83.お詫びの品と不穏の種
お昼ご飯をすませてからの針仕事はとても眠い。
縁側の端っこで足踏みミシンを一定のリズムでカタカタ鳴らせば、音にあわせて頭がだんだん下がってしまう。
半分眠ったような頭をぶるぶるっと振ると、ちょうどひとりの女性がやって来るのが見えた。珍しいお客様の姿にハッと目が覚める。
「姫様、起きてください。葉月ちゃんがいらっしゃいましたよ」
開け放たれた座敷で大の字になって寝ている姫様に声をかける。でも起きる様子はない。
仕方なくそばに行ってゆさゆさ揺さぶっていると、玄関から声が聞こえてきた。
「はーい、お待ちくださーい!」
いったん姫様から離れて玄関の戸を開けると、コートを腕にかけた美しい女性がこちらに微笑みかけてきた。
「葉月ちゃん! どうもこんにちは」
「こんにちは、あかりちゃん。加加姫様はいらっしゃるかしら?」
そう言うと両手に下げた紙袋と風呂敷包みを軽く持ち上げてみせる。そのしぐさにピンとくるものがあった。
彼女の装いも複雑に結い上げた髪に深緑色のロングワンピースと、いつもと違っていた。
普段は男装が多い葉月ちゃんだけど、今日のあらたまった格好に訪問の理由を悟る。
彼女は以前から屋敷従者の九摩留を姫様の許可なく自分のお店で働かせてしまっていた。
その謝罪に来たということだろう。
「おぉ葉月、久しいのう。さ、あがるがよい」
うしろからの声に振り向けば、姫様があくびをしながらあがり端のそばまできていた。
「葉月ちゃん、どうぞおあがりください」
「ありがとうございます。お邪魔いたします」
さっそく葉月ちゃんを座敷に通して、姫様が来客時の定位置である床の間の前に座る。
葉月ちゃんは下座に、わたしは二人から少しだけ離れて真ん中の位置に座った。
全員が腰を落ち着けると、葉月ちゃんは床の間に視線を定めたまま畳に手をつく。
「大変ご無沙汰しております、加加姫様。この度は貴女様のご従者を許しなく使役したこと、お屋敷に大変なご迷惑をおかけしたこと、今更ではございますが謝罪させていただきたく参りました。この度は誠に申し訳ございませんでした」
「よいよい。おぬしもわしの意図がわかっておったからあえて来なかったのだろう?」
畳に額がつくほど深々と頭を下げる葉月ちゃんに、姫様がやんわりと声をかける。
「面を上げよ。機を見てあかりに知らせもしたし、順当に事が運んだ。過不足なしである」
「読み違えていないようでしたら、安心いたしました」
葉月ちゃんは顔をあげると床の間に上品な笑みを投げかける。
一方のわたしは姫様の言葉を通訳しつつ、心のなかで首をかしげた。
少ない言葉の裏にたくさんのやり取りがあったことはわかるけど、今ふたりがなにを話しているのかわからなかった。
どうやらその気配が伝わったらしい。葉月ちゃんから一瞬視線が飛んでくる。
「加加姫様。彼女にお話ししても問題ないでしょうか?」
「駄目だと言ってもどうせ話すつもりであろ? ならばこの場で話すがよい」
「ありがとうございます」
葉月ちゃんは一礼すると、顔だけこちらに向けて優しくほほえんだ。
「加加姫様は、大人になったくーちゃんとあかりちゃんが屋敷に二人っきりという事態を避けたかった。そのことはもう知ってるのよね?」
「そ……そうですね。えっと、はい」
九摩留はこれから姫様が屋敷を留守にするとき、葉月ちゃんのお店で働くことになっている。
その理由がわたしの貞操を守るため、というとんでもないもので、思わず顔が熱くなる。
「通常ならあの子が大人になってから働きに出せばいいんでしょうけど、くーちゃんはとっても人見知りだし。それに怒りっぽくて暴れやすい大柄な男がいきなりポンと奉公に出されても、受け入れ先も大変よね。まともに働けるとは思えない。かといって加加姫様が不在の間だけ都合よく屋敷の中に入れないようにするっていうのも難しい……。そうですよね?」
「ああ。あれは世話役と同じく屋敷の出入りを自由にしてある。不定期にこの時間帯だけ出禁、とするのは……まぁできなくはないが、ちと面倒なのだ」
「ということで、まずはあの子が小さいうちから他所で働ける環境を準備する必要があった。できれば自発的にね。でもあの子がうちに来たときって、まだお屋敷の仕事を勉強している最中だったでしょ? そんな状況で外でも働かせるだなんて、きっと先代様はお許しにならないと思うの」
葉月ちゃんはわたしを見つめてにっこり笑う。
「あかりちゃんだって、やんちゃ盛り暴れ盛りのおチビちゃんを外に預けるって聞いたら、反対したくもなるでしょう?」
「そうですね。きっと反対したと思います」
実際、大人の九摩留であっても外で働かせると聞いたときは反対した。少年の頃だったらなおさらだろう。
お父さんだって、屋敷仕事さえろくに覚えていないのに外でも仕事だなんて、絶対認めてくれないと思う。わたし以上に反対しそうだ。
「あの子が働きはじめたときに私がここへ謝罪に来たら、その時点でくーちゃんはみんなから反対されて外で働けなくなる。それでも反対を押しきって働かせるってなったら、あの子ならいろいろ察しちゃうと思うのよね。そしてきっと悪知恵を働かせるわ」
葉月ちゃんは顔を正面に戻す。
「というわけで、私の謝罪やらなんやらはかえって邪魔になるから屋敷にこさせないようにしていたと。そうですよね、加加姫様?」
彼女の言葉に少女は赤い眼を悪戯っぽく輝かせた。
桃色の唇をほころばせてカカッと笑う。
「あのときは詫びの品を無駄にして悪かったの」
「いいえ、些末なことですわ。逆にわかりやすくて助かりました」
葉月ちゃんもくすっと笑い、ふたたびこちらに顔を向ける。
「くーちゃんがお店のお手伝いをして二回目くらいかしらね。お詫びを持って屋敷に伺おうとしたんだけど、山道に入ったところで持ってきたハムのセットがいきなり爆発したのよ」
「え、ハムって爆発するものなんですか?」
「あはっ、そんなわけないじゃない! だからね、あーこれはなにかあるなぁと思って。それであらためて考えたらおかしな点がいろいろあったから、さっき話したことに思い至ったってわけね」
「そうでしたか」
姫様を見ると、あのハムうまそうだったのぅと遠い眼をしている。
そこでふと疑問が浮んだ。
「姫様、お聞きしてもいいですか?」
「なんだえ?」
「そこまであれこれ気を回さなくても、九摩留が屋敷に入ったときに姫様が一言……えーと、わたしに手は出さないように、と命じればすんでしまう話かと思うのですが」
「私も同感です」
強姦という言葉はさすがに使えずぼんやりした言い方にすると、葉月ちゃんも小さくうなずく。
姫様はふっと笑みを浮かべて白髪をさらりと揺らした。
「命令はな、その度合いに応じて労力――使う神気の量が変化するのだ。今回は労力とその結果を鑑みてああしたまでのこと。それにあれは調伏使役ではないから、命令するにも意外と細かな制限があるのだ。おまけにあかりはちょろ……優しい子だからのう。九摩留にしかと命じたところで裏をかかれることもありうる。ならばしっかり者の葉月も巻き込んだほうがよいと判断したのだ」
言いながら腕を着物の袖にしまうと、少女が赤い眼を細める。
「なにより、わしは泰治の妻である。我が君が力に任せて相手をねじ伏せることをよしとしないのだ、妻たるわしもそれに倣うは道理であろう」
言葉を復唱して葉月ちゃんに通訳しながら、わたしはそういうことかと納得する。
葉月ちゃんもにっこりと笑い――それなのに出てきた言葉はどこか皮肉めいていた。
「雄弁でいらっしゃいますね」
「ふむ。釈然とせぬか?」
「少々貴女様らしくない……というのが正直なところです」
葉月ちゃんの言葉に姫様がくすくすとおかしそうに笑う。
でもその赤い眼は冷ややかだった。
「子狐よ、おぬしがわしのなにを知るというのか? 痛くもない腹を探られるのはちと不快であるな」
かすかな苛立ちを感じ取ったのか、葉月ちゃんは表情を引きしめると深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。ご無礼をお許しください。……しかし貴女様は我らが母も同然、御身案ずるは子として当然のことにございましょう」
「杞憂である。泰明にも、無理強いはいかんと説いているところであるしの」
ハラハラしながら通訳しつつ、葉月ちゃんの言葉になんとなく不安を覚えた。
御身案ずる――。それはつまり、姫様を心配するようななにかがあるということだろうか。
ゆっくりと産毛が逆立つような感覚に妙な焦りを覚える。
でもなにをどう聞けばいいのかわからない。
声をあげるべきか迷っていると、足音とともに襖がさっと開かれた。
「なんか匂うと思ったら、やっぱ葉月じゃん。ここでなにしてんだ?」
現れた背の高い男が座敷に入ってくると、葉月ちゃんと姫様の間にあった不穏な気配が一瞬で消え去った。
軽くなった空気に思わず深呼吸する。
「あらくーちゃん、こんにちは。今まさにあなたのことでお詫びをしている最中なのよ」
九摩留がわたしの隣にどっかり座ると、葉月ちゃんは頭を下げたまま脇に置いていた包みを姫様に差しだした。
「というわけで、話は戻りますが……どうかこちらをお納めいただければと存じます」
「受け取ろう。あかりや」
姫様に声をかけられて葉月ちゃんからお詫びの品をいただく。
紙袋から出されたそれは細長い箱で、液体がタプンと揺れるような気配にこれはハムではなさそうだと直感する。
姫様の横に箱を置いてその並びに座り、今度はわたしから床の間に置いていたチョコレートボンボンの箱を差しだした。
「こちらからもお詫びを。これまで九摩留が大変なご迷惑をおかけし申し訳ございませんでした。引き続きご面倒をおかけいたしますが、今後ともよろしくお願いいたします」
「承知いたしました。頂戴いたします」
葉月ちゃんがお詫びを受け取ってくれて、ほっと息をつく。
これでこの件は一区切りついた。
「葉月や、中を見てもいいかのう」
「ええ、もちろんですわ」
先ほどまでの空気が嘘のように、姫様は無邪気にお詫びの品を手に取る。葉月ちゃんの声も朗らかで、その笑顔に憂いの色はない。
少女が包装紙を丁寧にはがすと、英語のようで英語でない言葉が書かれた瀟洒な飾り箱が現れた。
箱に鼻を近づけた姫様は眼をきらりと輝かせる。
「酒だ」
「そちらはカルヴァドスという蒸留酒です。フランスのノルマンディー地方で作られているアップルブランデーで、あちらでは食後酒としてよく飲まれています」
「ははぁ、リンゴとな。それはまた珍しい」
によによと相好を崩す姫様の気配に、葉月ちゃんも大きく笑みを浮かべる。
「アテとしてドライフルーツとナッツ、それからチーズケーキを焼いてお持ちしました。ぜひ一緒にお試しください」
「ありがたいのう。さっそく今宵いただくとしよう」
どうやら持ってきた風呂敷包みの中身はお酒に合うおつまみだったらしい。
なにも言われなくても九摩留がダッと葉月ちゃんのところへ行き、風呂敷包みを受け取って戻る。
それから包みに顔に近づけて鼻を何度も何度も鳴らした。
「なぁなぁ、チーズケーキだってよ。夜じゃなくて今食いてえな」
「九摩留、それは姫様のだからね? 勝手に食べたりしたらダメよ?」
「わーってるって。あーいい匂い……」
それからは姫様と葉月ちゃん、わたしたちも入れた四人でお店や料理、お酒の話に花を咲かせる。
太陽の位置が少し下がった頃合いで、葉月ちゃんは暇乞いをしてお店に帰っていった。




