入るには姫様かわたしの許可がいるのだ。
許可なしに土間や部屋に入ることはできず、それでも懲りずに入ろうとすれば弾かれる仕組みだと聞いていた。実際に弾かれた人を目にするのはこれが初めてではある。
「すみません、大丈夫ですか? お怪我はないですか?」
尻もちをついたままポカンとしている彼女に駆け寄って、思わず固まる。
さっきは暗くてよくわからなかったけど、屋外で見るその女性は息を飲むほど美しかった。
少し彫りの深い顔にゆるやかに波打つ鳶色の髪、それに灰色っぽい大きな瞳が印象的で、一目で生粋の日本人ではないことを悟る。
「あー……えー……。は、ハロー?」
「すごいわなんて不思議なの! こんなこと生まれて初めてよ!」
ドキドキしながら英語であいさつすると綺麗な日本語が返ってきた。
それだけでどっと緊張が解ける。
「え、と。大丈夫ですか? どこか痛いところはありませんか?」
あらためて声をかけると美女がこちらに顔を向ける。目が合うと華やかな顔立ちにふさわしい魅力的な笑みが浮かんだ。
彼女の背後で大輪の花々が咲き誇るような錯覚を受けて息が止まりそうになる。
「あらごめんなさい。どうもありがとう」
そう言うとすっと手が差し出される。自然な動きにつられてわたしもその手を取りひっぱりあげた。
立ち上がった女性はわたしよりも背が高い。村の女性で一番背の高い葉月ちゃんと同じくらいかもしれない。
「あ……ちょっと失礼しますね」
見るからに高価そうな仕立てのコートやロングスカートには汚れがついてしまっていた。
手で軽く叩きながら目立つ汚れを落としていく間、彼女は軽く腕を広げて佇んでいた。
途中で一度目が合い、彼女の形のいい唇が優雅に弧を描く。女王様のような気品と美しさに顔がカァッと熱くなった。
「はい、どうもありがとう。もう大丈夫よ。それで、あなたは倉橋あかりさんかしら?」
「あっ。はい、そうです。失礼ですがあなたは……?」
「ご挨拶が遅れてごめんなさい。私は緑川麗花と申します。どうぞ麗花とお呼びになって、可愛いウサギちゃん?」
肩に、それから頬に手を添えられる。
思わず見上げた先では宝石のような瞳が輝いていた。
灰色と思った瞳はよく見ると緑がかっていて、長いまつ毛が瞬くたびに不思議な色合いになる。
「すごい……綺麗な目……」
「まぁっ」
思わずつぶやくと白い頬が薔薇色に染まった。それからとびきり美しい笑顔が咲く。
「そんな風に言ってもらえるなんて嬉しいわ。私たち、とっても仲良くなれそうね」
急に顔が近づいたと思ったら頬と頬が触れあってちゅ、と音がした。思わず固まると反対側も同じようにされてしまう。
こちらに向き直ってにっこり笑う女性を呆然と眺めているときだった。
カァ! と思いがけないほど近くでカラスの鳴き声がした。
反射的に声のほうを見て、ぎょっとする。
いつの間にか茅葺屋根の棟にそってカラスが一列に並んでいた。
棟だけでなく屋根のあちこちにもカラスがとまっている。そのすべてがこちらをじっと見ているようだった。
「なにかしら……なんだか気味が悪いわね」
女性――麗花さんもカラスたちを見て声をひそめる。
でもわたしは気味の悪さ以上に気になることがあった。
「な……なんでカラスがここに……?」
わたしのつぶやきに応えるように、カァ! とカラスがまた鳴いた。
一羽がわたしの足元に舞い降りる。それをきっかけに、屋根にいた十数羽のカラスたちが一斉にわたしたちのまわりを取り囲んだ。
カァ、カァカァと数羽が鳴きだす。
その声はすぐに他のカラスにも伝染して、ぞっとするほどの大音声になっていく。
「ね、ねぇ。この子たちってあなたのボディガードかなにかかしら? できればちょっと下げていただきたいのだけど」
「ち、違います。これはわたしもわからないです……っ」
大量のカラスに取り囲まれて、思わず麗花さんと身を寄せあう。
こんなことはわたしも知らない。なにも聞かされてない。
屋敷は姫様の領域で、この敷地内に鳥や獣が入ってくることはまずない。野生に生きる彼らは大蛇でもある姫様を人間以上に恐れているからだ。
じりじりと近づいてくるカラスに一層身体を密着させていると、ガシャン! と大きな物音がした。
カラスが黒い煙のように一斉に飛び立っていく。
「緑川!」
声のほうを見やると泰明さんが門扉から走ってくるところだった。
往診の途中なのか、うしろでは黒い鞄を括りつけた自転車が倒れていた。
「あらダーリン、久しぶり!」
「だ…………」
ダーリン。
外国映画でおなじみの恋人の呼び方。
この人、今、泰明さんをダーリンって言った……?
麗花さんの表情はとても華やいでいる一方で、泰明さんは苦虫を嚙み潰したような表情をしていた。
すぐにわたしと彼女の間に身体を割り込ませると、まるでこちらをかばうようにうしろへ数歩下がる。
「その言い方はやめろ緑川。今すぐここから出ていけ。一刻も早くとっとと出ていけ」
いつもは落ち着いている彼が珍しく焦っている。やや荒い語気に機嫌の悪さも感じられる。
でもそれを向けられた美女はまるで意に介していないようだった。
フン、と鼻を鳴らすと呆れたような目を青年に向ける。
「どうしたのダーリン。あなたともあろう人が、まるでキャンキャン吠える犬みたいね。私、あかりさんに大事な用があってきたの。まだお話ができていないから少し待ってくださる?」
「それはよかった。君が彼女と話す必要はない。用があるなら僕に話せ。行くぞ」
キャッ! と悲鳴があがる。
泰明さんは彼女の華奢な手首を掴むと大股で門扉へ向かっていく。彼のらしくない行動にあっけに取られつつ、わたしも急いで二人に駆けよった。
「ちょっと待ってください、乱暴はよくないです! それに麗花さんはわたしにお話があるとか……まずはそれを聞かないと」
「そうよダーリン。これは女の子だけの秘密のお喋りなの。ダーリンこそ往診の最中なんでしょ? 早く患者さんのもとにお行きなさいな」
「断る。行くぞ」
「だ、ダメですよ泰明さん。とりあえず手は離しませんか? ね? ちょっと落ち着いて話をしましょ」
「あかりは屋敷に入ってて。この人のことは記憶から抹消していいから」
「そう言われましても……」
青年の手にしがみついて指を剥がそうとしてもまるでびくともしない。
ならばと、今度は麗花さんの腕を掴んで全体重を後ろにかける。
でも泰明さんの手は離れない。それどころかわたしごと引きずられてしまう。
「助けてあかりさん! 悪漢が私をさらっていくわ! きっと人には言えないあんなことこんなことをされちゃうんだわ! イヤ――――助けて――――!」
「お前本当にいい加減にしろよ……」
泰明さんがこちらを見もせずに低い声を出す。
地の底から這いあがるような声に、空気がチリッと震えた気がした。
心臓が勝手にバクバクしはじめる。
これは機嫌が悪いとかじゃない――本気で怒っている。
「や、泰明さん、お願いですから落ち着いてください。世話役は誰であろうと頼ってきた方の声に耳を傾ける義務があります。それを邪魔するのは困ります」
「こいつはろくでもない奴だ。君が耳を傾ける必要はない。僕が代わりに聞いておく」
「で、でも、あのっ、わたしの仕事を取らないでください! あとそんなに怒らないでください……!」
「お、怒ってなんか……」
青年の力がわずかにゆるんだ。
前を向いていた泰明さんがこちらを困ったように見てくる。
「あのね、僕は君が心配なだけ。あかりにはこの人に関わってほしくないんだ。もはや人っていうより魔性の類だから。さ、危ないから屋敷に戻ってて」
「そう、私は魔性……あなたの運命の女よダーリン」
「泰明さん、そういう言い方はよくないですよ。それに麗花さん、とても危ない人には見えませんけど。綺麗で優しげで、それに無礼でもありませんし」
「いやぁんあかりさんたら。見る目がお・あ・り」
「これは蝶じゃなくて毒蛾。見た目や振る舞いに騙されると酷い目にあうよ」
「でも」
「やめて二人とも、私のために喧嘩しないで! 主よ、どうか罪深き麗花をお赦しください。私の美しさが二人を狂わせてしまうのです……」
「あーもー横でごちゃごちゃと……!」
泰明さんは顔をしかめると手を離した。
すかさず麗花さんがこちらに逃げてきて、わたしは通せんぼするように両手を広げる。
彼はどこか悲しそうな目でこちらを見ていたけど、しばらくするとため息をついた。
「岡部さんを呼べ。彼女と話がしたいなら同席させろ」
「あの人は空気よ? いてもいなくても一緒だと思うけど」
「二人きりにするよりはましだ。あとはあの人の良心に任せる」
「いいわ。わかった」
そう言うと彼女は門扉のほうへ足早に向かっていった。
二人きりになると、なんとも気まずい空気が流れる。
「「あの」」
同時に声をあげて、また気まずくなる。
先に喋るように促されて、わたしは腰を深々と折った。
「先ほどは……すみませんでした。よく知らない人を優先してしまって」
「ううん、君は悪くない。僕も強引だったし。……いろいろごめん」
そんなことはないと腰を折ったまま首を横に振る。
砂利を踏む音が近づいてきて、ちょっとだけ身体が強張った。
「ほら、顔をあげて?」
優しい声に促されて恐るおそる姿勢を戻すと、泰明さんが苦笑していた。
もう怒りの気配は感じられなくて、それだけで涙が出そうなくらい安心してしまう。
彼は腕時計を見ると困ったように眉を下げた。
「時間がないから要点だけ言うね」
青年はハンカチを出すとこちらの頬を痛いくらいこすってくる。
摩擦で火が出そうだ。
「緑川は嘘は言わない。でも本当のことを言っているとは限らない。話は聞くだけにとどめて、なにかお願いされても今この場での判断はしないこと。いい?」
「そこまで警戒するような相手なんですか?」
思わず言うと、青年はくすっと笑う。
「念のため、ね。甘えてきたり泣いてみせたりするかもしれないけど、心を鬼にしてうっかりほだされないように。なにかしてあげたいと思ってもできるだけこらえて。まずは話だけ聞いて、どうするかは僕と一緒に考えよう。いい?」
「……はい、わかりました。ところであの、ひとついいですか?」
「うん。なに?」
「あの方。麗花さんて、もしかして」
「……僕の見合い相手だよ」
そう言うと門扉に目を向ける。
彼女は背の高い大柄な男性を伴って戻ってくるところだった。
長身の美女はわたしと目が合うと、どこまでも優しげにほほえんだ。
明けましておめでとうございます!
今年も週一ペースで更新していきますので、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
さて、今回から【麗花編】ということでしばらく物語パートが続きます。
加加姫と九摩留はしばしお休み。
年中行事のお話もしばしお休みです。
でも昭和中期の懐かしい物は出していく予定なので、昭和レトロでノスタルジックな空気は楽しめる…はず。
引き続きお読みいただけたら嬉しいです!




