84.暗闇を抜けて
葉月ちゃんが帰ったあと、わたしはさっそく風呂敷包みをお勝手の板間で開いた。
姫様と九摩留がワクワクした様子で見つめるなか、現れたのは黒い漆塗りのお重箱。
一段目にはこんがり狐色したチーズケーキが丸のままひとつ、二段目にはドライフルーツ、三段目にはナッツが詰められていた。
「なぁお姫、ケーキはもう食っちまおうぜ? 酒より紅茶のが絶対うまいって。もうすぐおやつの時間だしちょうどいいだろ?」
「そうさなぁ……では先に半分だけいただこうかの」
九摩留の提案に姫様もお重箱から目を離さずにこくりとうなずく。彼女もこのおいしそうな香りの前に我慢できないらしい。
姫様は辛党だけど、甘いお菓子が嫌いというわけではないのだ。
「おっしゃ、そんじゃ俺が切ってやるよ。えーっと洋皿のでけぇやつはどこだったか……」
「切り分けはあかりがやる。お前は紅茶を淹れよ。ティーコージーもちゃんと被せるのだぞ」
赤い半眼ににらまれて九摩留が露骨に舌打ちする。
きっと一切れを大きく切って、落としたとかなんとか言って自分のものにしてしまおうと目論んでいたのだろう。
苦笑いしながら土間に降りてお重の一段目を流し台のそばに運ぶ。すると姫様が隣にやってきた。
「どうしたあかりよ。さっきもそうであったが、なにやら口数少ないのう」
「姫様……」
葉月ちゃんたちと楽しくお喋りしていたつもりだったけど、姫様にはお見通しらしい。
さっきからずっと胸の奥に重たいものがある。
先ほど聞いた葉月ちゃんの言葉が鉛のように異物感を放っていて、それがずっと気になってしまう。
御身案ずるという言葉。
姫様は葉月ちゃんに杞憂だと言ったけど――文字通り心配するなという意味ならいいけど、首を突っ込むなという含みがあるなら話は変わってくる。
言おうかどうしようか迷っていたことを、やっぱり言おうと決めたところで九摩留が奥の茶箪笥からこちらにやってくるのが見えた。
言いかけた言葉が吐息になってこぼれる。
「なー。紅茶の道具ってどこにあるんだ?」
男が流し台そばの食器棚を開けはじめると、隣の少女はそちらに顔を向けた。
「九摩留よ、薪割りはどうした?」
「ん? 今日の分はもう終わったぞ」
「なら明日の分をやってこい」
「はぁ!? 明日のは明日やりゃいいだろうが!」
「九摩留。行け」
有無を言わさない姫様に一瞬彼がたじろぐ。
開きかけた口は、結局なにも言わずに犬歯を剥くだけだった。抗議するかわりにドスドスと足音荒く玄関に向かってく。チーズケーキの手前だからか、珍しく素直だった。
「やれやれ、葉月にいらぬ種を蒔かれたのう」
二人きりになると彼女は小さく苦笑する。
わたしはまな板に包丁を置いて、少女の前に膝をついた。身体に力が入らないような感覚があったせいか、硬く叩きしめた土間の感触に妙にほっとしてしまう。
こちらと目の高さが近くなった少女はいつもと同じように見える。
白磁のような肌も、ふっくらと潤う唇も、光の粒を散らしたような赤の眼も。
具合の悪さを感じさせるようなものはなにひとつ見当たらない。
もしも悩みや心配、不調があるならできれば打ち明けて欲しいと思う。でも姫様は神様で、人間には話せないことも多くある。
だから、一方的かもしれないけど、わたしの気持ちだけでも伝えておきたかった。
「姫様。わたしは……非力な人間です。お父さんのような力はないし頭も悪いし、自分でもすごく頼りない人間だと思っています」
こちらを見つめる赤の眼は揺るがない。
その瞳をまっすぐ見返しながら、言葉をつづけた。
「でも、もし姫様のお力になれるようなことがあるなら、わたしは喜んでなんでもします。この命が必要とあらば、いつでもお返しします」
もともとわたしは本当の親から不要とみなされ、赤ん坊のうちに死ぬはずだった。
だからこの命は拾ってくれた姫様のもの。今さら惜しむようなものじゃない。
人柱だってなんだって喜んで引き受けよう。
「わたしは姫様のことが大好きです。あなたはわたしのすべてなんです。わたしが姫様をお支えしますから……だからどうか、頼ってくださいね」
普段思っていてもなかなか言えない言葉を、心を込めて伝える。
途端、姫様の瞳が一瞬淡く輝き朱金のような明るい色に染まった。
ドキリとする間もなく、それは瞬きひとつでもとの鮮やかな赤に戻る。
彼女はどこかくすぐったそうな表情になると、こちらの頬に小さな手を添えた。
少しの間、親指が頬をなでる。
「愛しき我が嫁、優しき我が娘よ。偽りなきその想い、言葉に感謝する。わしにはそれがなによりの糧――」
そこで口をつぐむと、わずかにむすっとした声を出す。
「なるほど。葉月はこれを狙ったか」
唇を尖らせるけどその眼は笑っていた。
ふいに、わたしに向けられた視線がわずかにそれる。迷うような気配のあとで彼女はふたたびこちらに眼を向けた。
「これは他言無用だがな、実は以前から……人でいうところの疲れやすい状態にあるのだ。あぁ、もちろん役目に支障はないから安心せよ。だが白状すると、役目以外で繊細な力を要するものはなるべく避けておきたいというのが本音だ」
頬をなでていた手が離れて、かわりに人差し指で唇をつつかれる。
「なに、心配はいらぬ。おぬしが今しがた奉じた言霊は極上ゆえ、おかげで元気いっぱいよ。……ただ、こもりはこれからも七日にしておくかのう」
「七日……」
身に溜まった穢れを落として力を補うためにしている姫様のおこもりは、九摩留が屋敷に来たことで五日から七日になっていた。
それは彼女が自分の力を与えていたからであり、彼が自力で人に化けられるようになった今、その日数はもとに戻るのだろうと思っていた。
軽くショックを受けるものの、でもそれで姫様の具合がよくなるならと大きくうなずく。
「わかりました。なにかわたしにできることはありますか?」
あらためて尋ねると姫様がわたしの頭を胸に抱きよせた。
ほんのり感じていた白檀の香りが強くなって、この状況とあわせて懐かしさがこみ上げてくる。小さい頃はよくこうして抱きしめてもらったものだ。
「その命を投げださぬこと」
その静かな声に。
かつて言われた同じ言葉に。
一瞬で胸が苦しくなった。
「わしのためであろうと、自ら死を選んではならぬ」
姫様、と言ったつもりが言葉にならなかった。
か細い息が唇からもれるだけで。
「昔、わしと約束したであろう? おぬしの死に場所は我が口、我が腹の中。それ以外での死を禁ずると。わしが許可を出さぬ限り、おぬしは生き続けねばならぬ。よいな?」
「…………はい」
昔の約束事を持ちだされて、その当時のことがよみがってくる。
それは小学校を卒業した日のことだった。
わたしは一歳ほどで山の中に捨てられていたこと。
姫様が拾い、屋敷で面倒を見ることになったこと。
本当は次代の世話役夫妻の女中になる予定だったこと。
他にも倉橋医院の跡取りだった真人さんの出奔により、関係者の話し合いの結果泰明さんが真人さんの代わりに――そして姫様と意思疎通できるわたしが泰明さんの代わりに世話役候補になったことなど。
自分自身に関することを姫様とお父さんお母さん――養父母から教えてもらったことがきっかけだった。
正直、自分のお父さんお母さんが本当の親じゃないことは話を聞く前から薄々気づいていた。
でもそれは聞いてはいけないことだと幼いながらわかっていて、だからずっと気にしていないふりをしていた。
五歳で世話役候補と呼ばれるようになったけど、それももともとは別の誰かが――自分じゃない正統な後継者がいたのだと知っていた。
小学校にあがる前の記憶はどれも曖昧で断片的ではあるけど、その歳まで一緒に屋敷で暮らしていた泰明さんを泰明様と呼んでいたのだから、すぐに察しはついてしまった。
背中の焼印や足の傷がつけられた理由は誰にもわからないということだったけど、ちょっと考えれば言わんとすることを想像できるわけで……。
久しぶりに悲しいような虚しいような心地が全身に広がって、気持ちが沈んでいく。
それがわかったのか姫様が身体を離してこちらをじっと見つめてきた。
その眉は軽く寄っていて目元も少し厳しい感じがする。
「姫様、怒ってます?」
「おぬしの代わりに怒っておる。それに少しだけおぬしにも怒っておる。もっと己の生に執着せぬか」
「……今では結構執着してると思いますよ? この先も毎日ずっと、姫様と九摩留と、それから泰明さんと一緒にご飯食べられたらなぁって思いますし。ほら、食べるって生きるってことじゃないですか」
今でこそおいしく食べられているご飯だけど、でも一時期は食べることに強い抵抗感があった。
わたしは本当の親から死ねと言われたも同然なのに死にぞこなってしまった。
わざわざ背中に焼印を施すだなんてどう考えても異常で、つまりわたしは忌み子――不吉な存在なのかもしれなくて、だから死を望まれたのかもしれなくて。
それなのにこのまま生き続けてもいいものか、やっぱりちゃんと死んでおいたほうがいいのではないかと……そう悩むようになってごはんが喉をつっかえる日々が続いた。
でもそう思う一方で、死にたくないと思う自分もいた。
姫様や養父母は厳しいながらもいつも優しかった。
仲のいい友達がいて、まわりの大人達もいい人で。
世話役修行は大変だったけど、次期世話役としてみんなから必要としてもらえることがなによりも嬉しかった。
ときには映画やお買い物といった楽しいことまであって――。
だからこそ、うしろめたさは日増しに大きくなっていった。
みんなが優しいのは、もう世話役候補になる人がいないから。そんなふうにうがった見方をしてしまう自分も嫌いで毎日が苦しかった。
捨てられた命なのに生きてもいいのか。
助けられた命なのに死んでもいいのか。
ずっとそんなことを考える日々が続いた。
「姫様。約束を覚えてくださっていて、ありがとうございます」
「当然だ。いいか、それはわしへの誓いであり“縛り”もついておる。死を選ぼうとしても無駄だ。そんな無駄を考える暇があるなら、生きてわしに尽くす方法をひとつでも多く考えよ」
「はい」
小さな手が頭をなでてくる。
その凛とした声に、あの日のわたしも諭された。
いよいよ死にたいのか生きたいのかわからなくなって、ある時わたしは姫様にだけそれを打ち明けた。
考えることにも疲れて、だから誰かに生死を決めてほしかったのだと思う。
姫様は同情も慰めもしないでくれた。悲しむでもなく怒るでもなく、ただ黙ってすべてを聞いた後で、わたしのぐちゃぐちゃな胸の内を整理してくれた。
『おぬしの心はこれからも生きていきたいと思っておる。だがおかしな責任感から死ぬべきだと考えておる。死に惹かれているふしもあるな……綺麗な身体になって一からやり直しがしたいのだろう』
静かな声に、返す言葉もなかった。
そのときの彼女もわたしを抱きしめて小さな手でなでてくれた。
それから、わたしは拾った姫様の所有物であることを宣言された。
同時にいくつかの約束事もした。
わたしはわたしのものではなく姫様のもの。だからわたし含めて誰からも傷つけられないようにすること。
次期世話役としてもっと責任感を持ち、生きて姫様に献身すること。
自分を凶兆だと思うなら少しでも善行をし、村に吉兆をもたらすこと。
そのうえで彼女はわたしの死に場所を――死に方を決めて、近いうちにこの命を終わらせてくれるとも約束してくれた。
そのときの自分には、情けや優しさより使命を与えられたことのほうが救いだった。
それに期限付きの命だからこそ、せめてその日までは死を考えないで生きようと思えた。
善行は村のゴミ拾いや草むしり、お地蔵さんやバス停の掃除と、あまり大したことはできなかったけど、でも通りがかる人みんなが声をかけてくれて時には一緒にお手伝いまでしてくれた。
わたしのそれは偽善であったから、褒められたり喜ばれるたびにうしろめたさがあったけど――でもそんな言葉を聞くたびに嬉しくもなってしまって。
こんな自分でも生きてていいと言われたような気がした。
姫様がわたしを食べてくれるのは、彼女にとっての近いうち。つまり人間からすればだいぶ先。この命の灯燃え尽きる直前なのだそう。
数年前にそれを聞いたときはすごく安堵してしまって、それで自分はすっかり生きる意欲がわいてしまったのだと実感した。
「おぉそうだ。おぬしがわしにできること、他にもあったな」
急に少女がポンと手を打つ。
わたしは思わずその手を握った。
「なんですか? なんでもしますよ?」
「おぬしの打掛……白無垢姿をわしに見せることよ」
白無垢姿という言葉に思考が停止した。
続いて浮かんだ人物の顔を必死で消して、ぎこちなく笑う。
「それはあのー相手のあることなので……衣装を借りて着てみせるだけじゃダメですか?」
「たわけが。それではなんの意味もなかろう。早くよき伴侶を見つけて、その晴れ姿を見せておくれ。さすればわしも気力体力みなぎって数百年は元気に過ごせよう」
「……ど……努力します」
「言ったな。その努力、怠るなよ? 大体なぁ、おぬしはいつまでたっても胸の内を明かさずして、まだるっこしいったらないわ。先ほどわしを立派に口説いたように、あの者にも思い切って素直に想いを打ち明けてはどうかえ」
「失恋したらすぐ食べてくれますか?」
「カーッ! こいつめ!」
少女の両手がわたしの髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回す。
思わず声をあげて笑って、それからしみじみ楽しいなぁと思った。
こんな何気ないやり取りが、毎日が、今はとても愛おしい。
一日でも長くみんなと一緒にいたいと思ってしまう。
「姫様」
「なんだえ?」
「わたし、姫様が許してくれる限り……ずーっとしぶとく生きてみせますからね」
あなたが命じない限りは、こちらも死ぬつもりはない。
決意を込めてそう伝えると、少女はとびきりの笑顔でわたしに抱きついてきた。




