58.二日灸
道切りからの帰り道。
泰明さんと一緒に門扉を抜けて屋敷に目をやると、茅葺屋根の軒下に巨大なミノムシがぶら下がっていた。
「く、九摩留?」
小さなつぶやきが聞こえたように、それまで静かだったミノムシ――じゃなくて狐姿で簀巻きにされた九摩留がギャオオウギャオオウ! と吠えたてる。
ぶんぶんと左右に揺れる九摩留の下では加加姫様が腕組みして縁側に座っていた。
屋敷名物、九摩留吊るし。
それは九摩留が姫様かお父さんを滅茶苦茶怒らせたときにおこなわれる折檻だ。
彼が屋敷に来たばかりの頃はよく見る光景だったけど、すごく久しぶりに見た気がする。
「わー懐かしい。僕もたまにやられたなぁ、あれ」
「えっ」
驚いて横を見ると、泰明さんは少し恥ずかしそうに笑う。
「僕も小さいときは悪ガキだったから」
「そ、そうですか」
幼いころに泰明さんと一緒に暮らしていた時期はあるけど、物心つく前というのもあって彼が吊るされているのを見た記憶がない。
というか泰明さんに悪ガキという印象はまったくない。むしろ物静かで淡々としているお兄さんという記憶しかないのに。
なにをしてそうなったのか非常に興味がある。
「姫様、九摩留がどう――」
片足でぴょんぴょん跳ねながら急いで縁側に近寄り、姫様に聞くよりも早く状況を悟る。
少女は髪や着物のあちこちにふわふわした綿状のものをくっつけていた。見れば縁側にもふわふわがばらまかれている。
「お灸をしようとしたんですか?」
「ああ、今日は二月二日だしな。男どもにしてやろうと思ったのだがこのざまよ」
二月二日と八月二日におこなうお灸は二日灸といい、他の日にお灸をするより効果が百倍あるといわれる。
本来は旧暦の二月二日だけど、お灸を避けたほうがいい日である瘟㾮日でなければ今日やるのでも構わない。あらためて旧暦の二月二日に二日灸をすればいいわけだし。
「九摩留はお灸が大嫌いですからねぇ」
逃げ回った挙句もぐさを強奪してかけてきたのだろう。その様子が目に浮かぶ。
かく言うわたしもお灸が好きとは言いがたい。
姫様からお灸のもとであるふわふわしたもぐさを取ってあげると、彼女はむっつりした表情で赤い眼を上に向けた。
「仕方ないから別の灸をくれてやったがの、まったく情けない狐よ。ギャンギャン大騒ぎして逃げ回って、まるで子どもだ」
「そうでしたか。じゃあみんなでお灸するということで、そろそろ下ろしてあげませんか?」
日曜日は屋敷のお茶渡しがお休みとはいえ、誰も来ないとも限らない。
これを他の人に見られるのはあまり良くない気がする。
「おぬしがそう言うのなら。九摩留には打膿灸をしてやろうかのう。あかり、やれるかえ?」
頭上のミノムシが激しく揺れた。
わたしはわたしで背中の焼印が疼くような気がして、こっそり眉をひそめる。
お灸には種類があるけど、中でも打膿灸はかなりきついお灸といえる。
よくおこなわれている点灸のもぐさはゴマ粒から米粒ほどと非常に小さいけど、打膿灸は大豆よりも大きいもぐさを燃やす。
当然肌への接地面も大きいので点灸よりはるかに熱くて痛い時間が続く。
それに点灸の痕はとても小さくてすぐ消えるのに対し、打膿灸は大きな火傷ができて化膿もする。
肌をわざと化膿させて軟膏を塗り、その膿を出すことで免疫力を上げるものなのだ。その痕はしばらく残ることになる。
「すみません姫様。あれはわたしにはできません……」
だいぶ昔に一度だけお父さんがお母さんにしているのを見たことがあるけど、あれはわたしにはできない。
というかやりたくない。
たとえ姫様の頼みであっても、誰かに火傷痕を作るような行為は絶対にしたくない。
軒下のミノムシの揺れがぴたりと収まった。
「よいよい、ではそこの医者に頼むとしよう。泰明?」
ミノムシがふたたび揺れはじめた。
「承知いたしました。もぐさは拳大くらいでよろしいですか?」
「もっと景気よくいこう。赤子の頭くらいでいいぞ」
ミノムシの揺れが過去一番に大きくなった。
もはや左右にというより振り子のように円を描いている。
「二人ともそういう冗談は――」
突然、ドサッと音がして茶色の塊が地面に落ちる。
あっと思ったときには九摩留が人身を取り、筵を巻きつけたまま物凄い速さで庭を駆け抜けていった。
「逃げられたか」
チッと舌打ちして少女が柏手を打つ。
切れて軒下から垂れていた縄がするりとほどけて、かかげられた小さな手にくるくると輪を描いて収まった。
「では次だ。おぬしにはこのわしが直々に灸をすえてやろう。光栄に思えよ、泰明」
「え、まさか打膿灸をですか?」
「クカカ。まさかもなにも、打膿灸ではぬるいくらいだ。おぬしは痛みに強いから、それこそ拳ほどの灸にしてやろうか。縛して背中一面にすえてやろうぞ」
「それはもはや拷問では……」
縄を両手に絡ませて、少女の赤い眼がどこか妖しげに輝く。
泰明さんは苦笑しつつ一歩うしろに下がった。
「姫様、今日は瘟㾮日じゃないでしょうか?」
「え?」
わたしはあわてて縁側をあがり居間のカレンダーを確認しにいく。
確かに今日の日付のところには庚戌と書かれていた。
瘟㾮日は陰陽道で吉日とされる日のひとつだけど、お灸をするには忌むべき日といわれる。
二月は戌の日が瘟㾮日なのだ。
「甘いな泰明。今日は旧暦だと十二月。よって瘟㾮日ではない」
十二月の瘟㾮日は卯の日。その理屈だとお灸をしてもいい日になる。
姫様が両手を引いて縄のたるみをビシッと伸ばす。縁側から立ち上がり沓脱石の草履を履くと、泰明さんがさらに一歩うしろに下がった。
「すみません。急用を思い出しました」
「神手ずからの灸を拒むと?」
「それに林田さんという名の急患が入るかもしれません。非常に残念ですが、今夜は夕餉をご一緒するのが難しいかと」
「カカカ、それはいい! 狐も今宵は戻らぬだろうし、久しぶりにわしと嫁御の二人きり……あまぁ~い時間を過ごせるのう。楽しみだのう、あかりや」
「あ、はい」
姫様の甘えんぼ期間は今も絶賛継続中だ。
返事をすると姫様はにーっと機嫌よく笑い、わたしの腰に抱きついた。
泰明さんの周囲に黒々とした空気が渦を巻きはじめる。
なんだかよくわからないけど九摩留も泰明さんも屋敷で夕食を食べないらしい。
ちょっとだけ寂しいけど、姫様と二人でのんびりお酒をかたむけつつ過ごすのも楽しみではある。せっかくだから夜の手仕事はお休みにしよう。
「では姫様。また明日」
「明日こそ来れぬと思うぞ。とびきりの灸が控えておるからな」
「絶対来ます。あかり、そういうことだから今夜は来れないと思う。すごく残念だけど……」
「わかりました。明日は節分ですから鰯料理を作ってお待ちしていますね。豆打ちも、ご一緒できたら嬉しいです」
「うん。必ず来るね」
しょんぼりしている青年を横目に、姫様は自分の身体ごとわたしに縄をぐるぐる巻きつけていく。
「あかりぃ~夜は貝合わせして遊ぼうなぁ~。褥で女二人きり、しっぽりと楽しもうぞぅ」
「パジャマパーティーですね。じゃあ今夜はいい紅茶を開けましょうか」
お父さんが健在だったらお行儀が悪いと言って絶対させてくれなかったであろうパジャマパーティーというものは、寝間着姿で布団の上、お菓子を食べつつトランプや花札で遊んだりするとても楽しい夜の過ごし方だ。
養父母が亡くなって一年経とうかという秋の夜長に一度開催したことがある。
貝合わせは蛤の貝殻に極彩色で描かれた同じ絵柄を二枚揃えることで得点になる、トランプの神経衰弱と似た遊びのこと。
ただしこちらは貝殻を三百六十個使う。
「姫様? 貝覆いのことをおっしゃってるんですよね? まさか違いますよね?」
うっすらと笑みを浮かべる青年の背後になぜか般若の面が見える。
少女はそんな彼をにやにやと愉快そうに眺めてしっしっと手を振るのだった。




