90.初午(中)
「それよりお前、俺に話があるんだろ? 幸子のことか?」
「あっ、そうそう。和ちゃんよりもさっちゃんよ。さっちゃんは元気?」
「よりもとはなんだ、よりもとは」
和ちゃんは拳を作るとわたしの頭を軽く小突いてくる。
それから照れくさそうな笑みを浮かべると、そばかすの浮いた鼻筋を指でかいた。
「まぁー元気も元気よ。本人もお腹の子も問題なし。あと二週間でオギャアってとこだな」
和ちゃんはさっちゃん――同じく同級生の幸子ちゃんと結婚し、間もなく一児の父となる。そのため彼女は実家に戻りお産に備えていた。
二人は結婚した同級生たちの中でもいち早くお父さんお母さんになるのだ。
「楽しみだねぇ。産まれたらわたしにも赤ちゃんの顔見せてね」
わたしもなんだか嬉しくなって、自然と声が弾んでしまう。
すると和ちゃんは少しだけ笑顔を曇らせた。
「どうかした?」
「いや、なんかさ……俺が父親になるって、まだピンとこなくてさ。ちゃんと父親できるかなって思うと……」
「はじめて親になるんだもん、それは不安にもなるよね」
白衣に浅葱色の袴を身に着けた和ちゃんはいでたちこそ立派でも、まわりから若先生と呼ばれようとも、その中身は二十一歳の青年だ。
わたしがもし同じ状況だったら、きっとすごく心配になると思う。
成人したとはいえ、結婚したとはいえ――人の親が務まるだろうかと不安になるはず。
「……でも、大丈夫。なんとかなるよ」
ややうつむき加減な和ちゃんの肩をぽんぽんと叩く。
「さっちゃんと二人で、少しずつ親になっていけばいいんだから。まわりのみんなも必ず助けてくれるから、あまり気負いすぎないようにね」
わたしは親になったことがないから、和ちゃんやさっちゃんの気持ちをきちんとわかってあげられないと思う。
でも、不安というものはわたしも知っている。共感できる。
ちゃんと世話役が務まるか。今、ちゃんと世話役が務まっているか――。
なる前もなった後も、いつでも不安はつきまとってくる。きっとこの先も不安がなくなることなんてない。
そんなとき、わたしは姫様やまわりの人たちの優しさに救われてきた。
「なんでも最初からうまくいくことなんてないし。だからちゃんとできなくても、あまり自分を責めたりしないでね。わたしになにかできることがあればいつでも遠慮なく言ってね」
お父さんからはいつでも最初から完璧であることを求められたけど、姫様はそんなものは気にするなとよく言ってくれた。
一生懸命心をこめて尽くしてくれたら、それで充分なのだと。
九摩留にも肩の力を抜けと言われたことがある。
「不安かもしれないけど、これからもたくさん悩むかもしれないけど……そんなふうに思える時点で、和ちゃんはもうちゃんと父親になってるよ。少なくともわたしには、そう見える」
彼が目指す父親像はわからないし、具体的な助言もできないけど、自分なりに思ったことを素直に伝える。
相手の顔をのぞきこんで励ますように笑ってみせれば、和ちゃんは腕組みをして顔を上に向けてしまった。
「……山上っていい奴だよなー……」
少しして、彼は上を見たままぼんやりした声で言った。
「え、そう?」
「しっかりしろとか、弱気になるなとか言わないからさ。それ、あとであいつにも言ってやって。きっと喜ぶから」
「うん。わかった」
「……あのさぁ山上」
「うん?」
ゆるゆるとこちらに顔を向けると、和ちゃんは腕組みをほどいて急にかしこまったように頭を下げてきた。
何事かと驚いていると、小さな声でなぜかごめんと言われてしまう。
「あのときは、本当に悪かった。ごめんな山上」
「あのとき? ……あぁ、もしかして小学校のとき?」
眉をひそめながら和ちゃんとの記憶をいろいろ探して、なんとなく思い当たることを見つけた。
それは十歳とかそのあたりの頃だったと思う。
なぜか彼にぶたれたり髪を引っぱられたりと、毎日のように意地悪をされる時期があったのだ。
その時はなぜそんなことをされるのか理由がわからなくて、結構悩んだし落ち込んだ。
でも我慢していたらひと月ほどで収まったし、当時もごめんと言ってくれたし。
結局理由はわからなかったけど、自分のなかでは一件落着ということになっている。
「この前、産まれてくる子が女の子だったらーって想像してたんだけどさ。その時急に、俺が山上にしたことを思い出してさ……。それでもし学校で俺の娘がクラスの男に叩かれてたらって思ったら、なんかもう、頭がグワーッてなる感じがして」
和ちゃんの眉がどんどん下がってすまなそうな表情になる。
その身体も小さくなっていくようだった。
「それで俺、本当にひどいことしてたんだなって思って……」
「いいよ、もう気にしてないから。でもなんであんなことしたの?」
反省しているなら、もうあんなことをしないなら別にいい。
ただ、理由は知りたかった。
わたしは片足が悪くてできないことも多かったから、それでなにか気に障ったとかだろうか? 実際、小学校に上がる前にも別の男の子から足をかわれたり突き飛ばされたりすることがあった。
でももしそうじゃないなら、わたし自身に問題があるということだろう。
自分でもわからない悪い部分があるなら今からでも直しておきたい。
話してくれることを待っても、和ちゃんはなにも言わない。
さらに身体をちぢめて口をもぐもぐさせている。
……もしかして詰問されているように感じてるのかな。
「えーと……別に怒ってるわけじゃないからね? もしかして好きで意地悪しちゃったとか? なーんちゃって、そんなわけないよねー」
当時だったら絶対恥ずかしくて言えないであろう軽口をあえて言ってみれば、彼はようやく視線を合わせてくれた。
その顔はわずかに赤い。
「好きっつーかなんつーか……変に意識はしてたかも」
「……んっ?」
てっきり怒ったり笑い飛ばされるかと思ったのに、予想とは全然違う返答がきた。
その顔を凝視すると和ちゃんが恥ずかしそうにそっぽを向く。
どうやら聞き間違いではないらしい。
「今だから言うんだけどさ。どうも親父たちが山上を俺の許嫁にしようとしてたみたいで――」
「は!? なにそれ、そんなのわたし初めて聞いたよ?」
初耳も初耳だった。
思わず和ちゃんに迫ると、彼は慌てたように両手を振る。
「俺が言いだしたんじゃないからな!? ほら、俺って田母山様の声しかわからないからさ。だから親父とじい様が、お前と一緒にさせようって考えたらしくて。そうすりゃいろいろ都合がいいし、産まれる子どもも完全な見鬼になるかもしれないってんで……」
和ちゃんは申し訳なさそうに、そしてどこか寂しそうに笑う。
そういえば彼は田母山様の声はわかるけど姿が見えないのだった。姫様に関しては声も姿もわからないという。
大先生と老先生は泰明さんのように完全な見鬼――つまりこの世のものではない存在の声を聴き、姿も見ることができる。
「それ……わたしのお父さんに言ったの?」
「ああ。でも先代殿がうなずかなかったっていうし、それにその話を持ちかけた頃に山上が世話役候補になるって話が出たらしくて。結局計画はおじゃんになったんだとさ」
「そんなことがあったのね……」
返す言葉が見つからない。
確かにわたしは姫様の声も姿もわかるけど、彼女以外の神魔幽鬼の類は気配がわかるくらいでしかない。それに子どもができたとしてもそんな都合よく見鬼になるとも限らない。
というか、いまだに生理がないわたしは多分子どもを産めないと思う。
なんて勝手な話だろう……。
そう思うのは和ちゃんも同じようで、どこか呆れたような目で遠くの空を見ていた。
「そういうわけでさ。そんな話を多感な時期に聞いたもんだから、それからなんか山上のこと気になっちゃってさ。こう……恥ずかしいようなむずがゆいような、そんでちょっとイライラする感じっていうのかな。つまりまぁ、照れ隠しでちょっかいかけちゃったみたいな……」
「え、えぇー……」
そんな理由でわたしは毎日ぶたれていたのか。
正直だいぶ迷惑だ。八つ当たりもはなはだしい。
――とはいえ、今さら怒りもわいてこない。あるのはなんともいえない脱力感だけ。
「山上からしたらすげー失礼な話だし、どれもこれも許せるもんじゃないよな。……でも、本当に申し訳なかった。ごめん」
「うん……わかった。もう終わったことだし、別にいいよ」
とりあえず謝罪は受け入れよう。
小さな男の子の照れ隠しだったと思えば可愛いと言えなくもないし。まぁ、当時はすごく嫌だったけど。
和ちゃんが下げた頭を戻すと、今度はソワソワもじもじと身体を動かしながら妙に明るく笑いだす。
「でもさ、もし親父たちの話が現実になってたらと思うと、おっかしいよなぁ。山上は今頃、久保あかりになってたかもしれないってことだろ? でも音の感じは意外と悪くないよな、うん。それに俺とお前は小さい頃遊んだりもしてたし、結構――」
「ちょっと和ちゃん、さっちゃんが大変なときになんてこと言うの。そういうところ、無神経」
反射的にムッとしてしまい思わず嚙みつく。
途端、彼はハッと目を開いてこちらを拝んできた。
「ご、ごめん。今のなし。幸子にもごめん。本当にごめ――」
「謝ればなにを言ってもいいのかな?」
その涼やかな声は、彼の後ろから聞こえてきた。




