68.試着会(後)
「あかりや。着替えはすんだかえ」
「はい」
返事をすると納戸の引き戸がすらりと開く。
男たちの前で怒りをあらわにしたであろう少女は何事もなかったように中に入ってくると後ろ手で戸を閉める。
品定めをするようにわたしの頭からつま先まで視線をゆっくり滑らせると、うなずいて可憐な笑みを浮かべた。
「思った通りよく似合うな。美しいぞ、あかりよ」
「えへ……ありがとうございます」
緋袴と白衣を脱いで着付けたのは、黒地に赤紫の線が入った大人っぽい袷の着物。
帯は白地に花唐草模様のものを合わせている。
倉橋様夫妻からこの反物をいただいたのは数年前のクリスマスで、仕立ててはみたもののこれを着て出かけようと思ったのは今回が初めてだったりする。
当時は想像以上に大人っぽい着物ができてしまい、どうしたものかと思っていたけど、今なら少しはこの着物にふさわしい大人の空気を出せている……はず。多分。
「せっかくだから男どもにも見せてやろうかの。そうだ、紅も軽く……」
勝手知ったる姫様は文机の上にある千代紙で飾られた卓上箪笥の前に座ると、小さな引き出しから口紅やアイシャドウを出して並べていく。
最近流行の油性肌色ファンデーションも含めて、こういったものはすべて葉月ちゃんからのいただきものだった。
でも普段していることといえばヘチマ水をつけることと姫様のすすめで眉の形をちょっと整えるくらい。
成人してからはお父さんのお許しが出たこともあって、友達と映画館やデパートに行くときには軽くお化粧をするけど、この一年はずっと村から出なかったので箪笥の肥やし状態だった。
「ふむ、葉月はわかっておるな。流行りもいいが基本の色も大事ゆえ」
昨今の流行色といえば、口紅はローマンピンクでアイシャドウは青や緑。
でも姫様が手にしたのは真紅の口紅と赤茶色のアイシャドウだった。
口紅で手の甲に小さな丸を描くと薬指の腹でそれを拭き取ってしまう。
「普段のあかりには珊瑚色の紅があうが、その着物には赤がよかろうてな。さぁ、ここにお座り」
言われるがまま姫様の前に正座すると、逆に姫様は膝立ちになってわたしのあごを軽く上向かせた。
軽く開いた唇に細い指がとんとんと触れて、ぺたりとした感触が残っていく。
じっと赤い眼に見つめられたあと、ふたたび唇の内側付近、そして真ん中あたりをとんとんと叩かれる。
渡された懐紙を唇に挟んでいると、次に姫様は赤みのある茶色のアイシャドウを小指の先に取り、わたしの目尻にすいっと滑らせる。
それからまた顔を少し離してじっとこちらを見たあと、今度は鉛筆立てから眉墨鉛筆を選び取ってまぶたの縁を優しくなぞっていった。
「これでよし。やはりおぬしは寒色より暖色のほうがよいの。……んふふ、嫁を着飾るのは楽しいのう」
姫様はご機嫌な様子でわたしを見つめつつ、鉛筆立てに紛れていた簪をひょいと取る。
前かがみになってわたしの頭を抱えるようにすると、髪を頭の上でまとめてくれているようだった。
「さて、おぬしはまだ自分の姿を確認しておらぬのだろう? 向こうの鏡台で見ておいで」
「はい。ありがとうございました」
姿見も兼ねた鏡台は、姫様の自室にもなっている奥座敷に置かれている。さっそく隣の奥座敷へ行き、大きな一面鏡にかかっている布を外した。
そこに映る人物を見て、一瞬目を疑った。
「う、わ…………」
誰だこれは、と思わずにはいられない。
鏡の中にいるのは、普段の自分とはかけ離れたひとりの大人の女性だった。
思わず二、三歩近づくと相手も驚き顔のままこちらに近寄ってくる。
まず顔が違っていた。
普段の小さな目はやや切れ長で大きくなっていて、目尻に載った赤茶と唇を染める赤がとても映えている。
華やかで、でも不思議と落ち着きがあって――衿を抜いた黒と赤紫の着物ともものすごく馴染んでいる。なんなら大人の色気のようなものさえ感じられた。
あらためて服一枚とお化粧でこんなに印象が変わるものかと驚かされる。
いつものわたしだったら似合ってないんじゃないか、みっともないんじゃないかと思っただろうけど、なぜかこの時はそんな考えが浮かんでこなかった。
それほどまでに、なんだかよくわからないけど、すべてがカチリと噛み合ったかのように調和していると思えた。
「男ども、こちらへ来やれ」
奥座敷に来た姫様がどこか自慢げな声で座敷側の襖を開くと、無言でにらみ合っていた二人がわたしに視線を向けてくる。
途端、二人もぽかんとしたように口を開けた。
「うお……すっげぇ! あかり、いつもと全然違うじゃねえか! すっげー……あかりが女になってる。これが葉月の言う『化ける』ってやつか」
「九摩留こそ、すっかり見違えちゃったじゃない!」
すげぇすげぇと大騒ぎしながら奥座敷に入ってきたのは、野趣あふれる偉丈夫だった。
いつもの粗野な雰囲気はどこへやら、やや浅黒い肌に焦げ茶色の長着がしっくり馴染んで似合っている。帯は白と茶の縞模様で、自分でやったのかはたまたやってもらったのか、しっかりと貝の口に締めてあった。
よく見ればいつもボサボサのまま首の後ろでくくられた黄褐色の髪も丁寧に梳かされて艶が出ている。
「うんうん、丈も大丈夫そうね。その着物、よく似合ってるわよ」
九摩留の周りを歩きながらいろんな角度から確認し、問題なさそうだとわかったところで彼の前に立ち視線を合わせる。
わたしよりも背が高くなってしまった九摩留を見上げて、なんだか急に感慨深い気持ちになった。
「大きくなったねぇ、九摩留」
泥団子を作っては屋敷の壁や人に投げていた子が。
作務衣のポケットに大量のダンゴムシを入れていた子が。
空いたクッキーの缶カンに蝉を詰めてちゃぶ台に置いていた子が。
「あかり、顔怖い」
「ご、ごめん」
うっかりイタズラの数々を思い出してしまった。
いつものように笑いかけると、なぜか男の顔が強張る。
手が顔のほうに伸びてきて、でもそれが触れることはなかった。
「触るな」
「離せよ」
泰明さんが九摩留の手首を掴んで、また二人がにらみ合う。
「あのー」
「あかり。本当に、すごく綺麗。いつもだってとても可愛いけど、今の君は特別大人っぽくて艶っぽくて……匂い立つような美しさというか。普段が満開の菜の花なら、今は夜に浮かぶ躑躅みたい。すごく……すごい」
「い、いやぁ、全然そんなことないですよ。言いすぎですって」
怒涛のほめ言葉に嬉しさより恥ずかしさが上回る。
穴が開きそうなほど強く熱っぽく見られて、ものすごく落ち着かない。
あと少しだけ目が怖い。
「ケッ、歯の浮くようなこと言ってんじゃねえよ。こんなん……馬子にも衣装? いつもよりはちったあマシってだけだろ」
泰明さんの視線をさえぎるように九摩留がわたしの前に出る。
呆れたような男の声に、わたしも正気を取り戻した。
「そっそうよねー、あは、あはははは」
「そんなことないよ。本当に綺麗だよ。女性ならではの美しさとあかりの穏やかな雰囲気があわさって、神秘的だけど優しげで。ひれ伏したくなるくらい、とても素敵」
「あばっ、そ、えぅ……」
九摩留をぐいっと押しのけてなおも恥ずかしい台詞を言う青年に、わたしの思考も限界を迎えた。言葉が意味のない音になって口からもれる。
「泰明、その辺でやめておけ。あかりがゆでだこになってしまう。それより九摩留、お前は髪を黒にせよ」
姫様がわたしの正面にまわると距離を取るように手を前に伸ばす。
青年のうしろでは、鬼のような形相の九摩留がその肩をつかんでいた。
なぜか泰明さんが降参と言いたそうに両手を掲げ、数歩後ろに下がる。
「眼はそのままでもよいがな、髪がそれではちと目立つ」
「……黒にか? 黒黒黒……うー……黒黒黒」
九摩留は表情を戻すと両方のこめかみに指をあてた。
それから眉間と目頭がくっつきそうなほどぎゅっと目をつぶる。
男がしばらくうなっていると、黄褐色の毛先がじわりと黒くにじんだ。
そのまま墨汁が紙に染みるように、じわじわと黒が広がっていく。
人間にはできない摩訶不思議な光景に、彼はやっぱり人ならざるものなのだと妙に納得した。
「……これでどうだ?」
男が目を開く頃には、髪はすっかり漆黒に染まっていた。
面白いもので、髪色が黒になっただけで落ち着きのある雅な偉丈夫へと変身している。
ただ、問題なのは。
「九摩留、瞳の色まで変わっちゃってるよ?」
今度は琥珀色だった瞳が淡い茶色にほの光っている。まるでグラスの洋酒を光にかざしたみたいだ。
普段の明るい茶色はたまに見かける目の色だからそこまで気にならない。もっと色素の薄い目の人も、珍しいけどごく稀に見かける。
でも蛍のようにボゥと光る目なんて誰も見たことがないだろうし、確実に三度見くらいはされてしまいそうだ。周りに人だかりができてしまってもおかしくない。
「ふむ、力の入れすぎだな。髪を変えられただけ上等としよう」
姫様がパン! と柏手を打った瞬間、瞳がもとの琥珀に戻る。
九摩留は特になにも感じないのか、表情を変えずにぱちぱちと自然な瞬きをした。
「さて見るもの見たし、そろそろお開きにしよう。泰明、おぬしはもうお帰り」
「え、もうですか? そんな……」
姫様の言葉に泰明さんががっかりした表情を見せ、九摩留はそれをニヤニヤと眺めている。
「あかりはこの後もやることがあるのだ。そうであろ?」
「そう、ですね。さっき縫い終えたところはまだコテを当てていないので」
「というわけで、ここで解散だ。あかりの見送りも今宵はなしとする」
「「えっ」」
わたしと泰明さんの声が重なる。
思わず目が合って、なんだか気恥ずかしくなって視線をさまよわせた。
隣の九摩留から舌打ちが聞こえてくる。
「……わかりました。姫様に従います」
肩を落として残念そうな声を出す彼の姿に、一瞬浮足立つような心地がした。
もしかしてわたしと同じようにガッカリしてくれてるのかな、と思うと胸の奥がそわそわしてきてくすぐったい。
……もちろんそんなことはないのだろうけど、たまには能天気な勘違いをしたってバチは当たらないはず。
帰り支度をはじめた泰明さんを見つめながら、わたしもだいぶお気楽になってきたなぁとこっそり苦笑した。
いつも小説をお読みいただきありがとうございます!
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