72.デパートの大食堂
私鉄から国鉄に乗り換えて列車に揺られること二十分。片道二時間ほどの道のりを経て、ついに目的の駅へと降り立った。
その頃にはわたしも九摩留も行きがけの妙な空気なんてすっかり忘れて、里山とは違う排気ガス混じりの匂いにくらくらワクワクしていた。
「おぉ~村とは全然違うなぁ。これが都会ってやつか」
「そっか、九摩留は町にも行ったことがなかったものね。勝手が違ってびっくりでしょ。でも驚くのはまだ早いわよー」
大きな駅からまっすぐ伸びる道路は村にあるどの道路よりも大きい。そして道の両脇にお店が並んでいる。
たったこれだけでも村とは全然違うけど、でもこれはまだ序の口なのだ。
道路を進むにつれてお店の数は増え、人も自動車もどんどん増えていく。道幅もよりいっそう広くなっていき、その両端には人専用の舗装された道さえ現れる。
はじめての都会に九摩留はずっと口を開けたまま、せわしなく顔を動かしている。
顔だけでなく足もふらりふらりと蛇行させるから見ていてちょっと危なっかしい。
「ほら九摩留、他の人の邪魔になるからこっちに――」
「あかり、あれなんだ!?」
突然男は向こうの歩道を指さし――そのままバッと道路に飛び出した。
一瞬で全身が凍りつく。
わたしが声を出すより先に、走りかけた九摩留の横でオート三輪がタイヤを軋ませて急停止した。荷台に積まれた瓶同士が激しくぶつかり、そのけたたましさに辺りが一瞬騒然となる。
「馬ッ鹿野郎! 死にてえのか!」
「ご、ごめんなさい!」
間髪入れずに響く怒りのドラ声に、わたしもとっさに大声で謝る。
まわりの人が何事かと注目するなかで、当の九摩留は目を見開いて完全に硬直していた。
「ほら九摩留こっち! 本当にごめんなさい! どうもすみませんでした!」
九摩留の腕を引っぱってなんとか歩道に連れ戻し、窓から身を乗り出すおじさんに何度も頭を下げる。
おじさんは鬼の形相だったものの、オート三輪を降りてくることはなかった。気をつけろ馬鹿野郎! と叫んでそのまま行ってしまう。
「く……く、九摩留ぅ~」
「わ、悪ぃ……つい……」
今になって冷や汗がぶわっと出る。膝が震えてくる。
九摩留に怪我がなくて本当によかった……。
でも、おじさんには迷惑をかけるしまわりの目も集めてしまった。
思わずため息をつくと九摩留がうつむく。
「ごめん……あかり」
しょんぼりとうなだれる彼に、わたしもそれ以上はなにも言えなかった。
九摩留にとってはこれがはじめての都会。
人も自動車もたくさんで、その交通量は村とは比べ物にならない。
そう、九摩留はなにも悪くない――完全にわたしの注意不足だった。
「ううん、わたしこそもっとちゃんと見てなきゃいけなかったのに。ごめんね九摩留。怖かったよね」
謝ってから、男の腕にそっと触れる。
彼は顔をあげようとしない。
「九摩留、狐に戻らなくてえらかったね。髪だって黒いままだし。あんなにびっくりしたのにすごいじゃない」
動かなくなってしまった彼の手を取ってしっかり握りこむ。
ようやくこちらを見た琥珀の瞳ににっこりと笑いかけて、その大きな手を優しく引っぱった。
わたしも最初の頃はちょろちょろして、お母さんに怒られながら手を引かれたものだ。
「ほら、手を繋いで行こ? 九摩留はお店側を歩いて、それからわたしのちょっと後ろを歩いてね。見たいものがあったら端によってから立ち止まること。それから、くれぐれも手は離さないこと。いいですか?」
はた目には大人の男女が破廉恥な、と映るかもしれないけど、命には代えられない。
わたしが九摩留を守るのだ。
「お返事は?」
「……ぉう」
こっくりとうなずく九摩留はわたしの手をギリッと力強く握ってくる。
「いたいいたいっ、力入れすぎだってば」
とっさに抗議すると、男はハッとしたように一度手を離し、すぐに程よい力加減で手を握ってきた。
かわいそうに、よっぽど怖かったのだろう。
「もうすぐデパートだからね。入ったらお手洗いをすませて、大食堂に行って腹ごしらえしましょう。お腹空いたねぇ。九摩留はなにが食べたい?」
彼はこちらを見てもぐもぐと口を動かす。
声は聞こえなかったけど、どうやら少し元気になったようで表情は明るくなっていた。
目元が少し赤いのは、轢かれそうになってショックだったからだろうか。
「おいしいもの、いっぱい食べようね!」
わたしの言葉に大きな弟は何度もうなずき、少しだけ握った手の力を強くした。
デパートの最上階にある大食堂は正午の鐘が鳴る前とはいえ混雑していた。すでに入口までに人の列ができている。
「九摩留、大丈夫?」
「ぉぅ……」
うしろに声をかけると、あまり大丈夫そうじゃない声が返ってくる。
その後調子を取り戻した九摩留はデパートをはじめとする巨大な建物に、そしてエスカレーターという動く階段にずっと驚きっぱなしで、なんなら驚き疲れているようだった。
人の姿をしているとはいえ嗅覚鋭い狐だから、せわしなく行きかう自動車や人間の匂い、動きに少し酔ったのかもしれない。若干顔色がよくない。
「あ、ほら見て。ここにあるものならなんでも食べられるわよ。どれがいいか選んでね」
「ぉ、おおおっ。すげぇ!」
列が進んで、壁際に設置されたショーケースの前でちょうど立ち止まる。
ガラスでできた棚のなかには和洋中のいろんな料理が見本として並んでいた。どれも蝋でできているらしいけど、まるで本物のようにそっくりで色鮮やかだ。
見ているだけでよだれが出そうになる。
でもわたしはいつも煮玉子入りのラーメンや餡のかかったかた焼きそば、ウズラの卵がのった八宝菜など中華を選んでしまうのだった。どれも村では食べることができない料理といえる。
そしてあちこち歩き回って休憩するときには、大食堂か地下の喫茶室、あるいは屋上の売店でソフトクリームかクリームソーダを頼むのがお決まりだった。
「あかり。俺、これがいい」
時間がかかるかと思った九摩留の選択は意外にも早かった。
指さした先にあるのはいろいろな料理が載ったにぎやかな洋皿だった。
小さなハンバーグにオムレツ、エビフライ、日の丸国旗が挿さった山型のケチャップライスが彩りよく盛りつけてある。
お皿のかたわらにはおもちゃの自動車とオレンジジュースの入ったグラスが置かれていた。
しまった、これは盲点だった。
「九摩留、ごめんね。あれはお子様ランチといって、子どもじゃないと頼めないものなの」
「お子様ランチ?」
「九摩留はもう大人でしょ。あれは小学生くらいまでじゃなきゃ――」
「俺、大人じゃねえよ?」
「え」
「だって俺、まだ四歳だろ? 立派な子どもじゃん。頼めるじゃん」
胸を張って誇らしそうな顔をする見た目三十路超えの男に、まわりでくすくすと笑い声があがる。
「やぁねえもう、ずいぶんとサバ読むじゃないの」
「うふふ。面白い旦那さんねぇ」
「え!? いえっ、この子は旦那じゃ――」
「そう。俺はコイツの旦那です」
「九摩留、馬鹿言わないの」
ぐいっと肩を抱き寄せられて、その手を思い切りつねりあげる。
そこでまたくすくすと笑いが起きた。は、恥ずかしい。
「とにかく、それは駄目なの。だからえーと……そうだ、ハンバーグ定食とエビフライ定食を頼んで半分こしましょ。ね、それならいいでしょ?」
「俺あの旗が欲しいのに……」
「そう言われても……今日は我慢してあきらめてちょうだい。ほら、デザートも食べていいから、なんでも好きなのを選んで。ほらほら、どれ食べたい?」
「じゃあ、これ」
そうこうしているうちに列は少しずつ動いていつの間にか入口に到着していた。
入ってすぐのレジで食券を買うと、奥の空いているところに着席する。
本当は窓際から景色を眺めながら食べたかったけど、残念ながらそちらはすべて埋まっていた。
すぐにウエイトレスさんがやってきて食券の半分をちぎってもっていく。
マントを脱いで着物姿になった九摩留は例によってキョロキョロソワソワと、ちょっと落ち着きがない。
それでも席を立ったりはせず、こちらの予想に反してとてもお行儀がいい。
「なんだか不思議ね」
「なにがだ?」
「九摩留とこうしてデパートに来て、一緒に食堂に入る日がくるなんてね」
白いテーブルクロスの上にちょっとお行儀悪く頬杖をついて、くすっと笑う。
わたしの正面に座るのはいつもお母さんか友達だった。一度だけ、お父さんのときもあった。
今は九摩留がわたしの前に座っている。
「そういえばさっき、知らない人とも喋れてたね。もう人間は怖くない?」
「別に最初っから人間なんて怖くねぇし。知らねえ奴が嫌なだけだし。……いや知ってる奴でも嫌なのはいるか」
男は眉間にしわを寄せはじめる。
わたしは頬杖をやめて急いで話題を変えた。
「葉月ちゃんとのお仕事はどう? 最初はいろいろ割ってたって聞いたけど。そもそも出会いはどんな感じだったの?」
「ああ、ありゃあ屋敷に入ってまだそんなに経ってないときだったかな。お姫にイタズラして昼飯抜きんなったから、川で魚でも取るかーって行ったらよ、あいつがいたんだ」
九摩留が腕を組んで椅子に深く座る。喋り方もゆったりして、どこかくつろいでいるようだった。
「なんか火ぃ焚いてうまそうなもん食っててよ。遠くから見てたら、一緒に食うかって急に俺に声かけてきて。そんときゃ逃げたけど、また昼飯抜きんなったときに川に行ったら葉月がまたいて」
「あー、もしかして葉月ちゃんがキャンプに凝ってるって言ってたときかな」
葉月ちゃんの喫茶店がお休みの日、山奥の川辺で釣りをしながらのんびり過ごすのが楽しいと話してくれたときがあった。
「そんでまた見てたら、なんかすげーいい匂いのやつ、遠くの岩の上に置いてくれてよ。毒でも罠でもなさそうだったから食ってみたら、これがうめーのなんのって」
「いいなぁ。わたしもそれ食べてみたいなぁ」
葉月ちゃんの料理は一級品だ。東京で外国人の料理長のもと、いろんな国の料理を学んだと聞いている。
キャンプであっても、きっととびきり美味しい洋食を作っていたのだろう。
「もっと食いたかったから葉月のあとをつけて、飯抜きになるたびに店の近くをうろうろして。それからの付き合いってやつかな。でも店の食いもんはタダにするわけにゃいかねえってんで、仕事を手伝うことになったんだ。手伝ったらまたうまいもの食わしてやるって言われたから。だからたまに手伝ってた」
「そっか。そっちのお仕事は楽しい?」
「屋敷の仕事よりはマシだな。つっても葉月の奴、怒ると滅茶苦茶怖ぇけどさ。でもなーんか居心地いいんだよな」
「ふふ。葉月ちゃんは狐っ子だから九摩留も居心地がいいのかな」
倉橋家に生まれると生後間もなくして姫様に異形の血の濃さを判別される。そして異形の血の割合で蛇っ子、狐っ子と呼ばれたりする。
葉月ちゃんの場合は狐っ子――蛇より狐の血が強いそうだ。その性質を割合にすると狐の血が六十、蛇の血が十、人の血が三十ということらしい。
人間とまったく同じ身体のつくりをしているものの、性質は獣寄りなのだそうだ。
世話役候補でない倉橋家の人が異形の血を五十以上も持つことは滅多になく、久しぶりに異形の血が濃いと言われた倉橋様でさえ狐が四十、蛇が十という数字だから、九摩留がすんなり懐いたのもわかる気がする。
ちなみに泰明さんは狐が三、蛇が九十であるらしく、世話役候補の中でも異例中の異例だと姫様が言っていた。
料理が運ばれてきたので、さっそくおかずを半分交換してからまたお喋りに興じる。
頼んだのはお子様ランチじゃないけど、九摩留はご機嫌な様子でエビフライとハンバーグを交互に食べながら喫茶店での仕事、やってくる村の人たち、それから葉月ちゃんの話をしてくれた。
食後のデザートはプリンアラモード。
横長のガラスの器中央にプリンがのっかり、そのまわりをホイップクリームやバナナ、缶詰の桃にパイナップルが取り囲むなんとも贅沢なデザートだ。
プリンの上にちょんとのったホイップクリームと真っ赤なサクランボがこれまたとっても可愛らしい。
スプーンにプリンとホイップクリームを載せてぷるぷる揺らす彼の眉間に、もう皺は入っていなかった。




