78.抱擁
「それでは姫様、おやすみなさい」
「ああ。おやすみ泰明」
身支度とあいさつをすませた泰明さんは、玄関を出て数歩先で立ち止まる。
わたしが玄関の戸を閉めるとくるりと振り返って満面の笑みで両手を広げた。
「それじゃあ、お願いします」
「う……」
「そんなに身構えないで。ほら、これは治療みたいなものだから」
「そ、そうですよね。治療ですよね!」
治療なら仕方ない。
なにもやましいことはないんだし、変に恥ずかしがってはかえって相手を困らせてしまう。きっとそう。多分そう。
「失礼します!」
勢いをつけてドンと抱きつくと、頭上からくすくすと楽しそうな笑いが降ってきた。
「ふふ、お相撲さんみたいだね」
背中に手が回ってぎゅっと抱きしめられる。
コート特有の硬い感触が額や頬に触れて少しこそばゆい。二月の夜は凍えるほど寒いはずなのに、今は熱くなった身体を心地よく冷ましてくれていた。
「はぁー……癒されるなぁ」
「それはよかったです。治療といえば、昨日の手の傷は痛くないですか? 大丈夫ですか?」
嬉しそうな声にドギマギしつつ、気になっていたことを聞く。
泰明さんは昨夜、自分の爪で手のひらを怪我していた。今は包帯をしてないから浅い傷だったのかもしれないけど、やっぱり気にかかる。
「うん、大丈夫だよ。いつも心配してくれてありがとう。そんな風に言ってくれるの、あかりだけだよ」
「そ、そんなことはないと思いますよ。みんな泰明さんのこと、心配していると思います」
「あはは。確かにいろんな意味で心配されてるかも」
泰明さんはおかしそうに笑うとわたしの肩に顔を寄せてきた。
「ねぇ、あかりは? 僕とぎゅっとして癒される?」
「は、はい……」
本当は癒されるどころかドギマギして、むしろ神経が高ぶってしまうけど。
それに恥ずかしい。
けど――嬉しい。
なんだか足元が泥沼にはまって沈んでいくような怖さがあるけど、同時にどきどきわくわくするような不思議な高揚感もあった。
ふいに巻いていた毛糸のマフラーとは違う感触がして硬直する。
耳のすぐ下にぴたりと当てられているものは、もしかして、いやもしかしなくても――唇だろうか。
「あかり、まだ少しお化粧の匂いがするね。椿油の匂いもする」
首筋からじかに伝わる声と温かな息に、全身が焼け焦げるかと思った。
すーっと深呼吸するような音にじわりと汗が出る。
「あああの、わたし今日ちょっと汗かいたので! あんまり近づくとええとそのっ、臭いですよ!?」
ただでさえ今日はあたたかい屋内をたくさん歩いて汗をかいている。
今も緊張と変な興奮で新たに汗が出てしまい、自分でもいい匂いとはかけ離れた状態にあることはわかっている。
それなのに泰明さんはくつくつ笑って顔を離そうとはしない。
肌を震わせる低い笑い声に、お腹の底がジンと痺れる。
「そんなことないよ。すごく……そそられる」
どこか仄暗い色をした声に、なぜか腰が抜けそうになった。
抱きしめられていなければ確実によろめいていたと思う。
首筋の感触がわずかに強くなる。
ぐっと圧迫感が増したかと思うと、泰明さんの顔が少しだけ離れた。
「よかった。静電気は大丈夫そうだね」
「え? あっ、そうですね」
青年の嬉しそうな声に、ハッと我に返る。
今日は大きな静電気が二度も起きていた。これだけ密着していれば三度四度とバチバチしそうなものだけど、今のところはなんともない。
「ところであかり。九摩留からもらった根付だけど……本当に懐中時計につけるの?」
「ええ、そのつもりですが」
「えー本当に? つけちゃっていいの?」
青年のわざとらしい声と言い方に、目が点になる。
「いいのって……もしかしてなにか問題が?」
「だって先代夫妻のお揃いの形見に新しいおそろいの根付をつけるってことでしょ? そんなの村のみんなが誤解しちゃうよ。あーあの二人、恋仲なんだーって」
「それは困りますッ!」
恋仲という言葉に、反射的に声が出ていた。
わたしと九摩留は姉弟であって、姉弟仲はよくありたいけど恋仲だと思われるのはとても困る。
でも……どうしよう。九摩留には懐中時計につけると言ってしまった。
今さら別のものにつけると言ったら、それはそれで変に意識してしまっているようで気恥ずかしい。それに彼にもそれを見透かされそうな気がする。
絶対にからかわれる気がする。
「そうだよね、困るよね。だからあれをつけるのはちょっとだけ……せめて明日か明後日まで待っててほしいんだ」
「わ……かりました」
泰明さんの言葉に返事をするも、なんでだろうという気持ちが声に出ていたらしい。首元から笑う気配が伝わってきた。
「ほら、ご飯のお礼に栞を渡してるでしょ? 今回はあれの代わりに根付を作ってくるから。僕が作ったやつもつけておけば、村の人たちも誤解しないと思うんだよね」
「それは……」
「悪いとか申し訳ないとか思ったら、今すぐ首に噛みつくよ?」
笑いまじりの――でも少し低い声にギクッとなる。
固まっていると、背中にある手がなだめるようにぽんぽんと叩いてきた。
「これまで通り、栞も根付もちゃんと受け取ってほしいな。それはほんとにごくごくささやかなものだから。君が気にするほどのものじゃないからね」
「……はい。どうもありがとうございます」
「こっちこそ、今日は箸のお土産をありがとう」
お礼を言うと、逆にお礼を返される。
「本当に、すっっっごく嬉しかった」
実感がたっぷり込められた声に胸があたたかくなる。と同時に、全身の熱もだんだんとなだらかになっていく。
胸はドキドキしているのに不思議と落ち着きも出てきて、痺れるような熱いお風呂に身体が慣れた時のような幸福感に包まれた。
わたしは今、きっと癒されてる。
「よ、喜んでいただけて、こちらこそ嬉しいです。でもそんなに大したものじゃないですよ?」
「僕にとっては大したものだよ。だって、家族ってひとりひとり専用の食器を持ってるでしょ? でも屋敷には僕専用のものってなかったから」
当たり前といえば当たり前なんだけどさ、と青年は笑いを含ませて続ける。
「だから僕だけの箸をもらえて、あぁ本当に家族だと思ってもらえてるんだなぁって思ったんだよね。心のつながりって目には見えないから……あんなふうに目で見て実感できる物があると安心もするし。あらためてプレゼントって嬉しいものだね」
「同じものを使うと団結感が出たり、贈られた物を見て贈ってくれた人のことやそのときあったこととか、いろいろ思い出せたりしますもんね」
小学校の運動会では、組ごとに与えられた色でハチマキを作った。中学校の運動会でも組ごとにシンボルマークを考えて、そのマークが入った大きな旗と半被を作った。
そのおかげで絶対にうちの組が優勝するんだ! という気持ちも高まったし、なんなら運動会が終わった後も他の組の子に対して、みんなちょっとだけ対抗意識が残っていた気がする。
クリスマスには倉橋様夫妻、それに泰明さんからも贈り物をいただいていて、その一つ一つに思い出がある。
普段使わせてもらっている泰明さんお手製の栞も、なんとなしに眺めてはくすぐったい気持ちになって足をばたつかせていた。
ふいに、今年の泰明さんへのクリスマスプレゼントを思いついた。
そのプレゼントにかこつけるわけではないけど……さらなる思いつきに心臓が音を立てはじめる。
これを言うか言うまいか。運命の分かれ道というほどじゃないけど、自分にはものすごく大きなことのように感じられて緊張が高まっていく。
「……また出かけた時に泰明さん用の食器を選んできますね。それから、もしご迷惑じゃなければ、今年のクリスマスの贈り物は長着にしようかと――」
「ほんと!?」
「はっ、はい」
ガバっと身体を離して目の前に青年の顔が来る。
パッと大きく咲いた笑顔に、わたしもなぜかはしゃぎたくなってしまう。
「ありがとう、ぜひお願いします」
彼の返事に、わたしはひとまず胸をなでおろした。
九摩留に作ってあげた長着をずっとうらやましそうに見ていたし、いいなぁと何度もつぶやいていたから、どうだろうかと思ったのだけど。
相手が本当に欲しがっているものを贈れるなら、わたしにとってもこれ以上喜ばしいことはない。
「わぁ、どうしよう。すごく……ものすっごく嬉しい。うわぁ、わーっ」
「あのぉーそれでですね。ひとつそのぉー、ご相談が、ありまして」
子どものようにはしゃぐ青年に、わたしはなるべく普段通りに、さりげなさを装いながら続けた。
「屋敷にはもう反物がなくってですね、それにそのー、やっぱり人それぞれ好みもあると思うんですよね、ええほんと。だからえーと、例えばなんですけど……い、いいい一緒に、かっ買いに行きませんか? 反物を……」
結果的に全然さりげなくなっていないものの、なんとか勇気を振り絞って最後まで言い切ることができた。
でも相手のキョトンとした顔に――あ、やってしまったと思った。
「すみません! 今のは――」
「行く! 明日行こう!」
「明日!? わ、ちょ、泰明さん!」
突然腰を掴まれたかと思うと、小さい子を高い高いするように持ち上げられて、おまけにぐるぐると回されてしまう。
怖くなって彼の手を全力で掴んだ途端、バチン! と大きな音がした。
青年の顔がハッと強張り、すぐに地面に降ろされる。
「ご、ごめん。いきなりごめんね。怖かったよね」
「だ、だいじょぶです……」
まだ心臓がバクバクいってるけど、深呼吸してなんとか気持ちを落ち着かせる。
そうしてる間にも泰明さんがこちらにずいっと顔を寄せてきた。
「さすがに明日は急だったよね。じゃあ今度の日曜日とかどう?」
「今度の日曜日は……すみません、ちょっと予定がありまして」
その日はオビシャの日。的射の神事と盛大な直会がある。
わたしは直会の準備があるから出かけることはできない。
「えっと、クリスマスはまだまだ先ですし。買い物に出かけるのは次の秋とかでも……」
言っている途中で、ふいに加加姫様のことが頭をよぎった。
その頃には泰明さんのお見合いの件も終わっているだろうし、屋敷に大きな変化があるかもしれない。きっと喜ばしい変化が。
二人の祝言姿を思い浮かべて、舌が急に重くなる。
「じゃあ九月。お彼岸を過ぎた頃は?」
泰明さんは目を輝かせながらわたしの両手を握りしめる。
「そのときはあかりのプレゼントも一緒に選ぼうね。僕もあかりが本当に欲しいと思うものを贈りたいし」
「ありがとうございます。じゃあ、そうしましょうか」
「うん、約束ね。あ、この前話したセーターの件だけど、それは今月買いに行こうよ。次の姫様のおこもりのときとかどう? それなら――」
喋りながらも青年は両腕を広げる。
え、と思うのと屋敷の玄関が音を立てたのは同時だった。
うしろを見ると、褞袍の前をしっかりかき寄せた少女が寒そうにこちらへ歩いてくる。
「泰明よ、いつまでやるつもりだ。あかりが風邪をひくだろう。もう帰れ」
「…………ケチ」
「あん?」
「泰明さん?」
いつもは敬語を崩さない青年が、ものすごく子どもじみた悪態をつく。
ひくりと口の端を歪ませる少女と急に険しい目をする青年に挟まれて、わたしの背中を冷や汗が伝う。
「非情。狭隘。奸悪――」
「カッカッカ。……ちとおぬしを甘やかしすぎたかの。どうやら再教育が必要らしい」
「泰明さん一回口を閉じてください。ほらほら姫様も本気になっちゃダメですよー」
ぶつぶつ聞こえる声をうしろに、白髪を褞袍をゆらめかせる少女に急いで駆けよる。
視界をさえぎるように小柄な身体を抱きしめて頭をくり返しなでれば、その気配は穏やかになっていった。
腰回りに手が伸びてきて、姫様がわたしのお腹に顔をうずめる。
「んふふふふ。あかりはわしのほうが大事と見た。まっこと愛い嫁御であるなぁ」
「そうですよ、姫様がいっちばん大事に決まってるじゃないですか。泰明さんだって好きな子の気を引きたくて、ついつい悪口を言っちゃっただけですから。大目に見てあげてください」
ぎゅっと強く抱きしめつつ顔だけうしろに巡らせて、青年に早く謝るよう口の形だけで促す。
彼は黒々した気配をまといつつも、しぶしぶと頭を下げた。
「申し訳ございませんでした。大変なご無礼をどうかお許しください」
「ふん、まぁよい。嫁御に免じて許してやろう。わしは愛妻家であるゆえ……なぁ、あかり?」
「姫様の慈悲深さは世界一、いえ宇宙一です!」
姫様はわたしの脇から顔を出すと、帰れ帰れはよ帰れと繰り返す。
わたしもうしろに向けて何度も頭を下げつつお引き取りをお願いすると、青年はため息をついてきびすを返した。




