61.狐の主張
節分の豆打ちが終わってすぐ、わたしは黒の羽織からいつもの白い割烹着に着替えて準備に取りかかった。
とはいえ、他のおかずは作ってあるからやることといったら鰯を揚げることくらい。
揚げた天ぷらは真ん中あたりで斜めに切り、平皿に盛りつける。その切り口は梅肉の赤、針生姜の黄、鰯の白が渦巻き模様になっていてなんとも可愛らしい。
お皿の端にはおろしておいた生姜を軽く絞って小さく山型に載せた。
「はい、これが最後よ」
「おう」
九摩留の持つお盆に全員分のお皿を載せると、わたしはすぐに手を洗って割烹着を脱いだ。
急いで囲炉裏のかか座についてご飯をよそろうとすると、正面で静かに目を閉じていた泰明さんがゆっくりと口を開く。
「あかり、僕のはちょっとだけでいいよ」
「あ、じゃあ……これくらいですか?」
彼の茶碗にいつもの半分ほどご飯をよそると、青年は困ったように笑う。
「その半分くらいで」
「……だいぶ具合が悪いんですね? 少し横になりますか? 九摩留、倉橋様のところに行ってお迎えを――」
「いい、平気。大丈夫」
「でも」
「あかり、泰明の好きにさせておやり」
「姫様……」
純白の着物の上に分厚い褞袍を着込んだ姫様は、どこか意味ありげな笑みを浮かべて手酌をしている。
じっと泰明さんの顔を見ていた九摩留がふいに目を輝かせた。
「なに、お前飯食わねぇの? じゃあその天ぷらもらっていいか?」
「九摩留、あなたって子はどうしてそう……だいたい鰯は好きじゃないんでしょ?」
「焼いただけならな。これは俺の好きな天ぷらだし、それに俺がクセェって言ったから手をかけてくれたんだろ? あー俺って愛されてるー」
「ちょ、別にそういうわけじゃ」
たしかに鰯は臭みが強いから処理は念入りにした。
独特の匂いには梅肉や生姜があうからそれらを使った料理は――と思ったところで天ぷらが浮かんだのだ。
みんながおいしくご飯を食べられるようにするのは台所を預かる身として当然のことで、つまり九摩留を特別扱いしているわけじゃない。
あくまで家族の一人として特別、というだけで。
「一個は食べる。あとは……あげる」
泰明さんは悔しそうにつぶやくとご飯茶碗を受けとる。
ご飯は姫様以外、汁物は全員分をよそって順番に渡すと、いつもより静かに食事が始まった。
天ぷらは梅肉の強い塩気とシャキシャキした針生姜の風味が脂ののった鰯によくあっていて、天つゆなしでも問題なくいただける塩梅だった。
田作りは姫様の口にあわせて甘さ控え目にしてある。お酒にもご飯にもあう適度な甘じょっぱさで、カタクチイワシもよく煎っておいたからタレを絡めたあともしんなりせずにカリカリを保っている。
里いも、大根、ゴボウ、豆腐の味噌汁はいつものお椀ではなく深鉢にたっぷりと盛り、それ自体がおかずの一品になっていた。
味噌汁を飲むというより汁の多い煮物を食べる感覚に近いかもしれない。
ちゃんといつも通り作れていると思うし、みんなも料理を褒めてくれた。
でもわたしにはいまいち味がわからない。
ゆっくりと箸を動かす泰明さんを見て、自分の箸の動きも遅くなってしまう。姫様や九摩留に話を振られても、つい上の空になってしまった。
「ごっそさーん」
一番最初に食べ終わったのは、泰明さんのおかずのほとんどをもらい、いつも以上にご飯をおかわりしていた九摩留だった。
彼は炉縁の空いたお皿を重ねて持つと立ちあがる。そのままわたしの横を通って行くと思いきや、急に泰明さんのほうへと身を乗り出した。
そして――。
「わ!!」
物凄い大声で男が叫び、泰明さんが思い切り顔をしかめた。
身体がふらりとかたむき倒れそうになるのを、姫様がパッとつかんで防ぐ。
その様子がいやにゆっくりに見えた。
「く……九摩留!!」
気がつけばわたしも叫びながら立ちあがっていた。
怒りで身体がわなわなしてくる。
「なんて酷いことするの! バカッ! バカ九摩留!」
「へっ、いい気味。この前のおかえしだ。やーいざーこ、ざまぁねえ」
「こ……ッんの、バカ――――――――!」
「あかり、しー……。少し静かに」
「!」
姫様の声に慌てて口を押える。
そうだ、こんなことしてる場合じゃないのに。
青年は少女の膝に頭を載せてぐったりと横たわっていた。
姫様の後ろからそっとのぞき込むと、彼の顔は蒼白になっている。眉間にはしわが寄り目を固くつぶっていた。
「ふむ、丸一日耐えたか。いや上等上等。見事なり」
「なにかご存じなんですか!?」
この状況を当然のように受け入れている姫様に思わず勢いこんで尋ねる。
少女は赤い眼を細めると青年の髪を軽く撫でた。
「まぁな。それよりあかり、おぬしの布団をちょいと貸しておやり」
「はい、すぐに」
姫様の言葉に足音を立てないよう早歩きし、納戸から布団を持ちだして座敷に敷く。
すぐに戻って頭側を姫様に持ってもらい、足側をわたしが持って彼を布団の上に横たえた。
「あかりの匂いがする……」
眉間にしわを寄せたまま、青年がぼそりとつぶやく。
「すみません、わたしの布団です。ちょっとだけ我慢してください」
「我慢だなんて……。あー……クソ。油断したな……」
自嘲めいた言葉とともに目が薄く開く。
それを見て心臓が大きく音を立てた。
白目が、赤目になっていた。
「や、泰明さん、白目が赤……血みたいに真っ赤です。充血とかそういうんじゃなくて――」
「あぁ……血管切れたかな。へーき、これは痛くないよ。目も、見えてるから」
目の血管が切れるなんてただ事じゃない。
怖くて、不安で、身体の奥がどんどん冷えてくる。
「でも……」
「よかったのう泰明。あかりにこんなに心配されて。それにひきかえおぬしときたら、少しは良心が痛まぬかえ?」
「僕に良心なんて……」
彼は苦笑いしながら再び目を閉じる。本当は喋るのも辛いのだろう。
わたしはそっと布団から離れると、水音のするほうへ向かった。
九摩留はみんなの空いたお皿を洗ってくれていた。
お勝手に立つわたしと土間の流し場に立つ九摩留とでは、さすがにわたしのほうが視線が高い。
「九摩留、院長先生を呼んできて。倉橋医院の場所はわかるよね」
「俺、今忙しいんだけど」
男は目線を下にやったまま動こうとしない。
ふいに目の奥がツンと痛くなった。
見る見るうちに彼の姿が白くぼやけ、目に熱いものが溜まる。
できれば今すぐわたしが呼びに行きたい。
でもわたしは走ることができない。自転車だって乗れない。
それにひきかえ九摩留の足は速い。狐の姿になればそれこそ一陣の風のようだった。
今日ほどこの足をうらめしいと思ったことはない。
「お願い。呼んできて。お願いだから、早く」
こらえようとしても、声が、唇が、震えてしまう。
「……泣くんじゃねえよ、ったく」
面倒そうな声にぐっと歯を食いしばる。
半纏の袖でごしごし目をこすって正面を見すえると、九摩留は手ぬぐいで両手を拭きながらこちらにやってきた。
琥珀の眼は穏やかで、わたしよりずっと年上かのように落ち着き払っていた。
「なぁ、それは世話役補佐の仕事じゃねえよな。それにあいつは他人だから家族の急病でもねえ。なのに医者を呼んでこいと?」
わたしにとっては家族も同然だけど、九摩留はそうは思えないのだろう。
こればかりは仕方ないことでもある。
「泰明さんはお客様よ。お客様に大事がないようにするのはもてなす側の務めでしょ」
「ハッ! 招いてもねぇのに毎晩やってきてタダ飯たかるとか。そんな迷惑な奴、客とは言わねぇよ。おまけにお姫の……山神の棲処でぶっ倒れるとか。ただの厄介者じゃねえか」
「泰明さんをそんなふうに言わないで。それに泰明さんをタダ飯喰らいって言うのなら、わたしもあなたもタダ飯喰らいになるわよ。この屋敷にかかる費用、それにわたしたちにかかる費用は本家が出してくださってるんだから」
反論すると、男はフンと鼻を鳴らす。
「そのかわり俺たちはお姫の世話をしてるだろ。そのお姫はこの里山に特別な恵みをもたらす。その恵みによってここに住む人間の――特に倉橋本家の懐は温まる。俺たちあってのお姫なら、つまり俺たちも本家に利益をもたらしていることになる。だったら俺たちはタダ飯喰らいにはならねえ。違うか?」
「……すごいね九摩留。それ、自分で考えたの?」
思わず状況を忘れて九摩留の言葉に関心した。
まさか彼の口から利益という言葉が出ようとは。
「いや、葉月に教えてもらった。泰明はこの輪にいねえだろ? だから俺はあいつの出入りを禁止するよう提案する。あいつ……本当に邪魔」
男は最後の言葉を唸り声とともに吐き出した。
お菓子のおかげで少しは泰明さんに懐いたと思ったのに、そうでもなかったらしい。
大人の姿になってお菓子をもらえなくなってしまったからだろうか。
「泰明さんは輪の中にいるよ。姫様の恩恵を正しくいかす村人全員の、その健康を支えてくれてるんだから。怪我や病気を治すことは誰にでもできることじゃない。それって本家どころか村全体の利益を生み出している一端にならない?」
「でもあいつは治すかわりに金を取るだろ。そこで完結してるだろ」
「……じゃあ泰明さんから食事代をいただいたら九摩留は納得するの?」
「俺が言いたいのは、あいつを屋敷に入れるなってことだ。金を出してきても受け取らない。だから飯も出さない。そもそもここに来させない。それでいいじゃん。俺、なんか難しいこと言ってるか?」
九摩留は黄褐色の髪をゆらして不機嫌そうに腕組する。
この子は根本的なことを忘れているようだ。
「この屋敷の主は加加姫様で、管理者は倉橋様よ。泰明さんは倉橋様の大事なご子息で姫様の血を引くお方なの。わたしたちは姫様の家族だけど従者でもある。だからわたしたちが泰明さんの来訪を拒むことはできないし、そもそもそんな提案自体が不敬に当たるわ」
「チッ。ほんと腹立つ」
「でも……具合が悪いのに無理してここに来ることは、してほしくないよね」
「なんだ。あかりも迷惑がってんじゃん」
「迷惑がってません。心配してるだけです」
そう言うとわたしは九摩留に背を向けて居間に向かう。
屋外のお喋りに備えて出しておいた羽織を綿入り半纏と重ねて着て、マフラーも首にしっかり巻きつける。本当は緋袴の下に股引も履きたいところだけど時間がない。
あがり端に腰かけていつもの草履ではなく草鞋を履き、玄関の傘立てとなっている大甕からお父さんが時々使っていた長杖を取り出した。
これを支えにすれば片脚走りも多少速くなるだろう。
「わたし、ちょっと行ってくるね。お留守番お願いね」
九摩留よりかなり時間はかかるけど仕方がない。
戻るまでに泰明さんの容体が悪化しないよう祈りながら行こう。
玄関の引き戸に手をかけつつ振り返ると――そこには一匹の狐がいた。
彼は物言わずしなやかに肢体を動かす。
わずかに開けていた戸の隙間から黄褐色の毛皮がするりと出ていき、外灯の下で立ち止まった。
「九摩留……」
わたしが名前を呼ぶと、狐は弾かれたように走り出す。
その姿は放たれた矢のように恐ろしく速かった。




