63.邪の目(2)
座敷に入ると電気をつけて部屋を明るくする。
院長先生は布団に横たわる泰明さんをちらりと見ると、すぐにはそちらに行かず床の間の前で正座し一礼した。
「加加姫様、お久しぶりでございます。無礼とは存じますが今は甥を優先させていただきます。さて泰明、喋れるか?」
正座のまま向きを変えて青年の枕元に近寄ると、往診鞄から聴診器を取りだす。
泰明さんは院長先生に赤い目を向けるとおっくうそうに手を振った。
「診察……不要です。姫様案件なので……。僕には処置も、不要」
「不要ってお前――」
「いいんです」
少しだけ強くなった口調に、院長先生の動きがぴたりと止まる。なにを思ったのか彼は聴診器をしまってしまった。
それからわたしに顔を向けると小首をかしげる。
「あかりちゃん、加加姫様は今どちらに?」
「わたしの隣、院長先生の正面に座していらっしゃいます」
「通訳いい?」
「はい」
院長先生は姿勢を正すと姫様に向けて頭を下げた。
少女もそれを受けてうなずき、白髪をさらりと揺らす。
「お久しぶりでございます加加姫様、先ほどは失礼いたしました。貴女様にお尋ねしたいことがございます。質問をお許しいただけますか?」
「久しいの、泰時。面を上げよ。答えられることなら答えてやろうぞ」
「ありがとうございます。貴女様ならご承知でしょうが、昨晩、ある男が医院に運び込まれました。その時も泰明は姫様案件――祟り障りの類であると申しました。実際に私が診て検査も行いましたが原因の特定にはいたらず……」
院長先生はわずかに気配を硬くする。
「泰明は、その者と同じ状態にあると考えてよろしいでしょうか」
「その考えでよい。正しくは泰明の受ける痛みをあの男に繋げた。この者との物理的な距離が縮まるほど、男の受ける苦痛は泰明のそれに近づく。医院ではなかなか見ものであったろ?」
「ええ。おかげで懐かしい記憶が呼び起こされました」
「お話し中すみません、どういうことですか?」
話が見えず、わたしは思わず口を挟んだ。
院長先生がこちらに目を移す。
その整った顔立ちに笑みはない。玄関で見た時は気づかなかったけど、どこか憔悴しているようだった。
「昨日の夜、林田さんが運ばれてきてね。ひどい痛みがあるとかで……でもそのときはまだマシなほうだったんだろう。うちに着く頃にはもう全力で泣き叫ぶわ暴れるわで、それはそれは凄かったよ。……野戦病院の手術を思い出しちゃった」
「野戦……病院の」
院長先生から出征後の話を聞いたことはない。聞かれても話さないと決めているのだそうだ。
でも野戦病院での話は、友達がお医者様だという中学校の先生から聞いたことがある。
戦時中の著しい物資不足の中で行われた手術。
使えるものはメスとノコギリ、針と糸のみ。
つまり麻酔薬や鎮痛薬なしの状態で、砲弾などによってちぎれかけた手足を断ち、切断面を縫合したのだという。
その状況は想像を絶するものがある。
「ま、さいわい今は物資があるからね。最後の手段で鎮静薬を使ったら効いてくれて……できることがあるのかはわからなかったけど、念のためそのまま一晩うちで経過をみてさ。んで、朝になったらもうケロリよ」
院長先生は頭を掻きながら疲れたようなため息をつく。
「念のためひと通り調べてなにもなかったから、そこでいったん終わりにしたよ。またなにかあればすぐ来るだろうからね」
「待ってください。でも泰明さんは三日三晩痛むって」
「感覚共有は一晩だけにしておいた。眠らせたのは反則だが、まぁよい。少しの間でも仕置きとしては十分だろう」
わたしが疑問を口にすると、姫様が答えてくれた。
仕置きと聞いてうめきそうになる。
道切りのとき、林田さんは結果的に姫様を貶すような発言をしてしまった。
わたしは無理やりなかったことにした――したかったけど、どうやら駄目だったらしい。大好きな泰治様との思い出を貶されたのだから、それも無理ないことかもしれないけど。
「そう考えるとお前はすごいなぁ。今、林田さん状態なんだろ? てことはなに、昨日の夕方からずっと我慢してたってこと?」
院長先生は目を丸くしながら泰明さんをのぞきこみ、でも急にその視線を険しくした。
「いや、感心してる場合じゃないな。お前どうして今日休まなかった? そんな状態でまともな判断ができるのか? まさか誤診なんてしてないだろうな」
「してません。……でも、すみませんでした。明日はお休みをいただきたいです」
「ああ、そうしとけ。まったくこの大馬鹿者め」
男はふーっと大きなため息をつく。それから再び姿勢を正した。
「加加姫様。これは患者さんたちが話していたのですが、林田さんは貴女様に不敬があったと聞いております。泰明もその口ですか?」
「いいや。こやつはさしずめ……上総某所の異能の男、異能の男は眼で殺す、というところか」
少女がわたしをちらりと見やり、急に歌うように言う。
それをいうなら京都三条糸屋の娘、糸屋の娘は目で殺す……じゃないのかなと思いつつ、謎めいた言葉を復唱する。
院長先生はわずかに眉をひそめて口の中でなにかつぶやき、すぐにぎょっと目を見開いた。
と思ったら突然手をついて額を畳につけるほど頭を下げる。
「この度は誠に申し訳ございませんでした!」
「おぬしが謝ることではない。そういうわけで、こやつにはなにもするな。薬も効かぬし、仕置きであるからな」
院長先生はこくこくうなずくと泣きそうな顔でわたしを見た。
「本当にごめんなさい、あかりちゃん。こんなの絶対謝ってすむことじゃないけど、俺、なんてお詫びしたらいいか……。もう先代殿にあわせる顔もないよ」
「え? いえ謝られるようなことはなにも――」
「泰時よ、大事ない。無事だ。阻止した」
「よかったー!」
院長先生は姫様の言ったことを理解しているようだけど、わたしは相変わらずなにがなにやらさっぱりだった。
置いてきぼりのわたしをしり目に、男は青年のこめかみを指で激しくつつく。
痛みが増すのか、彼は噛みしめた唇を真一文字に引き結んだ。
「おい泰明、本当にいい加減にしてくれ。このままだと俺は冗談抜きでお前を去勢せにゃならん。なぁ、俺の今の気持ちがわかるか? 俺は甥っ子の局部をちょん切るために医師になったわけじゃないんだぞ?」
「ぐぅ」
「寝たふりするな馬鹿たれ。あかりちゃん、ちょっと豆持ってきてもらえる?」
「いいですけど、どうするんですか?」
「今日は節分だから泰明に豆をぶつけ……こわいこわいこわい嘘ですごめんなさい」
「あかり。深呼吸して笑顔だ。ほら、にっこりー」
姫様の小さな手がわたしの頬をむにゅむにゅ揉んでくる。
瞬間的にこみあげた怒りをなんとか抑えて、ぎこちなくではあるけど笑みを浮かべた。
院長先生も表情をやわらげる。
「では、私はこれを回収して帰らせていただきます。あ、最後にもうひとつだけ。後遺症や、なにか他への影響は――」
「ない。安心して帰るがよい」
院長先生は、やっぱり泰明さんのことが心配なのだろう。
姫様の言葉を伝えるとすごくほっとした表情を浮かべた。
背中におんぶされた泰明さんは、なにか言いたそうにこちらを見たけどすぐに目をつぶってしまった。
ずっと泣き言ひとつ言わなかったけど、多分もう限界なのだろう。
院長先生の乗ってきたオート三輪のところまでお見送りに行きたかったけど、姫様に止められて、仕方なく門扉のところで二人を見送った。
少ししてからエンジンの音が聞こえてくる。
山道を下るタイヤの音が完全に聞こえなくなるまで、わたしは門扉から離れることができなかった。




