79.青年と叔母
今回からしばし三人称が続きます。
倉橋医院の裏手、住居側の玄関を抜けて泰明が居間に顔を出すと、叔母の澄子がラジオを流しながら一人炬燵で縫物をしていた。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい、泰明さん」
上げられた澄子の顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。泰時がいないからこその表情を見て、青年は思わず苦笑した。
寝ても覚めても仕事場さえも夫婦一緒。おまけに叔父は家だと子どものごとく彼女に絡んでしつこくからかい続ける。ゆえに澄子の眉間には皺が寄っていることが多いのだ。
「おじさんはお出かけですか?」
「木下さんのところで将棋よ」
「そうですか」
泰明はそれだけ言うと襖をしめる。
間借りしている部屋へ行ってマフラーやコートをクローゼットに仕舞うと、最後に黒の手袋を外した。
(……普通ってなんだっけ)
そこにあるはずのものに目を凝らしてみるが、何度見ても結果は同じだった。傷一つない滑らかな手のひらにため息がこぼれる。
帰ってくるまでずっと噛みしめていたあかりとのひと時が、一瞬遠のいた気がした。
もともと人一倍治癒力は高いほうだったが、蛇の眼を使って以降それがさらに飛躍したらしい。
昨晩己の爪でつけたはずの傷は、その日のうちに跡形もなく消えていた。
もう一度神の力を使えばそのうち鱗が生えてくるかもしれない。
落ち込みそうになる気持ちを抑えて泰明は窓を開ける。
羽音も立てずに闇夜から飛んできたのは二羽のトラツグミだった。窓の下の勉強机へ降り立つと、部屋の中を物珍しそうに見渡している。
そんな二羽の背を青年がなでると輪郭がじわっとにじみ、次の瞬間には複雑な形の紙細工へと姿を変えた。
青年が『眼』と呼んでいる鳥――拝み屋の間で式と呼ばれる使役霊は、彼がこっそり会得した世話役に伝わる秘術のうちのひとつ。それを独自に改良したものを村の内外に数百ほど配置していた。
その数百のうちのたった二体を机の引き出しにしまうと、泰明は満足げによしとつぶやく。
屋敷周辺に置いていた『眼』はすべて屋敷へと続く山道の入り口に移動してある。
新しい『眼』を作らない意思表示として材料である和紙もすべてあかりに渡した。
こうして村のあちこちにいる『眼』も少しずつ回収をはじめている。
それになんといっても、今日のあかりの外出には『眼』をつけることも我慢した。
(大丈夫、ちゃんと普通に近づけてる。僕は普通だ)
回収した『眼』を燃やさずにいることは無視し、青年は自分を普通だと言い聞かせる。
「さてと。根付を作らないとな」
背広から普段着の徳利セーターとズボンに着替えると綿入れ半纏をはおり、別の引き出しから煎餅が入っていた缶を取り出す。
そこでふと気が向いて階段を下りていった。
ふたたび居間に顔を出すと、澄子がラジオの歌にあわせて上機嫌に鼻歌を歌っているところだった。
ここに叔父がいたら間違いなく変な替え歌を被せていただろう。
「あら泰明さん、どうしたの?」
「僕も炬燵に入っていいですか?」
「もっちろんよ。ちょっと待ってて、泰明さんのお茶を持ってくるから」
「あ、自分でやります」
炬燵から出ようとする彼女を止めて、部屋に荷物を置いてから台所でほうじ茶を用意する。
居間の中央に置かれた炬燵は最新の電気やぐら式で、やぐらの上部分に熱源がついたおかげで天板下の空間が広々使えるのがありがたい。
泰明は澄子の向かいに座ると湯呑みに口をつけた。
「今日はなにを食べてきたの?」
「鱈ちりです」
「あらいいわね。寒い冬にはお鍋がぴったりよね。私たちも今夜は鳥つみれのお鍋をいただいたの。おいしかったわぁ」
澄子は針を刺す手を止めずにしみじみと言う。
看護婦をしている彼女は医院の仕事で忙しく、家事の多くを女中の竹に任せていた。昼と夜の食事も竹が用意している。
「鱈ちりもおいしかったです」
思わず張りあうように言ってしまうと、澄子も同じように思ったのかくすくすと面白そうに笑う。
「泰幸お兄さんも前にあかりちゃんの料理を褒めてたわね。私もいつかご馳走になりたいわ」
泰幸は屋敷関係者であるため、先代世話役が健在の頃は屋敷で打ち合わせがてら酒を酌み交わすこともあった。その際には当然あかりやその養母マキエから料理を振る舞われている。
当主以外で屋敷での食事を許されているのは今のところ泰明だけだった。
その特別扱いは村人たちの反感を買いそうなものだったが、これまで彼がやってきたことの数々を全員が知っているだけに不平不満を言う者は誰もいなかった。
むしろそれで青年の機嫌がいいのなら――村の平和が保証されるのであれば遠慮なく続けろというのが総意である。
遅かれ早かれどうせ世話役と一緒になるのだろうし、という含みもある。
「ねぇ、私も今度泰明ちゃんについてっていいかしら。手土産はうんと奮発するから」
「すみません、僕は許可を出せる立場にないので。澄子おばちゃんもきちんと父の了承を取ってきてくださいね。応援しています」
澄子が昔の呼び方をしてきたので、泰明も同じように呼び方を戻す。
すると彼女はますます笑顔になった。
「つれないわね。口利きしてくれないの?」
「これは僕だけの特権ですから」
その自慢げな声に、澄子はとうとう声を出して笑った。
一方の青年はなにか面白いことを言っただろうかと首をかしげる。
「お屋敷のことで泰幸お兄さんの了承をもらうのは至難の業ねぇ。あなたは一体どんな魔法を使ったのかしら」
「魔法なんかじゃないですよ。ちょっと交渉してみただけです」
「ということは、それなりの見返りが必要ってことよね? あなたのお父さんが満足するものなんて私には出せそうにないわ。それこそ魔法でも使わなきゃ」
泰明は叔母の言葉に返事はせず小さな笑みを返す。
魔法ではないと言ったものの、彼女の言葉はあながち的外れでもなかった。
泰明が特権を得るために用いたのは『耳』――鼠の姿をした式だった。
それは世話役に伝わる秘術ではなく己で開発したもので、使用時の制限は多いもののうまく使えば『眼』よりはるかに有用だといえる。
これからの時代は情報戦だ。
それを知っている父だからこそ売り込めるそれは、簡単に言えば隠密――父が指定した場所での盗聴を適宜請け負うことだった。
(父さんもなぁ。もうちょっと柔軟になってくれてもいいのに)
ふいに涙ぐむ父の顔を思い出し、青年は少しだけ罪悪感を覚える。
清濁あわせ持つ泰幸ではあるが、盗聴は彼の仁義から外れるものだとわかっていた。普通の交渉ではうまくいかない可能性が高く、そのためささやかな脅しと論より証拠の意味も込めて提出したのがガリ版刷りした一枚の紙だった。
紙面に載せたのは父が母に贈っただだ甘いポエムの数々。
そのこっ恥ずかしい愛の詩が語られた状況――東京のパーティーに出席した両親が宿泊した先、そこでの睦言だということに気づいた父は、ガリ切りしたロウ原紙も渡す条件でこちらの要望に応じてくれたのだった。
親を脅すのかと謗られたが、この程度で済むだけまだマシだと思ってほしい。
(そもそも悪いのは父さんだし。屋敷に通ってもいいって言ったくせに反故にしようとするからいけないんだし……)
少し前からまたなんのかんの屋敷通いを控えるよう言われたために、こちらも強硬手段に出るしかなかったのだ。
一応父にもメリットはあるのだからそれで良しとしてほしい。
子どもじみた言い訳を胸の内ですると、泰明は持ってきた煎餅の缶の蓋を持ち上げた。




