66.青年の謝罪
「こんばんは……」
玄関の開く音とともに聞こえた控えめな声に、わたしは縫っていた長着を置くのももどかしく小走りしていた。
背の高い青年は上がり端の前で立ち止まると、こちらを見あげてくる。
夕食の時間はとうに過ぎていて、もしかしたら具合の悪さが長引いて今夜も来れないかと思っていたところだった。
「泰明さん! おかえりなさい、具合はもう大丈夫ですか?」
「うん……どうもありがとう。もう痛くもなんともないよ」
そう言ってふわりと笑うけど、あきらかに元気がない。
なんとなく緊張しているような硬い空気をまとっている。
本人は痛くないと言うけど、長い間酷い痛みがあったわけだから心身ともに消耗しているのかもしれない。
目の鮮血は少し色が薄くなっていて、ところどころ白い部分も見えているものの、まだ元通りとは言いがたかった。
「早く囲炉裏であたたまってください。コートお預かりしますね」
笑顔を向けて手を出したものの、彼はコートを脱ごうとしなかった。
代わりに姿勢を正すとなぜか深々と頭を下げる。
「泰明さん?」
「今回のこと、本当にごめんなさい。自分でもすごく卑劣で最低だと思う。今回だけじゃなくて他にもいろいろ……。ずっと浮かれていて、それに君に対して甘えがあったんだと思う。嫌な目にあわせて、たくさん迷惑かけて……それに心配までかけて。本当にごめんなさい」
突然の謝罪にぽかんとなる。
泰明さんがしたことといったら、具合が悪いのを隠していたことくらい。
結果的に倒れてしまったものの自分をそこまで悪く言う必要はないと思う。
「そんな、迷惑だなんてとんでもないです。大丈夫ですから、だからどうか顔をあげてください」
「泰明。最近のおぬしは謝罪するようなことばかりしておるな。もう少しシャンとせよ」
わたしの隣にやってきた姫様が一段低い声を出す。
泰明さんの頭がさらに深く下がった。
「姫様、どうかその辺でもう――」
少女は軽く手をあげてわたしの言葉を制止した。
怒っているわけではないとわかるけど、厳しさを感じる顔つきにわたしもそれ以上は言えなくなる。
「なぁ泰明よ。わしはおぬしを大事に思っておる。だがそれ以上にあかりを大事に思っておる。それはおぬしもわかっておるな?」
「はい……。非常に軽率であったと反省しております。申し開きもございません」
「ま、この血はかの者が絡むと瞬間的に沸騰するからの。その激しさはわしが最もよく知るところよ。人の身でよくぞ抗えているとは思う。だが、まだ足りぬ」
姫様が眼だけを動かしてこちらを見る。
そこにあるのは気づかわしそうな色だった。
「この子は我が君とは違い、抵抗する力も意思も持たない赤子のようなもの。わしの護りも完全ではない。それに、できればおぬしを罰したくはない。だからこそおぬしにかかっておるのだ」
姫様は上がり端に降りるとその場にしゃがんで、頭を下げる青年に顔を近づけた。
「近づくなとは言わぬ。触れるなとも言わぬ。だがその分おぬしは己を律しなければならぬ。それをゆめ忘れるな」
「本当に……申し訳ございませんでした。あの時制止していただけてなかったら、僕はきっと――」
「そこまで。小言はこれで仕舞いにしよう。堅苦しいのもやめだ。さ、あがるがよい」
少女が立ち上がり長い白髪を手で払う。その声はさっぱりとして明るかった。
ようやく泰明さんも顔をあげるけど、こちらは明るいとは言えなかった。
姫様と、そしてなぜかわたしまでうかがうようにちらちらと遠慮がちな目を向けてくる。
「よろしいのですか?」
「おや、よろしくないほうがよいかえ? なら――」
「寛大なお心に感謝いたします。失礼いたします」
慌てたように靴を脱いで居間にあがる姿に、わたしもほっと息を吐いた。
動きは機敏で節分のときとはまるで違う。本当に元気になったようで安心した。
泰明さんからコートを預かっていると、外から調子っぱずれの鼻歌が近づいてくる。
「おーい風呂沸いたぜー!」
勝手口からご機嫌な九摩留が戻ってきた。
と思ったら泰明さんの姿を見るなり動きを止める。見る見るうちに表情が険しくなり、ぐるぐると低い唸り声が聞こえた。
「んだよコイツ、また来たのかよ……。二度と来なくていいのによ、もー最悪だわ。気分悪ぃ」
相変わらずの彼の悪態に頭が痛くなる。
「九摩留。そんなこと言う子には新しい着物あげないんだからね」
「な! ずりーぞそれ、卑怯者ッ」
「じゃあ悪い口は直さないとね」
「悪い頭も治さんとな。あぁ、もう手遅れか」
カカカ、と囲炉裏に戻る姫様が合いの手を入れる。九摩留が目を怒らせながら口を開きかけるも、言葉は出てこなかった。
泰明さんが台所の縁に立つと――土間にいる九摩留の前に正座して頭を下げたのだ。
「九摩留。叔父さんを呼んでくれてありがとう。助かった」
「……テメェのためじゃねえ。あかりのためだ」
てっきりふざけたりからかったりするかと思った男は、静かな声を出す。
大人になった九摩留は以前に比べると感情にまかせて怒鳴ることが減った。そのかわり、目をぎらつかせて凄むように牙を剥く。
厳めしい体躯の男のそれは露骨に怒っているときよりも迫力があって、より獰猛さを感じてしまう。
「テメェのせいであかりが泣いた」
「九摩留! 違いますよ、泰明さん。わたしは泣いてないですよ?」
言わなくていいことを言う九摩留に慌てて声をあげる。
泰明さんは腿の上に置いた手を握りしめていた。その横顔がすごく辛そうで、こちらまで苦しくなる。
「次また泣かせたら爪と牙でズタズタにしてやる。よく覚えとけ」
「肝に銘じておく」
青年の神妙な声に、九摩留は舌打ちしてからお勝手に上がる。
空気が完全に冷え込んでいた。
「や、泰明さん。夕食はおすみですか? もしまだでしたら、泰明さんの分も取ってあるんですけど、召し上がりますか?」
そばに寄って試しに聞いてみると、彼は囲炉裏を振り返って少女の反応をうかがっているようだった。
姫様が鷹揚にうなずくと、すぐにわたしを振り返ってこくこくとうなずく。
「ありがとう。実はまだなにも食べてなくて……お願いします」
今日の夕飯は親子丼だったけど、泰明さん用に作ったのは別のもの――細かくした鶏肉と人参、干しきのこ類、ご飯を出汁でよく煮て卵でとじたおじやだった。
彼は病人ではないと姫様に言われていたけど、見るからに元気がない姿に病み上がりの印象がついてしまって、食欲がなくても食べやすい料理を作ってしまった。
久しぶりの箱膳に一人用の土鍋と青菜のお浸し、お漬物を載せて出すと、おじやをがっかりする食べ物だと思っている九摩留はケッと鼻で笑う。
でも泰明さんが一口食べるなり泣き笑いのような顔でおいしいとつぶやくと、たちまちずるいずるいと騒ぎだした。
「なぁなぁ、なんでこいつだけ特別扱いなんだよ。俺もあれ食いたい。食いたい食いたい食いたい!」
「あなたはもうご飯食べたでしょ? 口さみしいならミカンを食べなさい」
「ミカンは食い飽きた。俺もあれがいい。あれがいいんだよぉ~。なぁなぁあかりぃ~」
小さな子どものように九摩留が泰明さんを指差して木尻から身を乗りだしてくる。
「だーめーでーす。ミカンが嫌ならスルメを噛んでなさい」
「あかり、これ、本当においしい……」
「それはよかったです。もし物足りなかったら他にもなにか作りますけど――」
「ありがとう、でもこれで十分だよ。絶食してたから胃もすごく喜んでるみたい」
「え、絶食ですか?」
「うん。ちょっと食べられる感じじゃなかったから」
あれが食べたいと騒ぎ続ける男を無視して、泰明さんの控えめな声に耳をすませる。
チラッと木尻に目をやると、彼はすっかりふくれ面になっていた。
「うぅ~。なぁお姫、あかりになんか言ってくれよ。こんなのあれだ、差別ってやつだ」
「ふむ。では差別という字を漢字で書けたら言ってやろう。ほれ、ここに来て書いてみよ」
姫様が手招きしつつ炉縁のすぐ向こうを灰均でさっと撫でる。
九摩留は苦虫をつぶしたような顔でわたしと姫様の間にしゃがむと、火箸を取って灰の海に先端を泳がせた。
「違う」
「……」
「違う」
「…………ッ」
「違う」
「………………!」
「違う。というか、字が汚すぎてそもそも読めぬ」
「うがぁぁぁあああッ」
囲炉裏に火箸をドスッと刺すと九摩留は姫様につかみかかろうとする。それをひらりとかわして少女は手を鳴らしながら素早く逃げる。
「バーカバーカハーゲハーゲおつむよわよわおたんこなーす」
「誰がハゲだクソババア――――!」
「ちょっと二人とも、食事中の人がいるんですからバタバタしないでください。ほこりが立ちます」
歌うように悪口を言いながら囲炉裏のまわりを走る姫様とそれを追う九摩留を注意すると、少女が居間や座敷の方へ男を誘導していく。
ようやくお勝手が静かになると、泰明さんがレンゲから口を離した。
「今日は九摩留、ずいぶんと元気だね。いつもなら眠そうにしてる時間なのに」
「騒々しくてすみません。これの試着待ちで起きてもらってるんです。でも本人も全然眠気がないみたいで……」
手元の長着を軽く持ち上げると、泰明さんはなるほどとつぶやく。
青年の後ろでは九摩留が姫様を捕まえようと座敷から居間に大きく飛び込み、少女はそれを直前でかわして相手の頭を踏みつけ高く跳ぶ。
いつの間にか二人の顔には笑みが浮かび、鬼ごっこの様相をしていた。
「あの子、村を出るのもはじめてだし、デパートに行くのもはじめてなんです。だから興奮しちゃってるみたいで。今夜はもう眠れないかもしれませんね」
わたしにもそういうときがあった。
わたしがはじめてデパートに行ったのは周りの子たちよりもだいぶ遅れて、小学校も間もなく卒業という年だった。
その日の前の晩は興奮しすぎてずっと寝付けなかったし、なんなら鼻血まで出す始末だった。鼻血がないだけ九摩留は大人だと思う。
くすっと笑いながら正面の青年に目を戻すと、彼はなにやら複雑な顔をしていた。
「それだけが理由じゃないと思うけど」
沈んだ声に思わず首をかしげると泰明さんは何度か口を開きかけ、結局なにも言わずにレンゲを口に運ぶ。
前歯が当たったのかカチッ、と硬い音が耳に届いた。




