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巫女さんの昭和古民家なつかし暮らし ~里山歳時記恋愛譚~  作者: さけおみ肴


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92.小春日和と日向水

 この数日は寒さ厳しい日が続いていたけど、今日はそれまでが嘘のような小春日和だった。


 久しぶりに閉めきっていた縁側のガラス戸を開ければ湿った土の匂いが、そして甘い香りがふんわり漂ってくる。

 庭に並んだ二本の梅の木はすっかり花を咲かせてその馥郁ふくいくたる香りをあたり一面に広げていた。


 遠くでは小鳥のかわいい鳴き声が、近くでは薪割りの軽やかな音が空に響く。

 なんとものどかな昼下がりだ。


「もうすぐ春ですねぇ」

「ああ。この香気を嗅ぐと実感するのう」


 ミシン作業の休憩がてら庭に出て大きく伸びをすると、隣の加加姫様も空を仰ぎながら腕を広げる。

 つかの間日差しを楽しんだあとで、少女は白梅へと歩み寄った。


 今日の彼女は淡紅に白の小梅が咲く着物に身を包んでいて、その長く美しい白髪と人形めいた精緻な顔もあいまって梅の精そのものに見えた。

 背伸びして枝の花に顔を寄せると濃桃の唇が艶然と弧を描く。それだけで幼い風貌に危うげな色香が漂った。


「今年もよく咲いてくれたのう。これからたっくさん実をつけて、うまい梅酒になるのだぞ?」


 弧を描いた唇がでへっと緩んだ。

 その言葉と様子に妖艶さが一瞬で消えてしまい思わず苦笑する。


「なぁあかりよ、今年は全部梅酒にせぬかえ? たまにはそういう年があってもよかろうて」

「ダメですよー。そういう年に限って夏疲れしちゃうんですから。今年も半分は梅干しと梅肉エキスにします」


 笑いながら返すと彼女は唇を拗ねたように尖らせる。

 姫様は俗世どころか人の世からもかけ離れた高貴な存在だけど、考えていることといえば食べることと吞むことがほとんど。

 それが可愛くもあり、ちょっとだけ残念でもあり。


「では梅の木をもう何本か増やさぬか? いつもすぐに飲み切ってしまうし、十年物を作れるくらいの量は欲しいのだ」

「うーん……でももう植える場所がないですから」


 庭には梅の他にもいろいろな果樹やちょっとした畑があって、残念ながらこれ以上樹木を植えるゆとりがなかった。

 それに、豊穣神でもある姫様がいるためか梅の木二本でも大量に収穫できている。それでなんとか我慢していただきたい。


「だから姫様も大事に飲んでくださいね? こないだもこっそり昼呑みしてるの、知ってるんですから」


 わたしの言葉に姫様は赤い眼をぱちぱち瞬かせる。

 それから視線を梅の枝に戻し、丸い花びらを指でちょんちょんつついた。


「あれは……花梨酒だ。喉の調子が悪かったから薬酒として飲んだのであって、別に昼呑みというわけではないのだぞ?」

「とか言って、三杯くらい飲んでませんでした?」

 

 梅酒だろうと花梨酒だろうと、そして姫様であったとしても、特別な時でない限り昼呑みは禁止。

 そして自家製の果実酒は一日一杯までという決まりになっている。

 でないとうわばみである彼女のこと、数日ですべて呑みきってしまうだろう。


「そうは言うてものぅ。わしは神だからたくさん呑まねば効果が――」

「あっちー! 今日すっげーあっちぃ、汗止まんねえ!」


 姫様の声をかき消すほどの大声が飛んできて、思わずそちらに顔を向ける。途端、心臓が大きく跳ねた。

 作務衣を着ていたはずの九摩留は上半身裸になっていた。

 浅黒い筋肉質な胸や陰影ができているお腹を見てしまい、一気に顔が熱くなる。


「ちょっと九摩留! 上着! ちゃんと着て!」


 叫びながら急いで背中を向けて今見たものを頭から追い払う。

 九摩留の裸なんて数えきれないくらい見ているはずなのに、なんだか妙に恥ずかしかった。そういえば成人姿になってからの裸を見るのはこれが初めてかもしれない。


 気配はどんどん近づいてきて、すぐうしろに立たれたのがわかる。わたしの目の前にいる姫様は九摩留の裸をなんとも思わないのか、そちらに平然と眼を向けていた。


 わたしだって彼のお姉ちゃんなわけで。

 彼女と同じくらい堂々としていたいのに、していなきゃいけないのに――でもやっぱり振り向けない。


「いや上着とか無理だから。下だってすげー我慢して着てんのに上まで着たら暑くて死ぬ。……つーかなに恥ずかしがってんだよあかりー。こっち向けよー」

「イヤですー。無理とか言ってないで早く着てちょうだい。人が来たら困るでしょ? 暑いなら水でも浴びてきなさいな」

「んじゃそうするか」


 そうするか、と言ったわりにはうしろの気配が遠ざかっていかない。どころかこちらの肩をぽんぽんと叩いてくる。


「なによもう、早くあっち行ってってば!」

「わかったって。んな邪険にすんなよ。ほら、とりあえず上着たから安心しろって」

「本当でしょうね?」


 声に振り返って固まる。

 相変わらず半裸の九摩留が琥珀の瞳をいたずらっぽく輝かせていた。


「はははっ、騙されてやんのー! ほれほれどうだこの身体。ひょろ長もやしとはわけが違うだろ? 山じゃデカくて強くてたくましいのが人気あるんだぜ」

「知らないわよ九摩留の嘘つき! 姫様も注意してやってください」


 慌てて姫様のうしろに避難するけど、少女は寄ってくる男を追い払うわけでもなくこちらを首だけで振り返る。

 赤い眼には困った色が浮かんでいた。


「そうは言うてものう、あかりや。去年までを思い出してみよ。これは夏が近づけば薪割りのたびに……いや、薪割りでなくても四六時中脱ぐと思うぞ? あきらめて今から慣れておくほうがよい」

「そんなぁ……」

「いやはや若い男の裸はよいのぅ。それに胸板厚く腹筋も引き締まってなかなかである。二の腕も形がよい。身体だけは褒めてやろう」


 ふたたび九摩留に目を戻した少女はご満悦な声を出す。

 でも褒められた男はむっとしたように眉を寄せた。


「だけとはなんだ、だけとは。他にも山ほどあるだろうが。全部しっかり褒めやがれ」

「狐のくせに鳥頭」

「けなしてんじゃねえよババア。褒めろっつってんだろ」

「わたし、あっちに行ってます」


 軽口を言いあう二人の脇をさささっと抜けて足早に屋敷へ向かう。

 すぐに重厚な気配が横に並んで、わたしは反対側に顔を向けた。


「待てよあかり。ほれほれもうちょい俺を見ろって、なぁ――」

「ついてこないで。行水の準備してきてあげるから九摩留はここで待ってなさい」

「ちぇ、なんだよつまんねーな。……でもまあ? 俺の裸にうろたえるってことは? あかりは俺を意識してるってことだよなー!?」

「してませんからー!」


 大きい声がうしろから飛んできて、こちらも負けじと声を張る。

 すると男の楽しそうな笑い声が弾けて、それがまた気分を落ち着かなくさせる。

 弟のいいようにやられているみたいで癪だけど、ここでつっかかったら相手の思うつぼという気もする。

 一瞬、太い腕や裸の胸を思い出してしまって、わたしは慌てて頭を振った。

 



 屋敷に入って、まずは囲炉裏で湯気を吹いている鉄瓶を取る。

 勝手口を出て外流しに行くと、井戸に立てかけていた大きな洗濯盥を手押しポンプの水口の下に置き、鉄瓶の中身をすべて注いだ。それからポンプの取っ手をガッコンガッコンと動かせば水口につけられた布袋から水が勢いよくあふれ出す。

 井戸水で洗濯盥を半分満たしたところで、手をつけて温度を確かめた。


「うーん……やっぱり冷たいかな」


 夏は冷たくて冬は温かい井戸水だけど、いくら今日が小春日和でも沸かしたお湯を混ぜないととても浸かれたものじゃない。

 でも鉄瓶のお湯一杯では井戸水をぬるくすることはできなかった。震えるほど冷たいわけじゃないけど、行水には冷たすぎる気がする。


「仕方ないな。日向水も使おっと」


 今日は暖かいから屋敷中の桶やバケツに水を張ってたくさん日向に並べていた。

 朝の洗濯で一度使ってはいたけど、夜のお風呂用にまた日向水を作っているところだった。


 ぬるい温度の日向水を使えば短時間でお風呂を沸かすことができるし、その分薪も節約できる。洗濯だって、冷たい水よりあたたかい水のほうが汚れが落ちやすい。手もかじかまない。

 そのため日向水作りは暖かい時期の日課でもあった。


「……よしっ」


 玄関で軽く気合いを入れてから勢いよく庭に出る。なるべく九摩留は見ないように、目は地面に固定しておいた。


「お、なんだあかり。俺のこの美しい身体を見にきたのか?」

「違うから。日向水を取りにきただけだから」


 水面がきらきら光るブリキのバケツをひとつ選んで持ち手を掴む。

 すぐに引き返してなるべく早足で戻ろうとすると、焦ったのがまずかったのか不自由なほうの足がよろめいた。

 あ、と思ったときには体勢が崩れる。

 なのに、転んだりバケツの中身を浴びたりすることはなかった。


「あっぶねーな。気をつけろよ」


 九摩留の呆れた声が耳もとで聞こえた。


「ぁ……う」


 腰に腕が巻きついている。

 自分よりもずっと大きな身体がこちらの背中にぴたりと密着して、服越しでもその熱い体温を感じ取ってしまう。

 汗の匂いに混じってやわらかい匂いがした。

 お日様に干した布団のような匂い。


「う…………」


 なぜか言葉が出てこない。そういえば手が軽い。

 バケツがないんだ、とぼんやりする頭で思った。


「こういうのは俺がやるから、お前は指示だけしてろ。それともここで水浴びしたかったのか?」


 からかうような言葉とは裏腹に、声は温かくて優しい。まるで日向水みたいだ。

 いや、そんなことより早く離れないといけない。

 いけないのに、足が動かない。


「なんか言えよ」


 笑いを含んだ声にハッとする。


「あ……ありがと……」

「そういうのって、相手の目を見てちゃんと言うもんじゃねぇの?」

「ぅ……ありがとう、ございます……」


 ギギギと顔をめぐらせて、目と鼻の先にある琥珀の瞳に視線をあわせる。

 こちらに向けられた眼差しは、日向水のようとは言い難かった。


 黄褐色の髪が触れてくすぐったい。相手の呼吸にあわせて顔にかすかに息がかかる。

 恥ずかしくて、不安で、でも怖いとは思わなくて――それどころかぞくぞくするような妙な感覚が身体の奥底から這いあがってくる。


「……んな固まんなって。別に取って喰やしねえよ。これ、裏に運べばいいんだな?」


 横からバケツを持った手が現れる。

 返事の代わりに何度もうなずくとバケツが視界から消えた。

 それなのに腰にある手も、背中を覆う熱もなくならない。耳元に顔を寄せられて思わず首をすくめた。


「好きだ」

「ッ!」


 耳に直接ささやかれて、身体がぶるりと震える。

 く、と笑う気配のあとで顔がようやく離れてくれた。

 まるでなにもなかったように、バケツを持った九摩留はわたしの脇をすり抜けてすたすた行ってしまう。

 もはや上半身裸とか、そんなのはまるで気にならなかった。汗が光る背中をただただじっと見つめてしまう。


「カカッ、おぬしもすっかり汗だくだな。それに……ちと狐臭いの」

「姫様……」


 入れ替わりでうしろから少女がやってくる。

 見られていたことの恥ずかしさ、焦りに困惑――。

 いつもだったらそんな感情が一気に襲ってきてパニックになっているはずなのに、心は凪いでとても静かだった。


 九摩留はどうやら本当に――本当の本当に、わたしを好いてくれている、らしい。

 それがわかってしまって愕然とする。


「ど……どうしよう……」


 早くなる鼓動をなだめようとしても、好きだと言った声を思い出してしまう。

 全身が熱い。うっかりすると身体が震えてきそうだった。


「葉月はさすが、わかっておるのう。はてさてうちの蛇っ子は太刀打ちできるか……」


 姫様がわたしの前に回り込むと、苦笑交じりに眉を下げた。


「少し手荒になるが許しておくれ。匂いがついたままだとおぬしの身が危うい」

「え――うわ!?」


 少女の声に続くように、いきなり大量の水が降ってきた。

 バシャバシャと音を立てて足元で泥が跳ねる。頭からつま先まで一瞬でずぶ濡れになって、わけもわからず姫様を見た。


 少女が上を指さすのを見て頭上を仰ぐ。

 空に雨雲はなく、でもわたしの上にブリキのバケツが逆さまになって浮かんでいた。


「寒くないかえ?」

「あ、はい――っぷぇ!」


 もう一度、滝のような温水が降ってくる。さらにもう一度。

 三度の水浴びに、ただただ茫然とするしかない。


 パン! と少女の手が鳴る。途端、服や髪が一瞬で乾いた。

 ――いや、乾いたんじゃなくて水分を取り除いてくれたのかもしれない。姫様の隣に、陽光でゆらぎ輝く水球が現れた。


「おい! なんか今すげー音しなかったか? 一体なにが――」


 九摩留が屋敷の角から飛び出してくる。

 その男めがけて、姫様の隣に浮かぶ水球が矢のように飛んだ。


「九摩留!」


 思わず叫ぶも、当たる直前で九摩留が水球をかわす。

 間一髪と思いきや水球が尾を引きながら鋭く角度を変えた。ふたたび彼めがけて疾走し――隙のできた九摩留のみぞおちでバシャッと水が弾けた。

 当たる直前で加速がゆるんでいたから、そこまで痛くはなかった……と思いたい。


「て……んめぇ、この、クソババア――――――――!」

「カカカカカカカカカカカカ!」


 陸上選手のような走りで九摩留がこちらに向かってくる。すかさず横の少女が逃げて、二人が風のように私の横を走り抜けていった。

 屋敷の周りを二人がぐるぐる駆けまわって、やがてわたしのところで男がへたりこむ。


「だめだ……今日、暑……」

「なんだえ、もうおしまいとはだらしない。その筋肉はお飾りかえ?」

「うるせー……」

「二人とも元気ですね。……ほら九摩留、行水してきたら? それだけ汗かいてるなら井戸水でちょうどいいでしょ」


 努めてなんでもない口調で言って、あえて彼をしっかりと見る。

 落ち着け大丈夫平常心、と心のなかで唱え続けて喝を入れれば声も身体もなんとか震えないでいてくれた。


 九摩留がこちらをじっと見てくる。

 視線に耐えられなかったのはわたしのほうだった。


「きょ、今日のおやつ作ってきますっ」


 やっぱりまだ恥ずかしさが勝って、そそくさと屋敷に引き返すとうしろから低い笑い声が聞こえてきた。

 負けたみたいでなんだかくやしい。でも勝つ方法も浮かばなくて、というか勝ったらそれはそれでまずい気がして――わたしは途中で考えるのをやめた。


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