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巫女さんの昭和古民家なつかし暮らし ~里山歳時記恋愛譚~  作者: さけおみ肴


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91.初午(後)

 その馴染みある声に、和ちゃんの顔が一瞬で引きつった。

 どこか怯えたように後ずさると、長い脚であっという間に近づいてくるコート姿の青年――泰明さんの姿が見えた。手にしている大きな往診鞄には以前もらったお揃いの根付けがついている。

 それがなんだか恥ずかしいような嬉しいような照れくさいような。


「せっ、先生! 違うんですこれはその……!」

「こんにちは若先生。それにあかりも、こんにちは」

「こんにちは泰明さん」


 泰明さんは和ちゃんの背後にするりと回り、その両肩に手を載せる。

 同じ男性であってもドキドキしてしまいそうな美しい笑みに顔をのぞき込まれて、でも和ちゃんは顔を赤らめるどころかますます青ざめさせていた。


「で、あかりがなにになるって? もう一遍言ってごらん」

「あ、や――山上はずっと倉橋のままですッ」

「うん、そうだね。ところで僕は君に彼女の名前を呼ぶなって言ったよ。忘れちゃったのかな」

「ヒェッ、忘れてないですすいません! あの俺いや私っ、これから祈祷があるんで! お先に失礼します!」

「そんなに怖がらないで。もう少しお話ししよう?」

「あわわわわ……」


 泰明さんは離れようとする和ちゃんの襟を掴んでぐいっと引き戻す。

 その手を首へ滑らせると、和ちゃんが見るからに震えだした。


「ちょっと和ちゃん大丈夫? 泰明さん、和ちゃんはお仕事みたいですから放してあげたほうが――」

「あかり、彼のことは若先生って呼ばなきゃ。じゃないと失礼だよ?」

「すいません、そうでした……」

「「先生」」


 ふいに硬質な声が聞こえた。

 あたりの空気が微細な氷でも混じったかのように、急激に凍てつく気配をみせる。


「うちの孫が、またなにかしましたかな?」

「うちのせがれから、その手を離してくれますか?」

「田母山様。それに老先生ろうせんせい大先生おおせんせいも。お久しぶりです」


 泰明さんはにっこり笑うと和ちゃんの首から両手をぱっと離す。

 いつの間にかわたしたちを挟むように、和ちゃんのおじい様とお父さん――老先生と大先生が来ていた。

 和ちゃんから聞いた許嫁云々の話がまだ耳に残っていて、なんとなく彼らの顔を見るのが気まずい。


 老先生のそばには景色を歪ませる陽炎と、少し距離をあけて姫様の姿もあった。

 境内は日が差して明るいのに陽炎のあたりが薄暗く感じられる。

 田母山様の機嫌があまりよくないのかもしれない。


「先生、患者さん方がお待ちではないですかな? ここで油を売っていないで早く行かれたほうがいいのでは?」

「まだ時間には余裕がありますので。それに医院にも神社にも行けない患者さんのため、そのお加減が少しでも良くなるようにお祈りすることも大事かと思いまして。少しだけ見逃してください」


 老先生がたくわえた白髭をなでながら言うと、泰明さんはいたずらがバレた少年のように笑う。

 一方で大先生は露骨に顔をしかめると和ちゃんに近寄って手を乱暴に引いた。

 たたらを踏む彼をさらに突き飛ばすようにして後ろにやり、泰明さんと正面から向きあう。


「まったく、油断も隙もありませんな。倅はもう父親となる身。他の女にうつつを抜かすとでも?」

「妻が身重のときに限って悪い虫が騒ぐ夫は意外にも多いそうですよ。身に覚えがおありでは?」

「泰明さん、その言い方は若先生にも大先生にも失礼です」


 とっさに青年の露骨な言葉を注意すると、彼はこちらにちらりと目をやって軽く頭を下げた。


「……申し訳ありません大先生」

「……世話役様に免じて許します」


 大先生は泰明さんではなく、わたしに向かって軽く頭を下げる。

 泰明さんと大先生の仲が良くないのは噂でなんとなく知っていた。

 知っていたけど、二人がそろったところを見るのはこれがはじめてで、最初から喧嘩腰の二人にちょっと気圧される。

 身長は泰明さんのほうが高いけど、大先生も気迫で身体が大きく感じられた。 


和嗣かずつぐ、とりあえずお前はどこかへ行ってなさい。またどこぞの悪童に肩を外されたら大変だ」

「でも――」

「いいから行け」


 大先生の強い口調に和ちゃんがむすっとした表情になる。

 彼はこちらに軽く手をあげると、どこか寂しそうな背中で離れていった。


 わたしも手をあげて応えつつ、大先生の当てこするような言葉に落ち着かなくなる。

 和ちゃんは両肩を脱臼したとかで小学校を休んでいる時期があった。

 まるで誰かに――あろうことか泰明さんにやられたような口ぶりに、わずかに寒気を覚える。


「泰明さん……?」


 恐るおそる声をかけると彼は驚いたように目を丸くした。

 誤解だと言うように首を横に振って大先生に顔を向ける。


「なにか勘違いをされているようですね。単なる事故を大げさに言うのはやめてください」

「お前のほうこそ勘違いもはなはだしいぞ。そんな頭で医者が務まるのか?」

「務まるべく、日々己を見つめて精進しているところです。大先生もたまにはご自身を振り返ってみては?」

「なにが言いたい」


 大先生が目を怒らせるのとは反対に、青年はにっこりと笑う。


「火遊びは火事の元。いい加減にしないといつか取り返しのつかないことになりますよ。大事な実りに欠けがあったことも、手折られた花たちの恨みつらみが祟ったのでは?」

「くだらんな。下劣な当て推量も大概にしろ。そもそも土壌が悪ければ種がいかに優れていようがろくなものはできん。迷惑しているのはこちらのほうだ」

「相変わらずのお考えですね。老先生や奥様に同情します。若先生も可哀想に……その悪癖が遺伝していないことを祈りますよ」

「悪癖もなにも私は花を手折ったことなどない。花がこの手に生けられたいと勝手に飛びこんでくるのだ。憐れなあだ花には情けをかけてやっているが、それでどこに迷惑をかけるでもなし。責められるいわれはない」

「……本当にろくでもない人ですね」


 二人の会話が進むほど気温が下がっていくようだった。

 お互い、当たりが強い。

 おまけに聞いてはいけないことを聞いている気がする。


 姫様に助けを求めるべく視線を送ると、彼女は小さく肩をすくめただけだった。仲裁する気はないらしい。

 田母山様も老先生も動かない。やれやれというように呆れている気配が漂っていた。


 こういうときに限って初午詣での足も途絶えて、本殿脇には誰もやってこない。つまり、参拝する人に助けを乞う術もなかった。


「あー……泰明さん、ちょっとその、態度があまりよくないですよ? 大先生も、もう少し穏便にお話しいただけると助かるのですが……」

「そうだぞ光嗣みつつぐ。余計なことは言うな。それに……わかっているな?」


 勇気を出して声をあげると、ようやく老先生もなにかの含みをもって追従してくれる。


「二人とも御神々の御前である。世話役様も見ておられる。それ以上は控えなさい」

「「……申し訳ございません」」


 言葉とは裏腹に口をへの字に曲げてちっとも悪びれない二人にため息が出そうになる。

 とりあえず、この二人がそろうと危険であることは十分理解した。


「えっと! 泰明さんはお稲荷さんにお参りですよね? そういえば若先生は御祈祷があるっておっしゃってましたけど、老先生と大先生はお時間大丈夫ですか?」

「ん、あぁ……そうですな。ではこの辺で失礼して、我々も行くか」

「……ええ。世話役様にはご面倒をおかけして申し訳ありません。また場を改めて、今度は部外者抜きでゆっくりお話しいたしましょう」


 老先生と大先生がこちらの意図を汲んでくれて、お礼も含めて二人に笑顔で頭を下げる。

 それから少し離れた場所でこちらを見ていた少女に声をかけた。


「姫様はどうしますか? 泰明さんとお参りしますか?」

「いや、わしはこの者たちに少し話がある。あかりは先にお帰り」


 その言葉に老先生と大先生が同時に頭を下げる。

 老先生たちは田母山神社だけでなく周辺の神社十数社も兼務していて、さらに姫様の祠やご神体の管理も倉橋家とともに行っていた。そのあたりの話かもしれない。

 

 姫様のご神体は屋敷が建つ小山の山頂付近にある巨大な奇岩だ。

 このご神体のしめ縄交換や周辺の整備、祭祀は本来は世話役も一緒に行うものだったけど、今では完全に久保家と倉橋様がすべてを取り仕切っている。

 わたしは足が悪いから道のない山を登ることはできず、いつも屋敷で待機。大仕事を終えた彼らを用意した酒肴でねぎらうことしかできなかった。


 普段の打合せであれば倉橋様への通訳としてわたしも同席するけど、姫様と老先生たちだけならわたしはいらないわけで。

 なんとも言えない気持ちが胸にじわりと広がった。


「あかり。よかったら一緒に行かない?」

「ぁ……はい。行きます」


 泰明さんが声をかけてきて思考が途切れる。

 もう初午詣では終わっていたけど、今はひとりになるのが嫌でうなずいた。


 姫様達と別れて二人でお稲荷さんへ向かう。と思ったら、田母山様もこちらについてくるようだった。

 泰明さんとは反対側に陽炎が並んで、わたしたちと同じ足並みで移動していく。


「田母山様が君におっしゃっているんだけどね」


 青年はわたし越しに揺らぐ景色を見つめた。

 わたしも歩きながら陽炎に目を向ける。


「――あかりちゃん、落ち込む必要はないよ。姫様の磐座管理も儀礼も、もともとは久保だけでやってたものなんだから。本来は世話役がなにかする必要なんてないんだよ」


 泰明さんは田母山様の声を真似しているのか、少しだけ声色を高くして言葉を通訳してくれる。

 子どもほどの大きさの陽炎はまわりの垣根や木立を歪ませながら、わたしにぴたりと寄り添っていた。


「世話役ってね、文字通り姫様の世話を焼く人なの。諫めたりなだめたり、一緒に遊んだりもする……つまりお母さんみたいなひとなんだよね。祀るだのなんだのは別のひとの仕事なの。つまりあかりちゃんは、もとの正しい世話役をしてるってことなんだね」

「田母山様……」

「さっきは和ちゃんのこと、ありがとうね。それからそこの――」


 泰明さんが唐突に口を閉じる。

 しばし無言のまま歩いて、お稲荷さんに着いても黙っている。神妙な顔でときどきうなずく姿を見てふいに悟った。もしかしたらお説教されているのかもしれない。

 あとからやって来た数人が参拝をすませたあともその沈黙は続いた。


「場を乱して申し訳ございませんでした。お詫びに大殿様と田母山様にも同じ御神酒をご用意いたします」


 しばらくしてようやく青年が声を出す。その言葉が合図のように陽炎が瞬きひとつで消え去った。

 思わず泰明さんを見ると、ちょっとしょげたように弱い笑みを浮かべる。


「さっきのことで怒られちゃった」

「……あー……」

「でも、お酒で許してくれるみたい。ほら……前の宴で持っていった僕のお酒。あれを姫様がだいぶ気に入ったらしくて、田母山様に自慢しちゃったみたいなんだ」

「皆さんお酒が好きな方々で本当によかったです……本当に……」

「でもってこれは念押し。ここに来られない患者さんたちの分も含めてってことで」


 そう言いながら彼は懐から出した財布から新円札を三枚引き抜く。

 その豪快なお賽銭に思わず変な声が出そうになった。

 美しい所作で二礼二拍手一礼をすませた青年は、わたしを見るとくすっと笑った。


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