59.節分(1)
二月三日は節分の日。
節分は季節の分かれ目のことで、立春、立夏、立秋、立冬の四つがある。
でも今では節分というと立春の前夜、二月三日の節分行事をさすことが多い。
この日は豆を打って鬼払いをしたり、ヤイカガシと呼ばれる鰯の頭を刺した柊の枝を戸口につけて厄除けをする。
豆打ちの鬼払いは、追儺という旧暦十二月に行われていた宮中の年越し行事を真似たものらしい。
「鬼ってもったいないですよね。鰯を臭いって言って逃げちゃうんですから」
わたしは台所の流しで鰯を手開きしながら囲炉裏で雑誌をめくる加加姫様に話しかける。
鰯は煮ても焼いても酢締めしてもいいし、つみれにしてもおいしい。
たしかに他の魚に比べて臭みがあるけど、下ごしらえをしっかりやって生姜や梅干しとあわせればそれほど気にならない。
それに葉月ちゃんお手製のアンチョビという発酵食。味見させてもらったときはそのおいしさに物凄い衝撃を受けた。
鬼は鰯の無限の可能性に気づいていないらしい。
「カカッ。鬼が鰯を好んだら別のものを刺さねばならんのう。さてなにを刺そうか?」
「うーん……桃とか小豆とかですかね」
桃も小豆も破邪退魔でおなじみのもの。
でもこの時期生の桃は出回っていないから、高級品だけど桃の缶詰になるかもしれない。缶詰だと効果は変わるのかな。
「姫様だったらなにを刺します?」
「そうさのう。鬼の出入りを鬼門とするなら、その反対の猿……の首とか」
「それだと鬼だけじゃなくて人間も寄りつかなくなりそうですね」
苦笑いしつつ鰯の頭を指でもぎり、内臓ごと引っぱり取る。
内臓は完全には取り切れないので残りを指でしっかり掻きだし、水を張ったボウルに入れて血合いもしっかり洗い落とす。
それからお腹側を指で開き、中骨を引っぱってしっぽのあたりでぽきりと折り取れば腹骨も大方それで取れてしまう。
鰯は身が柔らかくて骨も多いから包丁を使うよりこうするほうがいいのだ。
ここで出た鰯の頭はあとで柊の枝に刺して、豆殻の火であぶりながら「よろず害虫の口を焼く」と言って唾をかけながら焼き焦がしていく。
ヤイカガシは焼き嗅がしという意味で、焼き焦がした鰯の臭気に耐えかねて、そして柊のトゲに目を刺されて鬼が逃げるのだという。
ヤイカガシを挿す場所は玄関や勝手口、厠、外にあるお風呂場や納屋などの出入り口。
豆打ちの前にすべて挿しておかなければならない。
「終わったぜー。言われた通り升に入れて三方に載せといた」
「ありがとう九摩留。ちゃんと福徳って言ってくれた?」
九摩留には居間の火鉢で豆打ち用の豆煎りをお願いしていた。
焙烙に入れた大豆を火鉢の弱火で丁寧に煎ることでふっくらカリカリに仕上がるのだけど、しゃもじでかき混ぜるたびに「福徳」と三回唱える必要がある。
「言った言った。つーかかき混ぜるたびに三遍言うとかすげーめんどくせぇんだけど。ずっと福徳福徳言ってたから口ん中カラカラ」
九摩留がぴょんと土間に降りて水甕から柄杓で水を飲む。
ぷはっと満足そうな息を吐くと、少し身をかがめてわたしの手元をのぞき込んできた。
「はぁ……。今日の晩飯は鰯か」
「鰯でーす」
琥珀の眼が明らかにげんなりする。黄褐色の髪も心なしかへにゃりと垂れた。
「俺それ好きじゃねえんだよな。なんか独特の味っつーか匂いっつーか。クセェもん」
「あらまぁ。九摩留は狐だと思ってたけど、実は鬼だったんだ?」
「鬼じゃなくてもクセェもんはクセェ。でもアンチョビは好きだ。あかり、今度あれ作ってくれよ」
「いいわよ。でも食べれるようになるまで数か月はかかるって聞いたんだけど」
時間はかかるけど、確かにあれは一度作ってみたかった。
きっと姫様もすごく喜ぶ味だと思う。
「なんでそんなにかかるんだ? もっと早く作れねぇのか?」
「なんでと言われても……早く作るのは多分難しいんじゃないかな」
「ふ~ん」
九摩留は作務衣の袖をまくると勝手口を出てバシャバシャ水音をさせる。
戻ってきた彼は隣に立つと鰯を一匹手に取った。
「手伝うからやり方教えてくれ」
「……どうもありがとう。それじゃあ、エラのところに指を入れて――」
こちらがひと通り説明しながらやってみせると、九摩留はわざと間違えることもなく処理を進めていく。
最初はちょっとぎこちなく、でもすぐに手早く鰯を開けるようになっていった。
その横顔はランプのほや掃除をするよりよっぽど楽しそうだ。葉月ちゃんが言ったとおり、この子は料理人に向いているのかもしれない。
二人で鰯をすべて捌くと開いた身に塩を振り、十分ほど置いてから少し酢を入れた冷水でよく洗った。
水気をしっかりふき取ったあとは叩いた梅肉を薄く塗って針生姜を載せ、くるくると巻いていく。あとは食べる直前に衣をつけて天ぷらにするのだ。
副菜は田作りに沢庵。
汁物は里いも、大根、ゴボウ、豆腐の味噌汁だ。
田作りとこの具材の汁物は節分の日お決まりの献立となっている。
天ぷら以外はすべて作り置きできるものなので、九摩留に手伝ってもらいながら一気に料理してしまう。
「なぁなぁ。デートだけどさ、いつ行くか?」
九摩留がお勝手の板間に座って根菜類を切りながら、こちらをちらちらと見てくる。
先日、九摩留から行きたい場所はあるかと聞かれてデパートに行こうと提案していたのだ。
葉月ちゃんへのお詫びの品を買うために。
「そうねぇ。あんまり遅いとまずいから……しあさってに行こっか」
明日から突貫で九摩留の着物を仕立てれば、お出かけにも間にあうはず。
というのも、今までは九摩留が屋敷どころか村の外に出ることを想定していなかったから、彼が持っている服は作務衣と浴衣、防寒用の綿入れ半纏だけなのだ。
それは大人の姿になってからも同じで、今はとり急ぎお父さんのものを着てもらっている。丈があわないのはもうしょうがない。
デパートは特別な場所だ。行くにはきちんとした格好で行かないといけない。
男性は背広姿で行く人が多いけど、あれは紳士服専門のテーラーで仕立てる必要があるから時間もかかる。急ぎの贈答品を買いに行くには到底間に合わない。
でも着物だったらわたしが作れるし、デパートへ行くにも変じゃない。
着物の仕立て直しはすべての糸を解いて布を洗い張りして――という作業が必要になるから何日もかかるけど、実は新品の反物や裏地の正花もある。
長襦袢はお父さんのものだと少し丈があわないけど、それは長着で隠せる。上に着るものも羽織じゃなくてマントにすればなんの問題もない。
つまりわたしは着物本体の長着だけ作ればいいことになる。
それなら布を断って縫い合わせるだけなので、集中して夜なべもすれば多分二日でなんとかなる……と思う。
わたしが担当している洗濯や掃除、台所仕事を九摩留が手伝ってくれれば、そしてお客さんが来なければという前提つきでもあるけど。
「葉月ちゃんの好きそうなお菓子、なにかわかった?」
「酒入りのチョコレートだとさ。あとはチーズケーキとラムなんとかって」
「え、もしかして本人に直接聞いたの?」
「ああ。駄目だったか?」
だめじゃないけど、それだと持って行く物がバレてしまう。
できればこっそり好きなものを買っていって驚かせたかったのだけど……仕方ない。
「九摩留のその正直なところ、いいと思うよ」
正直じゃないときもあるけど。まだなにか隠しているようだけど。
九摩留は嬉しそうな笑みを浮かべて、でもすぐに顔をしかめた。
「つーか俺たちのデートでなんで葉月の土産もん買うんだよ。あかりはなんか欲しいもんないのか? 俺が買ってやるよ」
「九摩留……」
なんと嬉しいことを言ってくれるのだろう。この子は本当に大人になったなぁとしみじみ思う。
でも、お言葉に甘えてしまったら九摩留の無賃金労働が延びてしまう。
それに欲しいものも特にはない。
あまり読む時間はないけど好きな小説や雑誌は本家から借りているし、クリスマスには倉橋様夫妻から……それに泰明さんからも贈り物をいただいている。
「わたしはいいのよ。せっかくだからわたしが九摩留になにか買ってあげる」
「え。本当か? いいのか?」
ぱっと九摩留の顔が輝く。
今の世話役の現金収入源である洋裁仕事は好調で、常に何着分も依頼をいただいているから金銭面には余裕があるのだ。
和服は多くの女性が作ることができるけど、型紙や複雑な縫い方が求められる洋服は誰でも作ることができない。それにミシンを持っている人もそうはいない。
でもわたしの場合は実家が洋服店だったお母さんから婦人服の洋裁全般を教わったことで、引き継いだミシンを使って村の女性たちからの依頼を多数請け負うことができた。
村の人たちは戦時中に都会から来た人たちとの物々交換ですっかり布持ちになっていた。
和服より洋服の方が動きやすくて快適であることがわかって以来、みんなそのほとんどを作り直しに回している。おかげ様で依頼はひっきりなしだった。
賃金のほとんどは屋敷用の貯金に回しているけど、個人的な蓄えも多少はさせてもらっている。
わたしだって自分で稼いだお金でなにか買ってあげるくらいはできるのだ。
「うん。姫様と泰明さんにもお土産買うんだから、九摩留だけなしってわけにはいかないでしょ?」
自分でも意地悪な言い方だと思った。
九摩留の顔がふっと真顔になる。
ここで彼がわーぎゃー怒ってくれれば姉弟喧嘩らしくなれるのに、でもそうはならなかった。
「……あかりのそういうとこ、俺、好きじゃない」
彼はむすっとつぶやくと里芋の皮を剥いていく。
わたしは口には出さずに、ごめんなさいと謝った。
九摩留に嫁になれと言われて以来、たまにからかうようにそう言われることがある。
でもそれ以上のことを言ってきたり、あるいはしてきたりというのはなかった。
なにもなさすぎて、やっぱり悪ふざけしてるだけなんじゃないかと思うときもある。
でもそうかと思うと、もしかして本気なのかな、と思わせられるときもある。
ふとしたときに感じる熱っぽい視線。
すれ違いざまに一瞬だけ触れてくる大きな手。
逆にこちらがうっかり触れてしまった時の、とびきり嬉しそうな気配。
これまで毎日一緒に生活してきたけど、そんなことは今までなかったように思う。
九摩留の気持ちは嬉しいけど、でもわたしはそれに応えることはできない。
諦めてもらうためには、多少酷いことも言わなければならない。
嫌いになってほしくはないけど、でも期待させてしまうことは一番よくないから。
「ぬしらもたいがい難儀よの」
雑誌を読んでいたはずの姫様が顔を上げて苦笑交じりにつぶやく。
九摩留はそれから黙々と包丁を使い、わたしも料理に集中した。




