54.勝負の結果
「あかりよ、そう落ち込むでない。調理補助員ができたと思えばよいではないか。これでおぬしもだいぶ仕事が楽になるぞ?」
「そっか、あかりはそんなに九摩留とデートするのが嫌なんだね。九摩留、嫌がる相手を無理に付き合わせても楽しくないと思うよ。もうこの約束はなかったことに――」
「しねぇし! するもんかっての!」
三人のお喋りが耳から入っては反対の耳へ抜けていく。
正座した膝のすぐ前、囲炉裏の炉縁にはできたての料理が並ぶけど、わたしはまだ手をつけていなかった。
今夜は倉橋様が持ってきてくれた鶏もも肉を贅沢に一人一枚使った照り焼き、桂むき大根の青菜巻き、ジャガイモと玉ねぎの味噌汁、そして炊きたてご飯にお漬物という献立だった。
久しぶりにみんなで食事ができるというのに、そして早速ガスコンロが大活躍していつもよりずっと早くて楽な台所仕事ができたというのに――わたしの気持ちは浮かばない。
「ほれほれ、せっかくの温かい食事が冷めてしまうぞ。早くお食べ」
「……いただきます」
促されて、最初に味噌汁に口をつける。
ジャガイモと玉ねぎの甘さがたっぷり溶けこんだ味噌汁はいつもよりほっとするような味がした。早く火が通るようにと薄めにイチョウ切りしたジャガイモは歯があたっただけでほろりと崩れ、舌に優しくなじんでいく。
続いて食べやすいように切った照り焼きの一切れを口に運ぶ。
鶏肉は倉橋様からいただいてすぐ、醤油と酒、みりん、砂糖やおろし生姜を合わせたタレに漬けこんでおいた。
弾力のあるお肉を噛むほどに生姜が効いた甘めのタレと鶏のうまみがじゅわっとあふれて、お米やお酒にぴったりの味わいになる。添え物にした千切りキャベツにもぴったりの味だ。
わたしはキャベツをわしっと箸で取りあげると、悔しさとともにもしゃもしゃ噛みしめる。
九摩留との勝負は、わたしの負けだった。
三本勝負はどれも制限時間三分で行われ、できあがった量とそれらの厚みや幅、均一さといった技術力で姫様に判定してもらったわけだけど。
大根の桂むきはむいた長さで圧倒できたものの、その薄さは九摩留の方が上だった。
そしてキャベツの千切りとじゃがいもの皮むきは、文句のつけようもないほどにわたしの完敗だった。
普段の九摩留の振る舞いからは想像できないほど彼の包丁捌きは丁寧で正確で速かった。それはもう認めざるを得ない。
思えば彼は途中で仕事を放りだすことはしょっちゅうでも、仕事そのものは手抜きしていなかった気がする。
例えばランプのほや掃除も十五個あったら三個はきっちり磨きあげていた。
九摩留を見返すはずが逆に見返されてしまうなんて……自信があった包丁仕事で上を行かれて、わたしはもうどうすればいいのかわからない。
いや、それよりも気になるのが――。
「ねぇ九摩留。この前一緒に乾物作りしたでしょ。あのときわざと包丁を使えないふりしてたってこと?」
声が批難がましくなるのは仕方ないことだと思う。わたしの油断の一つがここにあったから。
先日、野菜の乾物作りをするとき、九摩留は自発的に切るお手伝いをしてくれた。
そのときのわたしはまさか彼が葉月ちゃんのお店で包丁を使っていたとは知らず、そして手伝おうとした彼がいかにも包丁ははじめてですといった様子を見せたので、この子は包丁を使えないと思いこんでしまったのだ。
実際、屋敷の誰も彼に包丁を持たせようとしなかったのだから、当たり前と言えば当たり前なのだけど。
「あーあれな。だっていきなり包丁使えたら不自然だろ? それにできないってことにしときゃあかりが手取り足取り教えてくれるし」
九摩留は箸を止めるとニシシと笑った。悪びれない彼の態度に怒りが再燃してくる。
「だから、そもそもなんで葉月ちゃんのお店で仕事してたって言わないの!」
「それはごめんて! それに言ったら行くなってなるだろ? 俺、あかりの飯が一等好きだけど葉月の飯もうまいし……。あかりだって葉月の飯好きだろ? もう行くなって言われたら嫌だろ?」
「行くなって言うのはね、それはあなたが無銭飲食するからよ」
「だって俺金持ってねえもん、しょうがなくね?」
平然と言い返す九摩留に大声が出そうになる。
そこへくすくすと可愛らしい笑い声が耳に届いた。
「九摩留もすっかり葉月に、店の仕事に慣れ親しんでおるようだな」
「ん? お、おお……まぁな」
「警戒だらけの狐が成長したのう。おかげでわしも安心してお前を預けることができる」
「は?」
「預ける?」
九摩留とわたしが同時に声をあげる。
姫様はビールグラスの残りを一気に煽ると床にタンッと置いた。
「九摩留よ。お前には正式に葉月のもとで働くことを命ずる。働きに行く日はわしが散策や儀式等で屋敷を空けている間。まぁざっと見積もって月に一週間程度かの」
「は……はぁぁあああ!?」
「異論は認めぬ。泰明、あとで親父殿に屋敷に来るよう伝えておくれ」
「承知いたしました」
「ま、待てよ! 俺は嫌だぞ、他の人間のとこで働けるわけが――」
「さんざん働いておいて今更なにを言う。その理屈は通用せぬ」
「でもよ、ほら、屋敷の仕事が――」
「問題ない。電気が通ったおかげでお前の仕事もいくらか減ったしの。それにわしの不在も丸ごと一週間ではないし、日中の間だけ。いくらでも調整がきく」
「ババア……さては俺を泳がせてたな」
九摩留は犬歯を剥き出して犬のように唸った。
「いやぁわしとしたことがすまなんだ。九摩留だって自分の小遣いくらい欲しかろうてなぁ。世話役補佐でありながら屋敷の外で稼がせてやるのだ、感謝してもよいのだぞ」
にやにやしながら青菜を口に入れる姫様を九摩留はしばらくにらんでいたけど、もうどうにもならないと悟ったのか、ふてくされたようにご飯をかきこんだ。
「え、ほんとに九摩留を働きに行かせるんですか? その必要はないんじゃ……この子のお小遣いならわたしが個人的に出しますし」
わたしにとって九摩留はまだまだ手のかかる子どもで、それこそよそ様に出したら迷惑どころか騒ぎまで起こしそうな気がしてならない。
正直、とても不安だ。
姫様はわたしに赤い眼を向けると、どこかなだめるような声を出す。
「葉月も人手は欲しいようだし、あの子は九摩留の事情も知ったうえでうまく付き合うことができる。これの社会性を磨くよい機会だ。それにおぬしも勝負してみてわかったであろ? こいつはやればできるのだ。やらないだけで」
「でも……」
姫様は遮るように片手を上げる。なぜか困ったように眉を八の字にしていた。
「あかり、なぜわしがこいつの出稼ぎをわしの不在の間だけと限定したかわかるか?」
「え?」
「こいつは意外と優秀でな、このこもりの間に自力で人身をとることができた。わしが留守の間、これを狐に戻しておいても人に成る可能性がある」
「はぁ」
そういえば山を下りてくる九摩留は姫様がなにもしなくても人に変化した気がする。
これまでは姫様に力を与えられて人になっていたわけだから、これは物凄い大進歩といえるだろう。姫様の負担も相当減るに違いない。
でもなんでわざわざ留守の間だけ狐に戻すのだろう。
姫様が留守の間に出稼ぎさせるのは……わたしも洋裁仕事に集中できるように、とか?
「あのね、あかり。姫様は九摩留があかりを強姦しないか心配しているんだよ」
ふいに正面の泰明さんが淡々ととんでもない単語を言い放ち、わたしは言葉を失った。
思わず姫様を見れば、やれやれというようにため息をついている。
自分の考えの至らなさに一瞬で頭のてっぺんまで熱くなる。確かに一度、姫様の留守中に変な悪ふざけをされたことがあった。
「誤解だ誤解! するわけねぇだろそんなこと。こいつら卑猥なことばっか考えてるからそんな発想出てくんだな。こんな純真な俺をよくそんな目で見れるもんだ。なぁ、あかり?」
「………………ッ」
横から九摩留が身を乗り出してきて、ビクッと姫様の方に身体をそらす。
「あ、あかりぃ」
悲しそうなその顔に、どうしよう傷つけてしまったかもと慌てる。
「ごめん、違うの、でもその、だって――」
弁解したいけどなんて言えばいいのか。
そんなわたしの背中を姫様がぽんぽん叩く。
「まぁ、そういうことだ。屋敷の仕事であかりに不便が出たらすぐ考えるからの、なにも心配せんでよい。ま、九摩留の場合小遣い稼ぎどころか壊した物の弁償で当面は無賃金労働になるだろうがな」
カカカ! と愉快そうに笑う姫様に泰明さんがビールのお酌をする。
「あかり、不便なときは僕を使って。なんでもするから」
「まさかまさか! そんなわけにはいきません!」
「水臭いこと言わないでよ。少しでも力になれたら僕だって嬉しいし。遠慮しないで」
「泰明さん……」
優しさが人の形をしていたら泰明さんになるかもしれない。
にっこりと笑う彼を見ていると再び横からにょきっと九摩留が生えてきた。
今度はわたしもその場にとどまる。
「あかり。俺がちゃんとやるからこいつにはなにも頼むな。あとおかわり」
「……九摩留はいいのね? これからちゃんと、外でしっかりやれるのね?」
「しゃーねぇけどやってやるよ。俺だって自分の小遣い欲しいし、でもあかりからはもらいたくねえし」
「そっか……。わかった、じゃあ頑張ってね」
不安だし、なんとなく寂しい気もするけど。
でももう彼も大人の姿になったのだから、わたしも意識を変えないといけないのかもしれない。
まだ手のかかる子だと思えても、危なっかしいように思えても、そろそろ彼を信じてあげないといけないのだろう。
……わたしが九摩留を子ども扱いしてしまうのは、そうすることでわたしがいないとなにもできないのだと思いたいからなのかもしれない。
「葉月ちゃんのところに行く前に、もう一度、世間一般の常識非常識を教えるからね。今度こそちゃんと覚えてね」
それで彼がまたなにかしでかしたら、そのときは一緒に謝ればいい。一緒に罰を受ければいい。
不安だから、となにもさせないでいるのは、きっとよくないことだから。
「ところでもうわたしに隠してること、黙っていることはないのよね?」
ご飯をよそって茶碗を差しだすと、彼は伸ばしかけた手を止めてひとつうなずいた。
「本当に?」
琥珀の瞳を何度か瞬かせると、もう一度こっくりうなずく。それからおかわりを受け取った。
なぜ返事をしないのか……。
わたしだって弟離れしようとしているのに、これじゃあ前言撤回したくなる。
じーっと見ていると九摩留は囲炉裏に向き直り、いやに熱心に千切りキャベツを食べはじめた。
わたしは知らないうちに彼の手の上で踊らされているのかもしれない。
そうと思うと急に悔しくなって、わたしも千切りキャベツをわしわしもしゃもしゃ無心で口へと運んだ。




