60.節分(2)
「ただいまー」
「泰明さん、おかえりなさい」
すべての支度を終えて囲炉裏でみんなと休憩していたわたしは、聞こえた声にさっそく立ち上がって彼を出迎える。
「お仕事お疲れ様でした。コート、こちらでたたみます」
いつもは台所で料理の支度をしているけど、今日はもう終わっているので空いた手を伸ばす。
土間に立ったままマフラーを外す泰明さんはなぜか眩しそうにこちらを見た。
「どうもありがとう」
「今夜は鰯の天ぷらですよ。豆打ちが終わったらすぐに食べられるようにしますからね」
「ありがとう、楽しみだな。ちょっと手と口洗ってくるね」
受け取ったコートをたたんでマフラーと一緒に居間に置きつつ、台所を振り返る。
囲炉裏を離れた加加姫様が勝手口を出ようとする泰明さんになにか話しかけていた。
彼のその横顔に、先ほどの受け答えに――ふと違和感を覚えた。
「さてさて、泰明も来たことだし。豆打ちを始めるとするか」
「はい。今、豆をお持ちしますね」
姫様がこちらに向き直ったので、考えるのはあとにする。
座敷の床の間で三方にあげていた升を手に少女のもとへ急いで戻る。大事な行事とあって姫様は儀式用の純白の着物、わたしは巫女装束の上に黒の羽織を着ていた。
そういえば九摩留は大人になってもずっと変わらず作務衣姿だけど、彼にもこういう場面では袴や羽織を着てもらうほうがいいのだろうか。
「姫様。九摩留の恰好なんですけど、今後はどうしましょう。ちゃんとした服に着替えてもらった方がいいでしょうか」
囲炉裏端に座り前後に揺れている男を見つつ、姫様にそっと相談する。
彼はわたしが小学校で使っていた算数の教科書を開いているものの、読んでいないことは明らかだった。
「九摩留は……別にあのままでよい。どうせおまけみたいなものだしの」
そう言うと少女は男に近寄り背中に蹴りを入れた。
九摩留がビクッと跳ねてまわりをきょろきょろ見回す。
「んお、もう豆打ちか? ……て、うわっ泰明いんじゃん。クソ寒いのによく来るこった」
土間から居間にあがった泰明さんを見てなんとも失礼なことを言うけど、言われた本人はうっすら笑っただけだった。
明日から立春――春の始まりとされるけど、実際には今が一番寒さ厳しい時期のような気がしてならない。雪が降るのも大体二月が多い。
泰明さんの顔がやけに白く見えるのは、今夜の冷えこみが特に厳しいせいだろうか。
「よし。では座敷からいくぞ」
姫様の言葉にみんなでぞろぞろと部屋を移動する。
九摩留は縁側に行き、閉め切っていたガラス戸と雨戸を少しだけ開けた。
姫様がわたしの差しだす升から打ち豆を取る。
「福は内、福は内、鬼は外ー!」
かけ声に合わせて少女は三度豆を打っていく。
それから九摩留はその場に待機し、わたしたちは奥座敷、納戸、居間、お勝手、台所、土間をまわっていった。
勝手口から外へ、玄関から外へ向かって豆を打ったところで――。
「九摩留、いいよー!」
急いで戸を閉めつつ叫ぶと、縁側の九摩留が雨戸をバシッと閉めきった。
「おりゃ――――――!」
続いてその雨戸が外れるんじゃないかというくらいバンバンバン! と激しく叩きだす。
その瞬間、わたしの隣の気配が硬直した。
「泰明さん……どうかしました?」
そっと声をかけると彼はゆったりと笑みを浮かべる。
その顔は先ほどよりもさらに白い。
「え? どうもしてないよ?」
「本当ですか? なんだか調子が悪そうに見えますけど」
「んー……ちょっと疲れてるだけだよ。ご飯を食べたら、大丈夫」
「そう、ですか」
そうは言うものの笑みがどこか弱々しいし、喋りもいつもよりゆっくりしている。
あまり大丈夫そうには見えないのだけど。
「すぐ食事できるようにしますから、今日は囲炉裏で休んでいてくださいね。お手伝いは大丈夫ですから」
最近の泰明さんは配膳だけでなく料理のお手伝いまでしてくれていた。それどころか食器類を洗ってくれることさえある。
もう家族みたいなものだからと言われるとそれ以上拒むことも難しく、このままじゃよくないと思いながらもついつい甘えてしまっている自分がいた。
せめて今日は少しでも長く休んでいてほしい。
「でも」
「だめですよ。囲炉裏であったかくしててください。――あ、九摩留、わたし天ぷらするから他の盛りつけと配膳をお願いね」
ひとしきり雨戸を叩いた九摩留がこちらに来たのでさっそく仕事をお願いする。
彼は泰明さんを一瞥したあと、なぜかにやりと笑った。




